ときどき、あまり聴きたいわけでもないのに、まるで義務であるかのように買ってしまうCDがある。聴いてみてちょっとがっかり――というのはしかたがないにしても、そもそも買おうかどうしようかという状態のときに、たいして聴きたいわけでもないはずなのに、長い「購入候補リスト」の上位に突然上がってくるCD。たいてい、それは新譜で、話題性のあるCDということになる。
先日とりあげた例では、ピエール=ロラン・エマールのバッハがそうだった。これはそのときにご報告したとおり、聴いてみて驚いて、自分の先入観をすこし恥ずかしく思いつつ、愛聴盤のひとつになった。なお、これは余談ながら、一昨日(6月7日)、そのエマールが『フーガの技法』をリサイタルで弾いているのを偶然にテレビで見かけた。もうすこし早くから放送に気がついていればよかった、と悔やみつつ興味深く見た。楽譜を見ながら弾いているのが印象的だった。
あるいは――これも結果としてよかった例――最近クラウディオ・アバドが故国イタリアで進めている、若いオーケストラ「モーツァルト管弦楽団」との一連の録音。モーツァルトの交響曲集とヴァイオリン協奏曲全集のふたつが出ている。ぼくはいまのカルミニョーラのモーツァルトへの興味もあって、ヴァイオリン協奏曲全集を買った。オーケストラの溌剌とした新鮮な響きと、アバドとカルミニョーラによる肩の力の抜けたのびのびとした「大人のモーツァルト」が聴けて、とてもよかった。正直、買うときにはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を自分が熱心に聴くとも思えなかったけれど、結局、休日の午前中、家にいるときにはよくこの録音を聴いている。この分だと、そのうち交響曲集のほうも買ってしまうかもしれない。
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タイトルに挙げた、エマーソン弦楽四重奏団によるバッハの『フーガ集』は、逆にあまり肯定的には聴けなかった例だ。
エマーソン弦楽四重奏団といえば、いうまでもなく、ニューヨークを拠点として活躍する、いまやアメリカのみならず世界を代表するカルテットのひとつだ。デビュー当時からその先鋭的な解釈、演奏が話題になり、1997年のベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、ちょっとした事件と言っていいくらいの反響を引き起こした。躍動的、スリリング、スポーツカー、伝統無視、そんな形容で語られることが多かった。ぼくも、そんな彼らのベートーヴェンの弦楽四重奏曲をよく聴いているし、モーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲は、一時期は家族中(笑)での愛聴盤にすらなった。
そうしたエマーソン弦楽四重奏団の特質からして、近代・現代の作品での録音が多く、評価も高い。バルトークやショスタコーヴィチはその代表的な例だ。最近ではさらに変化球気味に、グリーグ、ニールセン、シベリウスという北欧の作曲家による弦楽四重奏曲集を発表して話題になった。こうした楽曲は、たとえばフィンランディアやBISといった北欧系のレーベルから発売になるというのであればわかるが、メジャー・レーベルであるDGから発売になるというのはめずらしい。こうした企画が、演奏者自身によるものなのか、あるいはレコード会社による発案なのか、ぼくにはよくわからないけれど、エマーソン弦楽四重奏団が持つイメージと、レコード会社が求める話題性がぴたりと一致して、具体的な成果として出てきたものだという印象だ。
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そんなエマーソン弦楽四重奏団の最近の特徴的な活動のひとつとして、トランスクリプションの演奏がある。
トランスクリプション(編曲版)とはいっても、彼らのやることだから、いわゆる有名な曲をカルテットで演奏しました、というような単純なものではない。2003年にバッハの『フーガの技法』、その翌年にはハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』をリリースしている。ちなみに、これらの楽曲は、ぼくが勝手にトランスクリプション系だと言っているだけで、厳密にはたぶん正しくない。たとえばハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』は、たしかにもともとオーケストラの楽曲として作曲されたものだけれど、弦楽四重奏曲版に編曲したのは作曲者自身であり、トランスクリプションではなく本来の弦楽四重奏曲だという考えかたもできる。ぼくがここでいう「トランスクリプション」というのは、字義通りの編曲版ということではなく、通常ではあまり弦楽四重奏としては演奏されない楽曲を、企画的な意図も含めて演奏すること、くらいの意味だ。
『フーガの技法』の楽曲そのものは、エマールの同曲の演奏について書いたときに触れたので、その由来についてはもうここではくり返さない。エマーソン弦楽四重奏団によるこのCDが発売されたとき、ぼくは大いなる興味と期待をもって購入した。そして一聴して首をかしげた。ほとんどなにも、感じるものがなかった。演奏がとても平板的に聴こえた。
それは、ぼくの音楽演奏の背景知識が貧弱だからかもしれない。この『フーガの技法』を弦楽四重奏として演奏することが、どれほど技術的に困難なことか、平板的と感じられた演奏を実現することがどれだけ驚異的なのか、ほとんどわからない。だから単純に『フーガの技法』のトランスクリプションとして聴いた。
そこになにを期待していたのか。それまでのエマーソン弦楽四重奏団の演奏に対する肯定的な印象と、いっぽうで――これはべつの演奏家のものだが――おなじように弦楽器を交えて演奏した、リナルド・アレッサンドリーニとコンチェルト・イタリアーノによる、研ぎ澄まされ、緊張と生命感に溢れた音楽の印象――そうしたものが脳裏にあったのだと思う。
翌年にリリースされた、ハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』でも、平板的という印象は変わらなかった。ただこの楽曲のことは、そもそもよく知らないところが多いから、ぼくはきちんとはわかっていないのかもしれない。弦楽四重奏としての美しさはわかったけれど、魅力という意味では感じとることができなかった。
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そうして今年――2008年、3作目となるトランスクリプション、『フーガ集』がリリースされた。このリリースのことを知ったとき、どうしても前2作のことが脳裏をかすめ、あまり積極的には聴きたいという気持ちにはなれなかった。でも買った。ここまでくると買うとか買わないとか、そういう議論はないような気がした。こんどこそ、という期待感もあった。
この『フーガ集』は、バッハの鍵盤楽器用の『平均律クラヴィーア曲集』から編曲されたものだ。主な編曲者は、モーツァルトと同時代の作曲家だというフェルスター。「主な」というのは、このアルバムにはフェルスターのほかに、モーツァルトによる編曲で、K.405として知られる『5つの4声フーガ』の5曲と、ベートーヴェンの編曲による1曲が収められているからだ。
聴いた結果はといえば――楽曲がちがうとはいえ、その演奏から受ける印象は、やはり『フーガの技法』と大きくはかわらなかった。美しくはあるけれど平板的で重たく、魅力的とは感じられなかった。どうもくり返して聴きたいという気持ちにならない。
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こうした印象になる理由のひとつには、聴くほうの耳が古楽器によるピリオド奏法に慣れてきてしまっている、ということがあるのだと思う。ノン・ビブラートで軽快に、躍動的に音楽の生命感を伝えていこうという最近のアプローチは、さきに挙げたアレッサンドリーニによるバッハでも、音楽の緊迫感となって力強く伝わってくる。
でも――そもそもエマーソン弦楽四重奏団は、スリリングで先鋭的な音楽の旗手として語られることが多かったのではないか。それがここにきて、急に保守的で鈍重になってしまったのだろうか。
この記事を書くにあたって、手許にあるさまざまな彼らの演奏を聴きなおしてみた。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いているとき、ふと思いついて、ジュリアード弦楽四重奏団の90年代の録音をかけてみた。乱暴な言いかたをすれば、演奏を収録した時期はほぼいっしょであっても、エマーソンは新世代、ジュリアードは前世代の演奏家だ。そして、こうしてあらためて比べてみると、前世代であるはずのジュリアード弦楽四重奏団の演奏のほうが、活力と躍動感があった。
そういうことか――すでに多くの方々が理解されていることに、ぼくはいまようやく気がついたのだと思う。スマートでスリリングな演奏といわれる故に、エマーソン弦楽四重奏団の演奏には、力強さが感じられない。緊迫感はあるけれど、決して躍動的ではない。それがバッハやハイドンのバロック音楽において、ことさらに表面化してきたのだと思う。それはどこか、まえに触れたカラヤンの音楽美学に通じるものがある。
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エマーソン弦楽四重奏団は、さまざまな挑戦を厭わない、アグレッシヴな演奏家集団だ。今回のバッハにしても、ぼくにはそれを受けとる器がなかったということだけで、高い演奏技術や深い作品への理解など、世間ではおおむね高い評価で迎えられている。でもやっぱり、今回の演奏は、ぼくとしてはどうも好きにはなれない。画期的な試みだけに、そしてこうした試みを世間で話題にできるだけのブランド力があるだけに、個人的には残念な気持ちが拭いきれないけれど、まあそれはそれで仕方がない。
いっぽうで、さきに挙げたモーツァルトやブラームスの演奏は、あらためて聴いてみると、彼らの「薄味」の部分が、ある種のさわやかさにもつながっていて、気持ちがいい。ブラームスで「さわやか」とはなにごとぞ、という話もあるけれど、手許にあるものでマイヤーとABQによる演奏に比べてみても、シフリンとエマーソンの演奏は、これはこれでやっぱりよいのだ。だからこそ、わが家のような素人集団でも、重たさと悲しみにメゲるようなこともなく、くり返し聴くことができたのだろう。
弦の奏法という意味で、今回のバッハの演奏を支点にして、はからずも現在の古楽界の演奏とエマーソン弦楽四重奏団の演奏を比べることになった。両者は似ているようでいて、じつは対極にあるということに今回はじめて気がついた。
弦楽四重奏という演奏形式は、ハイドンが開拓し、ベートーヴェンが確立したとされる。それ故に、この弦楽四重奏を旨とする演奏家集団は、バロック音楽の奏法とは直截的には邂逅することはないのかもしれない。それでも、趨勢としてはピリオド奏法が確実にベートーヴェンの演奏を変えつつあるし、やがてはこの弦楽四重奏の分野にも、さまざまな影響を及ぼしてくるのかも――なんて、つい想像してしまう。でも、それをやるとしたら、エマーソン弦楽四重奏団ではないのかもしれない。
ぼくは決してピリオド奏法信者というわけではない。それでも、これらの奏法の考えかたの基礎のひとつとなっている、音楽に生命力や躍動感を、という方向性は、ひとりの聴き手として歓迎している。それが「奇をてらう」ような演奏になってしまったら困るけれど。
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