カテゴリー「映画・テレビ」の2件の記事

2007年10月 8日 (月)

アーノンクールの『フィガロの結婚』 (2006年ザルツブルグ音楽祭)

2006年のザルツブルグ音楽祭で話題となった、ニコラウス・アーノンクールとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト『フィガロの結婚』が、昨夜NHKのBS2で放映された。この公演は、いまをときめくロシアのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコのスザンナ役がいちばんの目玉なのだろうが、それよりもクラウス・グートの演出とアーノンクールの音楽が、辛口というよりは "激辛" だとの評判で、そちらへの興味のほうが強く、楽しみにして観た。


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雑誌『レコード芸術』では、2006年のザルツブルグ音楽祭での演出は事件扱いである。2007年10月号ではまさにこのグート演出の『フィガロの結婚』公演のDVDを観て、小宮正安氏は「セックスとバイオレンス」と評している。趨勢をご存知の向きにはいまさらな話だろうが、ヨーロッパのオペラ演出はだいたいにおいて日本人が期待するような絢爛豪華というものではなく、そういう牧歌的な時代はとうに通り過ぎて20世紀末的退廃に入り、そのまま炸裂的に突き進んでいるように見える。一部には奇を衒ったようにしか見えない演出もある。ようするに彼らは飽きてしまったのだろう。と思う。そのあたりの変わり身の速さは、表現を極限まで簡素化し、精神性を主として息の長い芸術を育んできた日本人にはなかなか理解できないところもありそうなのだが、いっぽうで、前線に立つ演出家、演奏家たちが "つぎなる表現" を求めて変化していくことも、まあ理解はできなくはない。モーツァルトの音楽はずいぶん以前から、そしておそらくは今後も存在しつづけていくのに対して、演出家、演奏家たちはいまを生きていく必要があるのだから。

それでも、ぼくも『レコード芸術』での評価記事を読んで心配になったクチだ。なにしろ場所はザルツブルグ音楽祭、オケはウィーン・フィルである。これ以上に "いま" のクラシック音楽を代表する状況はないというところで、「セックスとバイオレンス」のモーツァルトが演じられているとしたら、それがいまを代表するモーツァルトということである。遠く世界の反対側から、「そんなふうにしないでくれ」と小声で叫びたくもなる。

いったいそこでなにが行われているのか、純粋に興味があって観てみたいと思いつつ、わざわざ確認のためだけにDVDを買おうという気にもなれなかった。そこへ、ありがたくもNHKが衛星放送で放映してくれたのだ。ひさしぶりにわくわくして放送を観た。

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悪くないじゃないか――そう思った。アーノンクールの音楽は、ここにきて突然攻撃的になったわけではなく、まえからそうだった。それ以上に異様なことにはなっていないようだ。すくなくとも、ぼくの耳にはそう聴こえた。これはアーノンクールの音楽であって、モーツァルトの新定義ではなく、ヨーロッパ全体の音楽を代表しているわけでもない。そう思って楽しめば、いつものアーノンクール節でしかない。よいか悪いかではなく、ぼくはアーノンクールの音楽だと思って聴いた。

グートの演出はと言えば、これを「セックスとバイオレンス」というのは、ちょっと大げさじゃないかなあというのが正直な感想だ。たしかに緊張感の持続する切れ味のある演出であり、リラックスしてモーツァルトのオペラを楽しむというよりは、社会派の演劇を観ているような感覚にちかい。ただ充分に写実的でありつつも、いっぽうで舞台芸術ならではの逸脱もあり、楽しめた。だれに訊いても不評を買いそうな天使ケルビム (もともとの台本にはそういう存在はなく、演出家の創作だ) の登場も、ぼくは好感を持った。それでこそ舞台芸術ってものじゃないか。

クリスティーネ・シェーファー演ずるケルビーノが、視覚的にはなんといっても際立つ。ネトレプコのスザンナが、いかにも田舎から出てきた小間使いという地味な容姿の演出になっているのに対し、シェーファーのケルビーノは乱れたブロンドと薄汚れた顔にセーラー服という姿で登場する。シェーファーはさすが知性派といわれる故か、そんなケルビーノ役に表情も動きもぴったりと嵌め、こうしたきびしい演出であってもまったく違和感なく演じている。有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のところでの虐待的なシーンには、思わず息を詰める。前出の「セックスとバイオレンス」という評価の所以も一部にはこのケルビーノの扱いにあるようだが、たしかにケルビーノ全体にただよう "危なさ" が全体に緊張感を与えているのはまちがいない。それは、くり返すようだが、単なる演出上のケルビーノの見せかただけでなく、シェーファーの見事な演技が強い効果をあげているように思う。

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結局、最初に感じていた心配はどこかへと去り、ぼくは肯定的にこの舞台を観た。すくなくとも、真っ暗ななかに岩とか棒をひとつ置いて、「これが舞台だ」というような演出に比べれば、充分に説明的で演劇のように楽しめる。アーノンクールの演奏も、1996年のチューリッヒでの演奏を引っぱりだして比べてみたところで、とりたてて過激になったとも思えない。

今回は事情があって全篇は観ることができなかったのだが、逆にDVDかCDを買ってもいいかな、と思うようになった。買っても全篇を通して楽しむ時間はほとんどないだろうから、優先度としてはあまり上げられないのだが....。

 

Annotations :
アーノンクールの『フィガロの結婚』(日本語字幕つきDVD) :
イルデブラント・ダルカンジェロ(Br:フィガロ)
アンナ・ネトレプコ(S:スザンナ)
ドロテア・レーシュマン(S:伯爵夫人)
ボー・スコウフス(Br:アルマヴィーヴァ伯爵)
クリスティーネ・シェーファー(S:ケルビーノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ニコラウス・アーノンクール(指揮)
DG UCBG1202
Link : HMVジャパン

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2007年10月 7日 (日)

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』

ノスタルジア10月というこの気候のいい時期に、今年のうちの会社では4連休がある。平日の休みも含まれるのでどこか旅行でも行こうということになるはずだったのだが、間の悪いことにというかなんというか、子供の運動会と地区の運動会が連続してど真ん中に入っており、しかも役員をしている女房はその前日は準備で借り出され、結局連休の初日はひとりですごすことになってしまった (その翌日からは、もちろんぼくも運動会へ行くのだ)。


もちろん、ふだん騒々しい生活をしている者としては、ひとりの休日はこれはこれでありがたく、めったに観れない映画でもゆっくり楽しむことにした。未開封のままのDVDやらサーバーのなかやらをあさっているうちに、ふと (またもや) 録画した覚えのない映画を見つけた。アンドレイ・タルコフスキーの映画はこれまで何度か観ていたが、見つけた『ノスタルジア』は観たことはなかった。

「ちょっとさわりだけ」というつもりで再生し、結局そのまま最後まで観つづけてしまった。10代後半から20代にかけて、さまざまな "表現" に惹かれてさまざまなメディアに触れることに夢中になっていたころ、圧倒的な映像美と "間" で存在感を示していたタルコフスキーの映画も何本かは観ていた。でも正直なところ、40歳をすぎた年齢になって、世のサラリーマン諸氏と同様、大げさに言えば経済戦線の最前線で過ごす日々にあって、精神的な意味でこうしてゆっくりとタルコフスキーの映画を観てすごすことができようとは思ってもいなかったので、自分でもすこし驚いた。

しかも、窓の外は秋のさわやかな昼下がりである。今年は猛暑のためか、日差しは秋というよりは夏の名残が感じられる。さんさんと輝く太陽。決してしんとした夜中というわけではない。タルコフスキーを観るにしては、われながらちょっとへんな時間帯のような気がする。

そんな状況でも、とくに退屈することもなく違和感を感じることもなく、静かに最後まで観ることができたのは、たぶんこの映画の時間感覚、静寂感が頭と身体にしっくりとなじんだということなのだろう。むかしから、日本人はまったくの無音の世界ではなく、虫の音や風の音に静寂を見出してきたと聞く。それとおなじようなことが自分にも起こったような気がする。なにもない状況ではなく、タルコフスキーの映画がぼくのところに静寂をもたらし、その静寂が休息の時間を与えてくれたのだろう。

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『ノスタルジア』は、タルコフスキーの映画としては比較的わかりやすい。たぶんソ連の外(イタリア)で制作されたことが影響しているのだろう。映像美はそのままに、独りよがり度がいくぶん緩和され、周囲にすこし心を開いているように思える。それはイタリアで「外」のスタッフと仕事をするという、タルコフスキーの心情と譲歩の表われのような気がする。いっぽうでイタリアならではと思える美的感覚が、モノトーン的なタルコフスキーの映像美にほのかな色彩感を添え、映像は圧倒的に美しい。

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