カテゴリー「クラシック」の46件の記事

2012年3月11日 (日)

ゲルギエフのラフマニノフ、交響的舞曲

Gergiev-Rachmaninovちょっと期待が大きすぎたのかもしれない。現代バーバリズムの権化のようなゲルギエフがラフマニノフの交響的舞曲を振ったというので、躊躇なく購入したのだが、実際に1回聴いてあれっと思い、気をとり直して翌日もういちど聴いてみたものの、残念ながら印象は変わらなかった。

ゲルギエフが振るというのだから、こちらは「なにか強くて大きくて恐ろしいもの」が、地の底で障害物に突き当たりながらうごめいているような、そして突如として地表に出てきてもんどり返ったあげくに地面に叩きつけられて、大きな穴をあけてまた地の底へ突入していくような、そんなイメージを期待してしまうし、また実際、そう感じさせるところもなくはないのだが、どうも、どことなく緩慢というか、ゆるく感じてしまうのだ。


最近、交響的舞曲といえば、サイモン・ラトルがベルリン・フィルとシンガポールで公演した演奏をNHK-BSで見た。これは映像ソースだったこともあって、あまりちゃんとは聴けていないのだけれど、ラトルらしい軽快さを感じさせつつもメリハリの効いた演奏で迫力もあり、とても楽しく聴いた (3Dのブルーレイで映像ソフトがリリースされている。映像作品としての評価は賛否あるらしいが、それよりもCDで出してほしい)。

もちろん、ゲルギエフにそういうことを期待しているわけではない。期待は上に書いたとおりだ。ただもうすこし緊迫感というか、息を詰めるような迫力を期待したかった。これは、オーケストラの運動能力の問題なのだろうか? オーケストラはLSO――ロンドン交響楽団。LSOといえば《スター・ウォーズ》なのだが、それはまあいいとして、そういう音楽も手がける一流のオーケストラについて、運動能力が、などというのも、たぶん失礼な話なのだろう。

どうにしても、冒頭に書いたように、期待が大きすぎたのかもしれない。ちょっと残念だ。

なおこのCDには、ストラヴィンスキーの三楽章の交響曲が併録されている。ぼくはこの曲のことはあまり知らないが、すくなくとも、以前から聴いているブーレーズの演奏(ベルリン・フィル版と、シカゴ交響楽団の版)と比べると、こちらはとても面白く聴けた。

 

Annotations :
GardinerBach32 ラフマニノフ/交響的舞曲, ストラヴィンスキー/三楽章の交響曲
Rachmaninov/Symphonic Dances
Stravinsky/Symphony in Three Movements
Valery Gergiev, Conductor
London Symphony Orchestra
LSO Live: LSO0688
LSOによる自主制作盤。すっかりおなじみになった。
Link : HMVジャパン

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2010年6月13日 (日)

ガーディナーのモンテヴェルディと、バッハ

Gardiner-Bach また、前回の投稿からずいぶんと時間が空いてしまった。「また」というより、こんなに空いたのははじめてだと思う。そのあいだにあったことについては、いい話はあまりないし、書きはじめるとキリがなくなるので、今回はさらっと、いつものとおり、買ったCDの話をしよう。

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ボックスCDの流行は止まる気配もなく、さまざまなレーベルからさまざまな企画モノがつぎつぎと発売されている。お買い得感だけで選んでいたら全部お買い得ということになってしまうので、さすがに最近はやや慎重になってきた――あまりいい言いかたではないが、目新しくなくなってきた、と言えるのかもしれない。


ジョン・エリオット・ガーディナー (John Eliot Gardiner) と、彼の率いるイングリッシュ・バロック・ソロイスツ (English Baroque Soloists) によるバッハの演奏を集めたボックスセットも、発売されてから興味は惹かれつつも「買うまい」と思っていた。ガーディナーの演奏は、これまでほかのCD聴いたことがないわけではないが、イギリス人で端正な顔立ち、というイメージ通りの真面目で端正な音楽をやる人、という程度の安直な認識しかなく、つよい興味をもったことがなかった。聴いた機会も、宗教音楽か、古楽器系の伴奏という程度だった。

DG111 それが、べつのボックスセットにたまたまガーディナーの演奏が入っていて、それを聴いているうちに、すこし考え方が変わってきた。そのボックスセットというのは、右の画像の通り、DGの111周年記念ボックス――55枚組で、これについて書き出したらまた大変なことになる――で、そのなかでモンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』がガーディナーの演奏で収録されていて、それを聴いたのだった。

ぼくはバロック音楽のことはあまり詳しくない。ただ、それでもモンテヴェルディの音楽のことをすこしは聴く機会を持ってきたのは、イタリアのリナルド・アレッサンドリーニ (Rinaldo Alessandrini) 率いるコンツェルト・イタリアーノ (Concerto Italiano) の一連のCDのおかげである。ぼくはバッハの音楽で彼らの演奏を知り、そして彼らの演奏を軸にモンテヴェルディ (と、そのほかのバロック時代の作曲家) の音楽に触れるようになった。

そうしてDGの111周年記念ボックスでガーディナーの『聖母マリアの夕べの祈り』を聴いて、そのスケールと構成力に驚いてしまった。さきに挙げたアレッサンドリーニは、最小限の人数と構成で、研ぎ澄まされた鋭敏な音楽をする。だからそれと比較すれば、たいていの演奏は大きく聴こえるに決まっている。ガーディナーの演奏で驚いたのは、編成が大きいとかそういう話ではなくて、闊達、ドラマチック、雄大で力強くありながら、緻密な美しさに満ちている「構成の見事さ」とでもいうようなところだった。もともとの楽曲の性格もあるのだろうが、これまで聴いたことのない、宇宙に浮かぶかのような音楽世界が広がっていた。

結果として、前に書いた、真面目で端正な音楽をやるひと、というガーディナーの印象はその通りなのだが、それだけではなくて、じつはものすごく強靭なものを持ったひとなのではないか――と思うようになった。

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そうして結局、先日発売されたガーディナーのバッハの宗教曲ボックスを買うことになった。

この22枚組に収められているのは、9枚が4大宗教曲――マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、クリスマス・オラトリオ、そしてロ短調ミサ――のこり13枚がカンタータ集となっている。バッハのカンタータは、その膨大な量のためにこれまで正面から聴いたことがないので、このCD集がいい機会となったらいいのだけれど、まだ聴いていない。まずはマタイとロ短調ミサを聴いた。

その演奏は、期待どおり端正ですばらしいものだ。モンテヴェルディのときのような、どこか別のところにいるかのような不思議さはなく、しっかり地に足がついている。ひょっとしたら、モンテヴェルディ経験がなければ、ぼくの耳はこのバッハを清涼で端正な演奏として聴いて、それ以上には進めなかったかもしれない。でもいまは、その清涼で端正な表情の下にある、静かな強さが感じられる。

もちろん、それは単なるプラシーボなのかもしれない。でもやはり、それだけではないような気がする。それは、これから時間をかけてすこしずつわかってくるのだろうと思う。つぎは、ガーディナーのベートーヴェンを買ってみようと思っている。

あ、でもそのまえにカンタータ入門、かな(笑)。

 

 

Annotations :
Gardiner-Bach バッハ/カンタータ&宗教曲ボックス
Bach/Sacred Masterpieces, Cantatas
John Eliot Gardiner, Conductor 
The English Baroque Soloists
The Mondeverdi Choir 
ARCHIV: 477 8735 
それにしても、このジャケットはいったい...。
Link : HMVジャパン
Gardiner-Monteverdi[3] モンテヴェルディ/聖母マリアの夕べの祈り
Monteverdi/Vespro della Beata Vergine
John Eliot Gardiner, Conductor
The English Baroque Soloists
The Mondeverdi Choir
ユニバーサル: UCCA3108
ふつうは安い輸入盤を紹介するのだが、HMVのカタログでは日本盤しか見つけられなかったので、これは日本盤。
Link : HMVジャパン
Alessandrini-Monteverdi モンテヴェルディ/聖母マリアの夕べの祈り
Monteverdi/Vespro della Beata Vergine
Rinaldo Alessandrini, Conductor
Concerto Italiano
naïve (OPUS111): Op30403
本文中では、ガーディナー盤との比較として紹介するかたちになったが、ぼくはこのアレッサンドリーニの演奏も傑作だと思う。
Link : HMVジャパン
DG111 111 Years Of Deutsche Grammophon
DG: 002894778167
残念ながら完売。
Link : HMVジャパン

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2009年12月28日 (月)

ホロヴィッツのスカルラッティ、ベルリン コンサート 1986

Horowitz-TheLegendaryBerlinConcert-1986 ひさしぶりに「待ちに待った」という思いを味わったCDが出た。ウラディミール・ホロヴィッツが、1986年にベルリンで開催したコンサートの録音がCD化されたのだ。

「待ちに待った」というのは、2つある。ひとつは、コンサートが行われてから20年以上が経過して、ようやくCD化されたということ。もうひとつは、たしか10月にHMVに注文をして、その月のうちに届くはずが、入荷予定が延びて、延びて――HMVと数回メールのやりとりをして――ようやくこの年末になって届いたのだ。


これは、ホロヴィッツが83歳のときのコンサートの録音だ。この翌月、彼は2度目の――そして最後の来日を果たしている。ほんとうに聴きたかったのは、この東京での演奏なのだが、今回発売されたベルリンのコンサートはそのひと月のもの。ぼくが楽しみにしていたスカルラッティの曲目はおなじで、おそらくはコンディションもあまり変わらないと思う。

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この2度目の来日のとき、ぼくはまだ学生で、クラシックを聴きはじめたばかりだった。なかなか日本にきてくれなかったホロヴィッツは、その3年前に、はじめての来日を果たしている。この1983年の初来日のコンサートは、吉田秀和氏の有名な「ひとこと」があるように、評判の良いものではなかった。

ぼくは1983年のときのことはよくは知らない。あとになって、吉田氏自身の著作や、さまざまな記事などで知識として知った程度だ。だから、2度目の1986年のときには、そうした初来日の印象、先入観はなにもなく、ただ往年の大ピアニストのコンサート――高額なチケットも話題だった――という程度の認識で、どちらかといえば興味本位で、NHK-FMでの中継を聴いたのだった。

ヴィルトゥオーゾとして知られるピアニストのコンサートだから、どんなに凄い演奏ではじまるのだろう――そう思いながら、たいして緊張もせず待っているうちに1曲目がはじまって、ぼくは思わず息を呑んだ。

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コンサートは、スカルラッティの3曲のソナタではじまった。ぼくは、そのときはじめてホロヴィッツというピアニストと、ドメニコ・スカルラッティのソナタを聴いたのだった。1曲目は K87 だった。その静謐で美しい響きに、あっというまに引き込まれてしまった。つづいて、チャーミングで闊達な K380。小太鼓を模した音の響きということらしいが、そのときにはまるで小鳥のさえずりのように聴こえた。どちらも、それまで――その後も――聴いたことがないほど、美しかった。

当時のコンサートのことは、これ以外に、じつはあまり覚えていない。とにかくホロヴィッツというピアニストの凄さと、彼のスカルラッティの美しさに、完全にやられてしまった。

その後すぐ、ホロヴィッツが1960年代にスタジオ録音した、スカルラッティのソナタ集を買ってきた。ところが、ここにはぼくが聴いたスカルラッティはいなかった。それから約20年、ぼくの音楽を聴く幅もひろがってきて、スカルラッティもさまざまな演奏を聴いた。ソナタでいえば、シフの演奏が印象的には近かったけれど――結局、あのときのホロヴィッツのようにスカルラッティを弾いた演奏は、ほかにはないのだ、ということを理解するようになった。

その演奏が、いまになって音質のよいCDで聴けるようになろうとは、思いもしないことだった。最後の3ヶ月、HMVには焦らされたけれど(笑)、とてもうれしい。

このCDの背面にはこう引用されている――"Anyone who has once heard Horowitz's pianissimo will never forget it" (Der Tagesspiegel, 21st May 1986)まさに、ぼくはそうだったのだ。

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Horowitz-InMoscow-1986余談を三つ。この年のホロヴィッツのコンサートは、モスクワでの模様がすでにCDとしてDGからリリースされている。でも、このCDには肝心のスカルラッティが1曲しか収録されてない!

もうひとつ。おなじくこの年のホロヴィッツの演奏は、YouTube で見ることができる。上で紹介したソナタ K86 は "カークパトリック番号" と言われる体系であらわしたものだが、ほかにスカルラッティのカタログ番号には "ロンゴ番号" があり、この番号であらわすと、おなじ作品が L33 となる。YouTube ではこのロンゴ番号で紹介されていることが多いようだ。ちなみに、この K86=L33 のモスクワでのライブの映像はここ。息を詰めて(笑)ご覧ください。

最後。ベルリンでのコンサートの終盤、アンコールのまえに弾かれたショパンの英雄ポロネーズ。なんて粋な演奏なのだろう、と思った。とても当時83歳とは思えない。

 

 

Annotations :
Horowitz : The Legendary Berlin Concerto 1986
Vladimir Horowitz, piano
Sony Music : 88697527082
Link : HMVジャパン

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2009年11月 3日 (火)

小さな手術とマレイ・ペライアのピアノ

Bach-Partitas-Perahia-1 依然あわただしい日々がつづいているなか、さらに追い討ちをかける出来事があった。手術のため1週間入院したのだ(^o^;。

原因となった疾病は深刻なものではなく外科的なもので、医者も気軽に引き受けてくれたけれど、なんといっても、こちらは抜歯以外には手術など経験したことのない初心者だし、手術当日に切り開いてみてはじめて予想より問題の部位が大きいことがわかったらしく、回復にもすこし時間がかかるなど、小さな手術ながら大変な思いをした。

手術が終わってからしばらく、麻酔で下半身が思うように動かせず、麻酔が切れたら切れたで痛みのためにあまり動けず、ベッドに張りつけになった。本を読むのも意外に疲れる――時間を忘れさせてくれるはずのジョン・グリシャムの『謀略法廷』は、ぼくの状況が悪いのか、あるいはグリシャムの今回の作品に問題があるのか、さっぱり進まない。

それで、病室の天井を見つめながら、iPodで音楽を聴いた。


以前、仕事で体力的にも精神的にも厳しい状況だったときに、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いたという話をした。今回はこれはダメだった。ぎゅっと握り締めたような静かなる力強さは重荷だった。それでふと、マレイ・ペライアのバッハ、パルティータをかけてみたら、これがすっと心に入ってきて、そのまま――ときおりウトウトとしながら――全曲を静かに、ゆっくりと聴いた。

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Bach-GoldbergVariations-Perahia 特別に好きと意識したわけでもなかったのに、ペライアのピアノは、いつも近くにあった。買った覚えも理由も思い出せないまま、勝手にCDが増えていく(爆)――そんな感じだった。いちばん印象的だったのは、自分の部屋の棚のなかに、バッハのゴールドベルグ変奏曲を「再発見」したときだ。たぶん買った当時1回だけ聴いて、あまり感じるところもなくそのまま棚にしまっておいたのだろう。PCにCDを移していく過程で、好奇心からこのCDもリッピングし、さらにiPodにも入れた。そうしてある日、聴いてみて驚いた。大人の余裕、ゆとりが感じられ、とても楽しげで魅力的な演奏だった。

ペライアのピアノは、アンドラーシュ・シフのピアノと居場所の似ているところがある。演奏の印象を文字にすると似た表現になりがちだし、雑誌『レコード芸術』で、矢澤孝樹氏が「ペライアはいつもシフの割りを食ってしまう」と書かれていて、なるほどと思った。でも実際には、演奏の結果から受ける印象が似ていたとしても、音楽の根幹のところはずいぶんとちがう。両者の音楽に愉悦感があったとしても、シフのそれが闊達で溌剌としているのに対して、ペライアはもっと静かで内向的なものを感じさせる。それはあるいは、ペライアが一時期、指の故障で活動を休止していたこととも関係しているのかもしれないけれど。

Bach-Partitas-Perahia-2 今回のペライアのパルティータは、先に発売された2番から4番が2007年の録音、今年になって発売された1番と5番6番が2008年と2009年の録音となっている。そしてこの2枚目が発売になるちょうどおなじ時期に、シフのパルティータ全曲の再録音がECMから発売となった。

レコード会社がちがうから仕方がないとはいえ、なんという間の悪さ。世間では、どちらかといえばシフの再録音のほうに話題が集まっていたように思うし、正直なところ、ぼくの印象もそうだった。

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でも結果として、病室にいた日、聴きたいと思ったのはペライアの演奏だった。ちなみに、持ち込んだiPodには、シフとペライア両方の演奏が入っていた。いつどっちを聴きたくなるのか、自分でもよくわからなかったからだ(笑)。

ベッドに横たわりながら、ペライアのパルティータをじっと聴いていると、不思議と心が落ち着いた。そしてCD2枚分――約140分のあいだ、ただひたすらこの音楽を聴いていられることに安息と満ち足りた気持ちを感じた。とてもいい時間を――痛みに耐えながら――過ごせた。

Chopin-Etudes-Perahia 退院して自宅にもどり、あらためて自分の部屋の棚からペライアのCDを探してみると、ほかにバッハのイギリス組曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、そしてショパンのエチュードなどが出てきた(このエチュードはたしか、あとになって制作上のミスが発覚した事故盤で、HMVから返品の連絡がきたものの、代替品がないと言われたのでそのまま手許に置いておいたものだ)。

このエチュード(練習曲集)を聴いていると、たとえショパン特有の激しく情熱的な楽曲であっても、パルティータやゴールドベルグ変奏曲で受けたのとおなじ印象を受ける。つまり、技術的に安心感があるのはもちろんのこと、豊穣な音楽を鳴らしつつも、音楽を楽しむ余裕・ゆとりが感じられ、どこか優しい演奏なのである。そのいっぽうで、一聴してガツンと来るような派手さはない。あわただしいなかで接していると、聴き逃してしまうのかもしれない。これは大人の音楽だな、と思う。

 

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2009年8月24日 (月)

サイモン・ラトルとBPOのブラームス、交響曲全集

Rattile-Brahms すでに国内盤が発売されているので入手されている方も多いと思うけれど、サイモン・ラトルとBPO(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)によるブラームスの交響曲全集が発売された。待望の、と言っていいと思う。全世界が待ち望んだ、という感じかも(笑)。

海外盤が豊富に流通するなか、付加価値を見出しにくい国内盤は、今回は特典として、全曲の演奏映像を収録した2枚組のDVDが付属するという、豪華仕様になっている。ぼくもこの「オマケ」にやられて、国内盤を購入した。ちなみに――これはPCでリッピングするぼくにはあまり魅力は感じられないのだが――CDはHQCD仕様となっている。


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CDで2回ほど全曲を聴いた。とは言っても、夏休みのシーズンだというのに仕事がやたらと忙しく、ほとんど休めないので、腰を落ち着けて聴いたというにはほど遠い状態になってしまった。思いあまってiPodに入れて――とも思ったけれど、BGMであればまだしも、交響曲を真剣に聴きたいときのiPodというのはさすがに気が引ける。それで、ようやく休めた先日の土曜日、子供たちとマクドナルドから帰ってきたあと、すこし時間を作って自分の部屋のオーディオで聴いた。

そうしたら、予想していたものとは大きくちがっていて驚いた。

2002年のVPO(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)とのベートーヴェンでは、ラトルはベーレンライター版を用い、ピリオド奏法も取り入れ、溌剌系の演奏を聴かせていた。最近リリースされたベルリオーズの幻想交響曲も、そのまえのジルベスター・コンサートを収録したロシアもののアルバムでも、BPOの能力を生かした明晰に聴かせる演奏で、その明晰さがある種の軽さにもつながっていたと思う。それで今回のブラームスでも、ややテンポを早めにした、どちらかと言えば「軽め」の演奏なのだろうと漠然と思っていたのだが、実際に聴いてみるとこれがまったくちがっていた。

重厚なブラームスだった。テンポは悠然として、よどみがなく、それでいて迫力と牽引力、高揚感もある。各交響曲とも、終楽章に向けてしっかりと気持ちを連れて行ってくれる。緩んだようなところはまったくない。1970年代から90年代を髣髴とさせる「巨匠」の演奏である。ただすこし往年の演奏とちがっているのは、雄大でありながら、中身がぎゅっと凝縮された充実した響きになっているところで、このあたりはさすがベルリン・フィルとラトルだなと思う。

現在最高のオーケストラと指揮者が、満を持してリリースしたブラームスの交響曲全集なのだから、ある意味これは当然の感想なのかもしれないけれど、正直なところ、まさかこういうスタイルの演奏が――2009年の録音として――聴けるとは思っていなかった。ほんとうに驚いてしまった。

ちょっと気になるところもあった。ところどころ、ディナーミク(音の強弱)がすこしわざとらしく感じられるところがあった。この瞬間に、ふとわれに返ってしまった。成功していればスカッと決まったのかもしれないが、素人のぼくの印象だと、充分にオーケストラが制動しきれなくてバラけてしまったような感じがした。

§

ブラームスの交響曲って、こういうものだったんだな――と思った。

十代後半にクラシックを聴きはじめるようになって以来、ぼくはブラームスの交響曲をとくに好きで聴いてきた。どこが好きだというのは難しいけれど、ベートーヴェンの古典派音楽の様式に、じわっと染み出てくるようなロマン派音楽の香りが感じられるところが好きなのだろう、という気がする。

ただ残念ながら、これという演奏にはなかなかめぐりあえない。

このブログの最初のころに、ヴァントとNDR(北ドイツ放送交響楽団)による80年代の録音を紹介した。この演奏がぼくの思っているブラームスにもっとも近い。

ほかにも、全集で言えば、バーンスタインやジュリーニ、そしてアバド――オーケストラはすべてVPO――の演奏をこれまでよく聴いてきた(そういえば先日、金聖響とオーケストラ・アンサンブル金沢によるブラームスのコンサートにも行った)。交響曲第4番には、カルロス・クライバーとVPOによる世界遺産というべき演奏があり、これは別格としても、ほかはどうしても重すぎたり遅すぎたり、あるいは逆に軽すぎたりして、どれもすばらしいが、もうあとほんのすこしのところでなにかが届かない。

結局――よく聴くかどうかとはべつに――自分のなかでスタンダードとして残っているのは、ヴァントとNDRによる80年代の演奏、ということになりそうだ。また、よく聴くという意味では、じつは最近はチェリビダッケとシュトゥットガルト放送交響楽団の演奏が気に入っている。これはぼくはスタンダードとは呼ばないものの、とても魅惑的な演奏だ。

ラトルとBPOによる今回の全集は、これまでぼくが聴いてきたブラームスのなかでも、もっとも重厚なものだと思う。ブラームスの交響曲は、こんなに巨大なものだったのか――そう思った。

これから、この演奏を気に入りつづけられるかどうか――というのは、まだしばらく時間がたってみないとわからない。ただ、すくなくともいまは、まだ何回でも聴いてみたい、と強く思っている。

ああ時間が...いよいよiPodに入れるしかないのかも。

 

 

Annotations :
ブラームス/交響曲全集 : Brahms/The Symphonies
Simon Rattle, Conductor
Berliner Philharmoniker
EMI Classics: TOCE-90097-99
Link : HMVジャパン

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2009年7月21日 (火)

フェルナーのバッハ、インヴェンションとシンフォニア

Fellner 最近ティル・フェルナーがECMに録音した、バッハの『インヴェンションとシンフォニア』を買った。

この曲集はどうしても教育用というイメージがあり、これまであまり熱心には聴いてこなかった。いまもべつに、熱烈に聴きたいと思っているわけでもないのだけれど、そういう性質の曲集であるにもかかわらず、このフェルナーの演奏が世間で話題になっているようだし、そして先日の平均律クラヴィーア曲集の通勤全曲演奏以来、ぼくの通勤時のトレンドがベートーヴェンからバッハになったこともあって、買ってみた。


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うすうす想像はしていたのだが、やはりこれはプロデューサーのマンフレート・アイヒャーの美学と、フェルナーの内向性がうまく融合した成果なのだろうと思う。静かで穏やかで、とても深くて悠然とした世界だ。期待どおり――期待以上にすばらしかった。

「フェルナーの内向性」というのは、決して "暗い" という意味ではない。知的で温かみがあり、優雅さも兼ねそなえている。その意味では、先日おなじレーベルでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を完成させたアンドラーシュ・シフとすこし世界観がかぶるようなところがありそうだけれど、シフのピアノはもうすこし力強く、溌剌とした感じがある。フェルナーのピアノは力強さというよりは穏やかでやわらかい。

そんなフェルナーのピアノを、アイヒャーの美学が全面的に支えている。音質は残響が豊かでありながら静謐で透明だし、それ以前に、最初に目に入るECMレーベルならではのジャケットのデザインから、その世界観はスタートしている。まさに穏やかで美しい、深い湖を思わせる「作品」だ。

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世間のひとたちとは逆に、ぼくはこのCDを買ってから、フェルナーが最近来日し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのチクルスを演奏したこと、それにあわせて雑誌『レコード芸術』にインタビューが掲載されていたこと、またおなじECMから、すでにバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻が発売されていたことなどを知った。平均律はHMVに注文した。

あたらしいピアニストと出会う、というのは簡単なようでむずかしい。もちろん毎年何人もの若いピアニストがCDをリリースし、雑誌や放送で取り上げられてぼくの前を通りすぎていく。だが、ぼくのような素人にとって、その名前が心に残るのは正直なところ稀だ。

小さなきっかけから、フェルナーの名前はきちんと心に残った。今回の『インヴェンションとシンフォニア』は、生存競争の厳しい iPod にも入った(笑)。まずは世間の皆さんと同様に、平均律の第2巻を期待したいところだけれど、これからの活躍をすこしずつ――楽しみに――見ていきたいと思う。

 

 

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2009年6月21日 (日)

『レコード芸術』名曲名盤300 と PCオーディオ

932905 途中で数年間のブランクがあるとはいえ、雑誌『レコード芸術』をかれこれ20年以上読みつづけている。ここ数年は定期購読にしているので、買おうかどうしようか迷うヒマもなく毎月届く。クラシックレコード業界の不振で目新しいニュースが少なく、いっぽうでインターネットで速報的なニュースが簡単に手に入る状況で、こうした月評主体の雑誌を購入する意味はあるのだろうか、と自問することも正直なところ少なくない。言葉は悪いが「惰性」で買いつづけているようなところもある。

ただ、こうした雑誌というメディアでしか手に入らない情報もある。それは、きちんとコストをかけた特集記事だ。「コストをかけた」というのは、多彩な有識者による多角的なデータや分析、論評に支えられた記事という意味だ。インターネットで無償で手にいれられる記事は、まさにこのブログのような一個人の独り言だったり、広告収入を前提とした記事だったりして、情報としては有用ではあるけれど、どうしても矮小化、希薄化している。それらをつなげて熟成させるのは読み手の意識なのだが、それだけではどうしても――すくなくともぼくの場合――ある一定の限界のなかに収まってしまう。


その点、雑誌など有償の情報の内容の濃さは、いうまでもなく無償の情報とは比較にならない。話が逸れる上に妄言のようなことを言うようだけれど、若い連中の仕事を見ていると、なにか技術的な課題があったとき、インターネットの検索だけに頼って解決しようとする傾向が強くなっているような気がする。有償の情報を上手に使えなくなっているのだ。一時期言われた「Google の検索でヒットしなければ、この世に存在しないのと同じ」というようなことを「信じている」というよりは頭からそう思い込んでいるような気がする。実際はもちろんそんなことはない。大きな本屋に行けば、上質で密度の濃い情報はたくさん――そうでない情報も事実としてたくさんあるが――並んでいる。

話をもどそう。だから、『レコード芸術』誌には今後もぜひとも特集記事でがんばってほしいと思う。この内容は、個人ブログからもHMVのサイトからも、なかなか手に入れられないものなのだから。

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すこしまえ――2009年5月号の特集は「新編 名曲名盤300①」だった。

『レコード芸術』は数年に1回、数ヶ月にわたってこの「名曲名盤」の特集記事を組む。前回は2001年だったようだ。いつもこの特集がはじまると、ネタ切れとマンネリの様相が感じられ、正直なところがっかりする。これまで真剣に読んだ記憶もあまりない。

ところが今回は、なぜか面白くて何度も読み返した。なぜ面白いのか、自分でもよくわからなかった。第1回の5月はバッハからベートーヴェンまでが取り上げられている。思いがけない演奏家がランクアップしているわけでもなく、たとえばバッハで見ると、端的に言ってしまえば声楽はリヒター鍵盤はグールドである。そうめずらしい結論でもない。あえて言えば、今年バッハの講評を担当されている矢澤孝樹氏の文章は、かすかに独善的なきらいがあるけれど、それ故に読んでいて面白い。でもだからといって、それだけで特集全体が底上げされて面白くなった、ということでもない。

いろいろ考えているうちに、それは、PCオーディオになって聴きくらべが簡単になったからだという気がしてきた。

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以前 Windows Vista化する話のときに大騒ぎして書いたとおり、ぼくのオーディオ・プレーヤーはPCである。それはもう何年も前からそうなのだが、プレーヤー・ソフトとして愛用している foobar2000 の Media Library が最近劇的に使いやすくなり、「録音データベース」がより簡単に使えるようになった。

TMD-Title じつはむかし、おなじように録音データベースを扱うソフトウェアを作ったことがある。それなりに手間ヒマをかけ、われながらまあまあのものができたのものの、ドキュメントを用意するのが面倒で(爆)、結局公開せずに終わった。このソフトは外部にデータベースを持つ方式で、演奏の情報だけでなく、コメントも記録することができ、データのリストをシステム手帳など小さいサイズにきれいに印刷できるのがウリだった。その機能は言うまでもなく、店頭でおなじCDの二重買いを防ぐためだ。

これはこれで個人的には充分使えていたのだけれど、やがて時代はかわり、CDはインターネットで――つまり自分の部屋で――買うようになり、一方で楽曲の情報はその楽曲自身がタグ情報として保持することが一般的になった。foobar2000 は、そのタグ情報をデータベース化し、高速で簡単に検索できるようになっている。最初はこの機能をオマケ程度に考えていてロクに活用もしていなかったのだけれど、Version 0.9 以降になってユーザインタフェースが一新され、それにあわせて使い勝手もグンとよくなった(ひょっとしたらぼくが知らなかっただけで、それ以前のバージョンでもおなじように使えていたのかもしれない)。タグ側の形式も、ID3v2でUnicodeが一般化して多言語が扱えるようになり、ひとつのタグに複数の値を書き込むこともできるようになってきた(クラシックの場合、演奏家を記録する場合に必須だ)。

こうしてPC内のデータを整備すると、たとえばバイエルン放送交響楽団の演奏は、とフィルターで入力すると、指揮者やレーベルを超えて、瞬時にこのオーケストラによる録音をリストアップさせることができる。自分でもこれだけ録音を持っていたのかと驚く。あの演奏はこのオーケストラだったのか、と再発見もする。もちろんそのまま演奏もできる。なにか調べたいことがあって検索したいときに、その効果は絶大だ。

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もちろん、PCを使おうがどうしようが、「聴きくらべ」はむかしからクラシック音楽の楽しみのひとつだった。ある楽曲を、さまざまな演奏家が自分なりの解釈をもって演奏する――ぼくのような聴き手は、その楽曲だけでなく、演奏家の個性や新しい解釈を楽しみにもしている。だから新しい録音が出ればついつい買ってしまう。

最近のCDの廉価化が深く関係していると思うけれど、手持ちのCDも飛躍的に増えて、だんだん棚から探し出すのも面倒というかむずかしくなってきた。『レコード芸術』の特集で名曲名盤300のリストをながめていても、その録音を持っているかどうか、記憶が覚束ないありさまだ。

PCに記録してあると、そういうことはあまり悩まなくてもいい。この特集でバッハの平均律クラヴィーア曲集はグールドが第1位だったことにすこし驚き――考えてみればあたりまえの結果なのだろうけれど、自分のなかではリヒテルの演奏が別格で位置していたので――あらためて自分が持っている録音をリストアップしてみると、リヒテル2種、グールド、シフ、グルダの録音が出てきた。グルダの演奏は持っていることも忘れていたし、かつても1回くらいしか聴いていないはずだ。そのグルダは今回の特集では第2位に輝いている。

早速、これらの演奏を mp3 に変換して iPod に入れ、通勤中に1ヶ月以上かけて全員による平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏会をやった。馬鹿げているようだが面白かった。グールドの演奏もグルダの演奏も聴いたのはひさしぶりで、それぞれの演奏について、思うところ・再発見したことはいろいろあったけれど、それはまたべつの話にしよう。

こういうデジタル技術の「軽さ」は、とてもいい。ひとむかしまえだと夢のようだったことができる。『レコード芸術』の「名曲名盤300」の特集は、こういう時代に、ひょっとしたらもっと面白くなってくるのかもしれない(笑)。

 

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2009年4月26日 (日)

鈴木雅明とBCJのマタイ受難曲@兵庫県立芸術文化センター

BCJ-Bach 先日4月12日、鈴木雅明とBCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン) による、J.S.バッハのマタイ受難曲を聴いてきた。場所は兵庫県立芸術文化センターのKOBELCO大ホール。

この公演の最大の目玉は、マタイ受難曲が「メンデルスゾーン版」だということだろう。メンデルスゾーン版マタイ受難曲については、すでにあちらこちらで書かれているのでここでは詳しくは触れないが、バッハの死後上演されることもなく時代とともに忘れられていたマタイ受難曲を、1829年にメンデルスゾーンがベルリンで復活演奏した。このときメンデルスゾーンはじつに20歳。すなおに「すごい」とうなってしまうのだが、それはいまは関係ない。メンデルスゾーンはこの演奏に際し、当時の聴衆に受け入れられやすいよう、もとのマタイ受難曲に対して、いくつかの改変を施した。約三分の一をカットし、楽器の扱いも当時の事情にあわせて変更た。これをどう捉えるかについてはさまざまな見方があるだろうが、結果として歴史が証明したように、メンデルスゾーンは「意気盛んな若者」というだけでは終わらず、歴史に名を残す人物となった。だからマタイ受難曲を改変する資格があるとかそういうことは言えないが、すくなくとも、後世のひとたちが「聴いてみよう」という楽曲となったのはたしかだと思う。


今回の公演に先立ち、ステージで簡単な説明をしてくれた鈴木雅明も、つぎのようなことを言っていた――古楽器を使おうがどうしようが、いまの時代に演奏するバッハは、当時とは異質のものである、今回のメンデルスゾーン版は、時代を超えてバッハの演奏を行っていくことについての、メンデルスゾーンの時代の例として捉えたい、というような。わかりやすい説明で、なるほどと思った。

そして、もちろん今年はメンデルスゾーン・イヤー(誕生100年)である。今回の演奏はその記念の意味も強いのだろう。演奏に先立ちメンデルスゾーン版について簡単に解説してくれた鈴木雅明も、「来年からはやりません」とさらっと明言していた。

その「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲。率直に言って、カットされていることはぼくにはあまり問題にはならなかった。というか、マタイ受難曲と言えば3時間ちかくかかるから、これを聴きに出かけていくというのは、正直それなりの覚悟がいる。それが約三分の一カットされ、2時間前後とわかっていたのは、
多少なりとも気持ちを楽にしたのは事実だ。そういう気持ちを抱くことが正しいのかどうかは、わからないけれど。実際の演奏で、もっとも違和感を感じたのは通奏低音だった。通奏低音は通常はオルガンやチェンバロで演奏される。ぼくが聴きなじんだ鈴木雅明とBCJによる1999年の「マタイ受難曲」では、オルガンが使われている。今回の「メンデルスゾーン版」では、その通奏低音にチェロが使われている。最初の説明を聴いたとき、ひとつの楽器が変更になっているんだな、くらいにしか理解していなかったのだけれど、冒頭の合唱が終わって福音史家のレチタティーボに入った瞬間にハッとした。清廉なオルガンの音色のかわりに、チェロがブン!と鳴ったからだ。

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さて、これだけ「メンデルスゾーン版」について書いておきながら、じつは今回は「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲のために出かけたわけではなかった。
いやもちろん、聴いたのは「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲なのだが、ぼくの目的はそれではなくて、BCJと鈴木雅明の演奏、そのマタイ受難曲を聴きに行ったのだ。

以前、このコンビによるバッハのロ短調ミサの録音について書いた。期待が大きすぎたこともあって、あまりいいようには書かなかった。ほかの方のブログを参考に読んでみると、誰もがその実演に接して絶賛に近いコメントをされていた。ぼくはその演奏をCDだけで聴いて、薄いとか偉そうなことを書いた。書いたことは個人的な率直な感想だからべつに悔やんではないけれど、ふだんから愛聴しているBCJと鈴木雅明の演奏について、そういう印象で書くことになったのは残念だった。いちどは実演を聴きに行かないといけないな、と思っていた。

先日、おなじコンビでヘンデルのメサイアの演奏会があった。これはこれでチャンスだったのだけれど、メサイアの全曲を聴きとおせる自信がなく(爆)、引いてしまった。そこへ聴きなじんだマタイ受難曲演奏会の告知があり、女房に頼んで12月の発売日にチケットを予約してもらった。「メンデルスゾーン版」だということはチラシからわかっていたけれど、そう大きくはちがわない(いくつかの楽器とカット....)だろうことは確認できたし、それよりもなによりも、BCJと鈴木雅明によるマタイ受難曲を聴けるという期待のほうが大きかった。

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結果はといえば、総じて満足して帰ってきた。ホールの工夫で、舞台両脇に字幕が出るようになっていて、ぼくははじめて、日本語でのストーリーを追いながらマタイ受難曲を聴いた。ひょっとしたら――三分の一カットされているバージョンだとはいえ――そのことが、ぼくにとってはいちばん大きな意味があったかもしれない。CDでも邦盤を買って、ブックレットを開きながら対峙すればおなじことができるのだが、無精者のぼくはこれまでそうして聴いたことはなかったし、たぶんこれからもそうだという気がする。ミサ曲とはちがって、受難曲はストーリーをもったドラマである。ただ音楽を聴いているだけ、という状況にくらべて、そのドラマ性はあきらかに高まる。処刑に向かう終盤には、思わず知らず固唾を呑んで見守った。

ソプラノのレイチェル・ニコルズは声が美しいうえに張りと声量があり、すばらしかった。鈴木雅明の指揮は、想像していたよりもはるかに精力的だった。だから音楽全体に張りつめた緊張感が出るのだろう、と思った。

またオーケストラと合唱の編成が左右に2パートに分かれていて、演じ分けているということをはじめて視覚的に理解した。CDを聴いているとき、その定位から「鳴り分け」があることは理解していたものの、それは単に声部や楽器による位置配置だと漠然と思っていた。ここまで明確に役割を分けているとは知らなかった(ぼくのオーディオや耳の定位の曖昧さがバレる話かも(笑))。

で、肝心の音楽そのものは――冒頭の合唱部分、息を詰めて「あの」響きを待ったのだが――残念ながら期待していた以上のものではなかったのだ。それは「メンデルスゾーン版」だから、ということとは関係なかったと思う。BCJはこの前日に千葉県の佐倉で、前々日には東京オペラシティで、それぞれコンサートを開いている。この日の兵庫県立芸術文化センターでの公演は3日目で、直前には関東から関西への移動も含まれている。なにが言いたいのかといえば、なぜか音の縦の線がそろっていないように感じたのだ。疲れていたのかも――プロの音楽集団に対して失礼な言い草だけれど、とっさにそう感じてしまった。

それはあるいは、このホールのせいだったのかもしれない。

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兵庫県立芸術文化センターは、2005年に開館した「響きの美しさ」を誇るホールである。阪神大震災からの復興のシンボルであり、個人的な話だが自分の住んでいる地域からほど近いところに、こうした立派な施設と音楽・芸術の活動拠点があることはとても心強く、さまざまな意味で思い入れがある。

大ホール――先日命名権のスポンサーがついて、KOBELCO大ホールと呼ばれるようになった――は4階席まであり、2001人を収容する。内部は見事に天然木で覆われていて、あまり吸音性の素材は見えないが、反射性の無垢板を複雑に組みあわせることで最適な残響が得られるようになっているのだろう。

この大ホールで、これまで何回かの演奏会を聴いた。今回のBCJのコンサートのつい1週間前にも、佐渡裕が指揮する兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の定期演奏会を聴いたばかりだ。去年ベルリン・フィルとラトルが来日した際にも、ぼくは行かなかったけれど、関西公演の一日はこのホールで行われた。つぎのウィーン・フィルの関西公演でも、このホールが使われるようだ。

すべて天然木である外観の美しさと風評から、響きの美しいホールという印象を受けるのだけれど、数回コンサートに通ううちに、どうもそうでもないような気がしはじめていたところだった。ぼくはいつも1階席の中ほどで聴いている。そこでは、ヴァイオリンの高域がすこし混濁して聴こえ、結果として弦が弱いように聴こえる。ふだん、このセンター専属のオケである兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の演奏会を聴くことが多いから、そういう音のオケなのだろうと思っていた。あるとき、チケットを購入したときに目ぼしい席が空いていなくて、3階席で聴いた。そのときには、弱さを感じさせることはなく、力強く豊穣な響きの音楽が堪能できた。それは、そのときの指揮者の実力だと思った。

でもやっぱり、それだけではないのかもしれない。ひょっとしたら、このホールは座席によってだいぶ音の印象が異なるのかもしれない――BCJの演奏を聴きながら、そう思った。このときも1階席の中ほどだった。どうも響きがくすみ、線が乱れ気味に聴こえる。BCJの透明感と張り詰めた力感のある音は、なかなか聴こえてこなかった。それで、上に書いたように、とっさに「疲れているのかな」などと思ったのだ。

つぎの演奏会の予定、というのは決めていないけれど、いちど2階席に挑戦してみたほうがいいのかもしれない。

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でも、そんな音の話は些細なことであって、上にも書いたように、ぼくは充分に音楽に没入することができ、満足して帰ってきた。次の受難節の季節、たぶんまたマタイ受難曲が演奏されるだろうと期待している。来年の復活祭は4月4日。3月から4月に入ったばかり、というのは休日であっても休めるかどうか微妙な時期だが、機会があったら是非また聴きに行きたい。つぎはふつうのマタイだったらいいけど。

 

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2009年3月29日 (日)

年度末の狂騒と後期のベートーヴェン

Mark 前回「プライヴェートが忙しい」とふざけたことを書いていたら、年が明けて仕事のほうで大きなクレームが発生して、ひさしぶりに大変な日々を過ごすことになってしまった。製造に携わる方なら誰しも経験があると思うが、こういう状況になると、カチリとスイッチが切り替わり、平穏な日々には考えられないような生活に突入する。こんなに働いたのは久しぶりだし、怒り心頭の顧客との毎日の応対は精神的にも堪えたが、一方で管理者としてではなくリーダとして若い連中と現場で格闘する感覚も久しぶりで、苦しいなかにもときどきはいいこともあった。


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これを書いている現在――大きな勘ちがいをしていなければ(爆)――なんとかピークはすぎた。つい1、2週間まえまでは、収束の日がくるなんてとても信じられなかったので、いまでも半信半疑の気持ちは残っている。いつなんどき携帯電話が鳴って、あらたな問題の発生が告げられるかもしれない――なんて思いはじめると心臓が痛む思いだが、そんな気持ちを抱えながらも、今週末は、この狂騒に入ってからはじめての土日の連休を取らせてもらった。

家族と遊びに出たいところだったが体力が持ちそうにないので、すこし買い物につきあい、女房にまかせきりだった水槽の手入れをして、それから、これもまたひさしぶりにオーディオの電源も入れた。いまは802Dからはモーツァルトの弦楽四重奏曲(ハーゲン弦楽四重奏団)が流れている。この心境のせいか、さっきから小林秀雄の「疾走するかなしみ」という表現が脳裏から離れないので、そのうちべつの楽曲に変えるかもしれない(笑)。

もちろん、こうして音楽を聴くのもひさしぶりだ。精神的にも体力的にも「いっぱいいっぱい」の生活をしていると、通勤のお供だったiPodすら聴けなくなってしまっていた。聴きたい欲求はあるのだが、行きも帰りも蒸気機関のように頭が動いていると、音楽がうるさく感じられてしまうのだ。

そんな状況で、それでもどうしてもなにか音楽を聴きたいと思ったとき、いろいろ試したあげく、唯一受け入れられそうに感じたのは、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲だった。

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ABQ-Beethoven2こういうとき、バッハやモーツァルトではなく、シューベルトでもなくて、あるいはノラ・ジョーンズの癒し系の歌声でもなくて、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲だというのは、自分でも意外だった。クラシックに詳しい方なら、これだけ話しただけで「やっぱり」と言われるのかもしれないが、ぼくははじめて、自分に引き寄せるような気持ちでベートーヴェンの音楽を聴いたような気がする。

ベートーヴェンの音楽といえば――安直に言えば、活力であり構造美であり「苦悩から歓喜へ」であり、疲れているときの景気づけであればともかく、本当に疲弊してしまったときに聴くような音楽ではないような気がする。おそらくその印象は、中期までのベートーヴェンであればたしかにその通りだ。後期――というのは1817年以降、ベートーヴェン自身の年齢で言えば四十代後半から五十代なかばにかけて――の音楽は、1曲をのぞいて、慣れないひとにはとっつきにくい世界に行ってしまっている。例外の1曲というのは、いわゆる交響曲第9番ニ短調「合唱つき」のことで、この曲は、いうまでもなく有名だ。

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ここで、後期のベートーヴェンの世界観について語ろうなんてぼくには無理なハナシだし、個人の仕事の苦境をベートーヴェンの苦悩になぞらえるような、感傷的な話で辟易させるつもりもない。ただ、これまでふつうに楽曲として聴いてきたものが――それまでも知識として時代背景、ベートーヴェンの置かれた状況、精神状態に思いをめぐらせることはあったとしても――今回のiPodから聴こえてくる音楽には、これまでとはちがう側面が垣間見えるようになった。

ベートーヴェンの後期の楽曲は、一聴すると、平板に聴こえる。またそれ故に捉えどころがなく、ともすればBGMとして流れ去ってしまう。そんな不遜な態度で接しているのはこの世でぼくだけだったのかもしれないけれど、かといって真面目に対峙して聴こうとすると、こんどは逆に精神的な厳格さを感じて、息苦しさのようなものを覚える。要するに、あまり音楽に近づけず、遠まきに外側から眺めて満足していたようなものだった。

いまでもそれはあまり変わらないのだとは思う。急にすべてが理解できたとか、そんなおめでたい話はない。ただひとつひとつのフレーズが、「言葉」のように聴こえるようになってきて、そのフレーズを通じてじっと音楽の線を追っていくと、なにかひとつになったように感じられる。むかし、芸術とは心象を他人に伝えるための手段である、と言ったことがある。じっと聴いていると、蒙昧としていながらも、その「心象」が伝わってくるような気がする。音楽の抽象性が損なわれたとか、表題性を持ったとかそういう意味ではなく、抽象は抽象のまま、厳しさも優しさも、ある種の諦観や孤独感も、そっと丁寧に心象としてこちらのなかに伝わってくる。それが疲れた気持ちにじんわりと効いてくる。

それは、ベートーヴェンの中期の楽曲や、他の作曲家からはなかなか得られない印象だった。後期のベートーヴェンについて、知識や感覚として知っていたことを、あらためて身体全体で感じられたような気がした。

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それ以外のこと――というのは、たとえばなにかに対する積極的な興味とか物欲とか、そういったものは、この狂騒を通じてすっかり影を潜めてしまった。つまり、休日もただ呆然と無気力に過ごす「くたびれたおっさん」と化してしまっている。しばらくリハビリをする必要がありそうだ。

 

 

Annotations :
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲全集 : Beethoven/The Complete String Quartets
Alban Berg Quartett (ABQ)
EMI Classics: 5 73606 2 
1978年~83年録音の不朽の名作。しかも7枚組で3,521円と破格値。結局、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲といえば、こればっかり聴いている。
Link : HMVジャパン
 

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2008年11月 3日 (月)

マウリツィオ・ポリーニの2008年のショパン

PolliniChopin1 ポリーニの新譜が出た、と聞いて心躍らせるひとが、いまはどれくらいいるのだろう。そういうぼくも、楽しみにはするが、強い期待感とか、わくわく感というのは最近はすこし薄らいできた。逆に言えば、すこし前までは、ポリーニの新譜が出るということは、それはとても特別なことで、またひとつ「演奏の基準」が生まれる――みたいな、大げさに聴こえるだろうけれど、ほんとうにそんな居住まいを正すような気持ちになったものだ。


ポリーニの新譜なんて、べつに特別視するようなことなんてなにもない、という向きも当然あると思う。でも、ぼくはずっと、ポリーニのピアノ録音を「原器」のように捉えてきた。あたりまえだが、彼のピアノは決して機械的な正確さで音符を追っただけ、というようなものではない。冷徹で抑制的な興奮・感情が絶えず音楽の底辺に流れていて、そこにがっちりとした構築力、牽引力、そして完全にコントロールされた呼吸感があって、音楽の躍動を的確に伝えてくれる。それは感傷的な演奏とは対極にあるけれど、「音の羅列で表現された作曲家の心象」を、殺したり捻じまげたりすることなく、むしろ的確に伝えてくれるように思うのだ。はじめて知る楽曲があったとしたら、ぼくはまずポリーニで聴きたい、といつも思ってきた。それがぼくにとっての原器になって、そのあとで、さまざまな演奏家の表現を図っていく。

たとえば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、90年代にアバドとベルリン・フィルとの組み合わせで録音したもの――これは収録上の手ちがいか、あるいはホールの音響的限界のせいか、なにかくすんだような大変残念な録音になってしまっている――では、とてもよく聴きなじんだ楽曲のはずなのに、この録音で、はじめて聴こえてきた音符の響きがある。それはポリーニのピアノがトリルひとつとっても弛緩がなく、1音1音が完全に制御されてきちんとした音として聴こえてくる結果なのだろう、と思う。

いまさら紹介するまでもないが、マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)は、1942年生まれのイタリア、ミラノ出身のピアニストだ。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝。当時審査員長だったアルトゥーロ・ルービンシュタインが「われわれの誰よりもうまい」と言った、という話は有名だ。そして、その直後から10年間、ポリーニは国際舞台から姿を消す。さらに研鑽を積むためだった、と言われている。1971年、DGからアルバムの発売を開始、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンといった古典派、ロマン派の音楽から、現代音楽まで幅広いレパートリーを録音しているが、なんでもやみくもに弾くということはなく、むしろ限定的に曲を選んで録音している印象だ。

最近のポリーニの録音は、1980年代から1990年代に見せた、まるで修行僧のような趣きからはすこしはなれて、ややリラックスした、肩の力が抜けたような印象になってきた。2005年のショパンのノクターン(夜想曲)全集の発表は、これまでのポリーニの選曲からはすこしちがうものを感じさせた。そのすこし前、1990年代にリリースしていたショパンといえば、スケルツォ集にしても、バラード集にしても、まだ硬派の延長にあるように思えたし、実際に演奏もそうだった。でも、夜想曲?――いったいどんな音楽になっているのか、これはおもしろそうだと思って、CDがリリースされるのを楽しみに待った記憶がある。そしてその演奏は、たしかにそれまでのポリーニの印象とはすこしちがうものだった。

PolliniChopin2夜想曲というのは、その曲想からおのずと感傷的に傾く。そしてポリーニの演奏にも、たしかにその感傷が感じられた。でも、同時にポリーニならではの鉄の意志というか、いくぶん覚めたようなところもあって、なんとなくちぐはぐな感じもした。手許にあったアシュケナージの夜想曲と聴きくらべてみると、アシュケナージはもちろん感傷性が全面に出ているし、録音も残響がたっぷりとして音像が柔らかく、その感傷性をさらに前面に押し出している。正直、こうした演出は何回も聴くにはつらい感じだし、実際にそう何回も聴いた記憶がない。その点、ポリーニの演奏は抑制が効いていて、つらい感じはない。楽しみにしていたこともあって、これは愛聴盤になるかも――と思ったが、やはり何回も聴きたいと思うようなことはなかった。ひょっとしたら、ぼくは夜想曲そのものが苦手なのかもしれない。

そのあとに、モーツァルト(2006/2008年)とベートーヴェン(2007年)が登場した。ベートーヴェンは初期のピアノ・ソナタ集で、1970年代から途方もなく長い時間をかけて行われている全曲録音の終焉に向けての一部、という位置づけに見えた。そしてモーツァルトはVPOをみずから弾き振りしてのピアノ協奏曲集――ポリーニは若いころに、やはりピアノ協奏曲を一部録音している。でも、いまになってもう一度モーツァルトを――しかも弾き振りで――手がけることになるとは、多くのひとが思っていなかったにちがいない。

このモーツァルトとベートーヴェンにはここでは詳しくは触れないが、ひとつだけ気になったことがあった。モーツァルトを聴いていて、上で書いたような、ポリーニらしい「冷徹で抑制的な興奮、がっちりとした構築力、牽引力」を感じると同時に、すこし、以前には微塵も感じられなかった「急ぎ感」があるように思った。磐石のテンポ感がわずかに揺らいで、せっかちになってきているように感じられた。

PolliniChopin4 そうして先日、また新しい録音が発売された。それは、ふたたびショパンだった。しかもこれまでは、スケルツォならスケルツォ、バラードならバラードで、まとまった楽曲を集成して録音してきたのに、今回はまるでひと晩のコンサートのように、バラード、マズルカ(ポーランドの舞曲)、ワルツ、即興曲、そしてピアノソナタの第2番を集めた構成になっている。やっぱりなにかが変わっている。2005年の夜想曲のあたりからなんとなく感じさせはじめたポリーニの変化が、いよいよ具体化していくような感じだった。

それは考えてみれば当然のことなのだろう。カルロス・クライバーが永遠に存在するわけではなかったのと同様、ピアノ演奏の原器であり原器ゆえに不変、と思っていたポリーニも、すでに60歳代後半だ。ぼくは自分ではきちんとは弾けないから想像するしかないのだけれど、ピアノの演奏は物理的な体力を要求する。近年、高齢になるまで活躍したピアニストのひとりにウラディーミル・ホロヴィッツがいるが、このひとの80歳代の演奏を見聴きすると、まるでピアノの鍵盤には重さなどないかのように、指が羽のように軽やかに動いて音楽が響く。スカルラッティのピアニッシモも、ショパンのフォルテも、すべてその調子でまるで魔法のようだが、ポロネーズなどを聴いていると、さすがに音楽はときどき覚束なくなることがある。

そういう演奏をしたホロヴィッツに比べれば、もちろんいまのポリーニにはまだまだ時間がある。ポリーニとホロヴィッツでは、音楽、ピアノに対する姿勢がまるでちがうから、それを比べるわけにもいかないだろうが、ポリーニの演奏も、探求の道をいく歩調をすこしゆるめて、より優しく、より個人的に音楽を聴かせてくれるようになってきたと思う。

結果として、このポリーニのショパン集は、ぼくはとても気に入った。勝手なことを言えば、ピアノソナタが第2番ではなく第3番であってくれたらもっとよかったのだが、それは些細な話だ。「原器」たるポリーニのピアノは健在だが、ここではすこしやわらかく、リラックスしているように聴こえる。そして、1枚のCDにさまざまな楽曲が含まれているから、表情がつぎつぎと変わって、ぼくのような素人でも飽きさせない。とくにマズルカとワルツは、2005年のノクターンと同様に、感傷的になりすぎず、かといって単調でもなく、ポリーニならではの「抑制的な興奮・感情」が込められていて、とてもすばらしい。風雲児の到達した枯れた世界、などというととても陳腐で恥ずかしいが、そういうように思ってみたくもなる。

これから、ポリーニがどういう世界に向かっていくのか。だれもが望むように、ベートーヴェンの全集を完成させてほしいけれど、それは仕事の完結性、記念碑としての意味であって、未録音のベートーヴェンのソナタのうち、どうしてもポリーニで聴いておきたいという曲は、正直なところぼくにはもうない。聴きたいとしたら、かつて若いころに録音した後期のピアノソナタ群だ。いっそのこと、これから、ふたたび全曲録音してくれないだろうか――なんて、いまのポリーニを見ていると、そんなことを望みたくなってくる。それから、シューベルトのピアノ曲も、もういちどぜひやってほしい。

 

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