カテゴリー「文化・芸術」の3件の記事

2009年4月26日 (日)

鈴木雅明とBCJのマタイ受難曲@兵庫県立芸術文化センター

BCJ-Bach 先日4月12日、鈴木雅明とBCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン) による、J.S.バッハのマタイ受難曲を聴いてきた。場所は兵庫県立芸術文化センターのKOBELCO大ホール。

この公演の最大の目玉は、マタイ受難曲が「メンデルスゾーン版」だということだろう。メンデルスゾーン版マタイ受難曲については、すでにあちらこちらで書かれているのでここでは詳しくは触れないが、バッハの死後上演されることもなく時代とともに忘れられていたマタイ受難曲を、1829年にメンデルスゾーンがベルリンで復活演奏した。このときメンデルスゾーンはじつに20歳。すなおに「すごい」とうなってしまうのだが、それはいまは関係ない。メンデルスゾーンはこの演奏に際し、当時の聴衆に受け入れられやすいよう、もとのマタイ受難曲に対して、いくつかの改変を施した。約三分の一をカットし、楽器の扱いも当時の事情にあわせて変更た。これをどう捉えるかについてはさまざまな見方があるだろうが、結果として歴史が証明したように、メンデルスゾーンは「意気盛んな若者」というだけでは終わらず、歴史に名を残す人物となった。だからマタイ受難曲を改変する資格があるとかそういうことは言えないが、すくなくとも、後世のひとたちが「聴いてみよう」という楽曲となったのはたしかだと思う。


今回の公演に先立ち、ステージで簡単な説明をしてくれた鈴木雅明も、つぎのようなことを言っていた――古楽器を使おうがどうしようが、いまの時代に演奏するバッハは、当時とは異質のものである、今回のメンデルスゾーン版は、時代を超えてバッハの演奏を行っていくことについての、メンデルスゾーンの時代の例として捉えたい、というような。わかりやすい説明で、なるほどと思った。

そして、もちろん今年はメンデルスゾーン・イヤー(誕生100年)である。今回の演奏はその記念の意味も強いのだろう。演奏に先立ちメンデルスゾーン版について簡単に解説してくれた鈴木雅明も、「来年からはやりません」とさらっと明言していた。

その「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲。率直に言って、カットされていることはぼくにはあまり問題にはならなかった。というか、マタイ受難曲と言えば3時間ちかくかかるから、これを聴きに出かけていくというのは、正直それなりの覚悟がいる。それが約三分の一カットされ、2時間前後とわかっていたのは、
多少なりとも気持ちを楽にしたのは事実だ。そういう気持ちを抱くことが正しいのかどうかは、わからないけれど。実際の演奏で、もっとも違和感を感じたのは通奏低音だった。通奏低音は通常はオルガンやチェンバロで演奏される。ぼくが聴きなじんだ鈴木雅明とBCJによる1999年の「マタイ受難曲」では、オルガンが使われている。今回の「メンデルスゾーン版」では、その通奏低音にチェロが使われている。最初の説明を聴いたとき、ひとつの楽器が変更になっているんだな、くらいにしか理解していなかったのだけれど、冒頭の合唱が終わって福音史家のレチタティーボに入った瞬間にハッとした。清廉なオルガンの音色のかわりに、チェロがブン!と鳴ったからだ。

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さて、これだけ「メンデルスゾーン版」について書いておきながら、じつは今回は「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲のために出かけたわけではなかった。
いやもちろん、聴いたのは「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲なのだが、ぼくの目的はそれではなくて、BCJと鈴木雅明の演奏、そのマタイ受難曲を聴きに行ったのだ。

以前、このコンビによるバッハのロ短調ミサの録音について書いた。期待が大きすぎたこともあって、あまりいいようには書かなかった。ほかの方のブログを参考に読んでみると、誰もがその実演に接して絶賛に近いコメントをされていた。ぼくはその演奏をCDだけで聴いて、薄いとか偉そうなことを書いた。書いたことは個人的な率直な感想だからべつに悔やんではないけれど、ふだんから愛聴しているBCJと鈴木雅明の演奏について、そういう印象で書くことになったのは残念だった。いちどは実演を聴きに行かないといけないな、と思っていた。

先日、おなじコンビでヘンデルのメサイアの演奏会があった。これはこれでチャンスだったのだけれど、メサイアの全曲を聴きとおせる自信がなく(爆)、引いてしまった。そこへ聴きなじんだマタイ受難曲演奏会の告知があり、女房に頼んで12月の発売日にチケットを予約してもらった。「メンデルスゾーン版」だということはチラシからわかっていたけれど、そう大きくはちがわない(いくつかの楽器とカット....)だろうことは確認できたし、それよりもなによりも、BCJと鈴木雅明によるマタイ受難曲を聴けるという期待のほうが大きかった。

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結果はといえば、総じて満足して帰ってきた。ホールの工夫で、舞台両脇に字幕が出るようになっていて、ぼくははじめて、日本語でのストーリーを追いながらマタイ受難曲を聴いた。ひょっとしたら――三分の一カットされているバージョンだとはいえ――そのことが、ぼくにとってはいちばん大きな意味があったかもしれない。CDでも邦盤を買って、ブックレットを開きながら対峙すればおなじことができるのだが、無精者のぼくはこれまでそうして聴いたことはなかったし、たぶんこれからもそうだという気がする。ミサ曲とはちがって、受難曲はストーリーをもったドラマである。ただ音楽を聴いているだけ、という状況にくらべて、そのドラマ性はあきらかに高まる。処刑に向かう終盤には、思わず知らず固唾を呑んで見守った。

ソプラノのレイチェル・ニコルズは声が美しいうえに張りと声量があり、すばらしかった。鈴木雅明の指揮は、想像していたよりもはるかに精力的だった。だから音楽全体に張りつめた緊張感が出るのだろう、と思った。

またオーケストラと合唱の編成が左右に2パートに分かれていて、演じ分けているということをはじめて視覚的に理解した。CDを聴いているとき、その定位から「鳴り分け」があることは理解していたものの、それは単に声部や楽器による位置配置だと漠然と思っていた。ここまで明確に役割を分けているとは知らなかった(ぼくのオーディオや耳の定位の曖昧さがバレる話かも(笑))。

で、肝心の音楽そのものは――冒頭の合唱部分、息を詰めて「あの」響きを待ったのだが――残念ながら期待していた以上のものではなかったのだ。それは「メンデルスゾーン版」だから、ということとは関係なかったと思う。BCJはこの前日に千葉県の佐倉で、前々日には東京オペラシティで、それぞれコンサートを開いている。この日の兵庫県立芸術文化センターでの公演は3日目で、直前には関東から関西への移動も含まれている。なにが言いたいのかといえば、なぜか音の縦の線がそろっていないように感じたのだ。疲れていたのかも――プロの音楽集団に対して失礼な言い草だけれど、とっさにそう感じてしまった。

それはあるいは、このホールのせいだったのかもしれない。

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兵庫県立芸術文化センターは、2005年に開館した「響きの美しさ」を誇るホールである。阪神大震災からの復興のシンボルであり、個人的な話だが自分の住んでいる地域からほど近いところに、こうした立派な施設と音楽・芸術の活動拠点があることはとても心強く、さまざまな意味で思い入れがある。

大ホール――先日命名権のスポンサーがついて、KOBELCO大ホールと呼ばれるようになった――は4階席まであり、2001人を収容する。内部は見事に天然木で覆われていて、あまり吸音性の素材は見えないが、反射性の無垢板を複雑に組みあわせることで最適な残響が得られるようになっているのだろう。

この大ホールで、これまで何回かの演奏会を聴いた。今回のBCJのコンサートのつい1週間前にも、佐渡裕が指揮する兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の定期演奏会を聴いたばかりだ。去年ベルリン・フィルとラトルが来日した際にも、ぼくは行かなかったけれど、関西公演の一日はこのホールで行われた。つぎのウィーン・フィルの関西公演でも、このホールが使われるようだ。

すべて天然木である外観の美しさと風評から、響きの美しいホールという印象を受けるのだけれど、数回コンサートに通ううちに、どうもそうでもないような気がしはじめていたところだった。ぼくはいつも1階席の中ほどで聴いている。そこでは、ヴァイオリンの高域がすこし混濁して聴こえ、結果として弦が弱いように聴こえる。ふだん、このセンター専属のオケである兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の演奏会を聴くことが多いから、そういう音のオケなのだろうと思っていた。あるとき、チケットを購入したときに目ぼしい席が空いていなくて、3階席で聴いた。そのときには、弱さを感じさせることはなく、力強く豊穣な響きの音楽が堪能できた。それは、そのときの指揮者の実力だと思った。

でもやっぱり、それだけではないのかもしれない。ひょっとしたら、このホールは座席によってだいぶ音の印象が異なるのかもしれない――BCJの演奏を聴きながら、そう思った。このときも1階席の中ほどだった。どうも響きがくすみ、線が乱れ気味に聴こえる。BCJの透明感と張り詰めた力感のある音は、なかなか聴こえてこなかった。それで、上に書いたように、とっさに「疲れているのかな」などと思ったのだ。

つぎの演奏会の予定、というのは決めていないけれど、いちど2階席に挑戦してみたほうがいいのかもしれない。

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でも、そんな音の話は些細なことであって、上にも書いたように、ぼくは充分に音楽に没入することができ、満足して帰ってきた。次の受難節の季節、たぶんまたマタイ受難曲が演奏されるだろうと期待している。来年の復活祭は4月4日。3月から4月に入ったばかり、というのは休日であっても休めるかどうか微妙な時期だが、機会があったら是非また聴きに行きたい。つぎはふつうのマタイだったらいいけど。

 

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2007年10月 8日 (月)

アーノンクールの『フィガロの結婚』 (2006年ザルツブルグ音楽祭)

2006年のザルツブルグ音楽祭で話題となった、ニコラウス・アーノンクールとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト『フィガロの結婚』が、昨夜NHKのBS2で放映された。この公演は、いまをときめくロシアのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコのスザンナ役がいちばんの目玉なのだろうが、それよりもクラウス・グートの演出とアーノンクールの音楽が、辛口というよりは "激辛" だとの評判で、そちらへの興味のほうが強く、楽しみにして観た。


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雑誌『レコード芸術』では、2006年のザルツブルグ音楽祭での演出は事件扱いである。2007年10月号ではまさにこのグート演出の『フィガロの結婚』公演のDVDを観て、小宮正安氏は「セックスとバイオレンス」と評している。趨勢をご存知の向きにはいまさらな話だろうが、ヨーロッパのオペラ演出はだいたいにおいて日本人が期待するような絢爛豪華というものではなく、そういう牧歌的な時代はとうに通り過ぎて20世紀末的退廃に入り、そのまま炸裂的に突き進んでいるように見える。一部には奇を衒ったようにしか見えない演出もある。ようするに彼らは飽きてしまったのだろう。と思う。そのあたりの変わり身の速さは、表現を極限まで簡素化し、精神性を主として息の長い芸術を育んできた日本人にはなかなか理解できないところもありそうなのだが、いっぽうで、前線に立つ演出家、演奏家たちが "つぎなる表現" を求めて変化していくことも、まあ理解はできなくはない。モーツァルトの音楽はずいぶん以前から、そしておそらくは今後も存在しつづけていくのに対して、演出家、演奏家たちはいまを生きていく必要があるのだから。

それでも、ぼくも『レコード芸術』での評価記事を読んで心配になったクチだ。なにしろ場所はザルツブルグ音楽祭、オケはウィーン・フィルである。これ以上に "いま" のクラシック音楽を代表する状況はないというところで、「セックスとバイオレンス」のモーツァルトが演じられているとしたら、それがいまを代表するモーツァルトということである。遠く世界の反対側から、「そんなふうにしないでくれ」と小声で叫びたくもなる。

いったいそこでなにが行われているのか、純粋に興味があって観てみたいと思いつつ、わざわざ確認のためだけにDVDを買おうという気にもなれなかった。そこへ、ありがたくもNHKが衛星放送で放映してくれたのだ。ひさしぶりにわくわくして放送を観た。

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悪くないじゃないか――そう思った。アーノンクールの音楽は、ここにきて突然攻撃的になったわけではなく、まえからそうだった。それ以上に異様なことにはなっていないようだ。すくなくとも、ぼくの耳にはそう聴こえた。これはアーノンクールの音楽であって、モーツァルトの新定義ではなく、ヨーロッパ全体の音楽を代表しているわけでもない。そう思って楽しめば、いつものアーノンクール節でしかない。よいか悪いかではなく、ぼくはアーノンクールの音楽だと思って聴いた。

グートの演出はと言えば、これを「セックスとバイオレンス」というのは、ちょっと大げさじゃないかなあというのが正直な感想だ。たしかに緊張感の持続する切れ味のある演出であり、リラックスしてモーツァルトのオペラを楽しむというよりは、社会派の演劇を観ているような感覚にちかい。ただ充分に写実的でありつつも、いっぽうで舞台芸術ならではの逸脱もあり、楽しめた。だれに訊いても不評を買いそうな天使ケルビム (もともとの台本にはそういう存在はなく、演出家の創作だ) の登場も、ぼくは好感を持った。それでこそ舞台芸術ってものじゃないか。

クリスティーネ・シェーファー演ずるケルビーノが、視覚的にはなんといっても際立つ。ネトレプコのスザンナが、いかにも田舎から出てきた小間使いという地味な容姿の演出になっているのに対し、シェーファーのケルビーノは乱れたブロンドと薄汚れた顔にセーラー服という姿で登場する。シェーファーはさすが知性派といわれる故か、そんなケルビーノ役に表情も動きもぴったりと嵌め、こうしたきびしい演出であってもまったく違和感なく演じている。有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のところでの虐待的なシーンには、思わず息を詰める。前出の「セックスとバイオレンス」という評価の所以も一部にはこのケルビーノの扱いにあるようだが、たしかにケルビーノ全体にただよう "危なさ" が全体に緊張感を与えているのはまちがいない。それは、くり返すようだが、単なる演出上のケルビーノの見せかただけでなく、シェーファーの見事な演技が強い効果をあげているように思う。

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結局、最初に感じていた心配はどこかへと去り、ぼくは肯定的にこの舞台を観た。すくなくとも、真っ暗ななかに岩とか棒をひとつ置いて、「これが舞台だ」というような演出に比べれば、充分に説明的で演劇のように楽しめる。アーノンクールの演奏も、1996年のチューリッヒでの演奏を引っぱりだして比べてみたところで、とりたてて過激になったとも思えない。

今回は事情があって全篇は観ることができなかったのだが、逆にDVDかCDを買ってもいいかな、と思うようになった。買っても全篇を通して楽しむ時間はほとんどないだろうから、優先度としてはあまり上げられないのだが....。

 

Annotations :
アーノンクールの『フィガロの結婚』(日本語字幕つきDVD) :
イルデブラント・ダルカンジェロ(Br:フィガロ)
アンナ・ネトレプコ(S:スザンナ)
ドロテア・レーシュマン(S:伯爵夫人)
ボー・スコウフス(Br:アルマヴィーヴァ伯爵)
クリスティーネ・シェーファー(S:ケルビーノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ニコラウス・アーノンクール(指揮)
DG UCBG1202
Link : HMVジャパン

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2007年10月 7日 (日)

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』

ノスタルジア10月というこの気候のいい時期に、今年のうちの会社では4連休がある。平日の休みも含まれるのでどこか旅行でも行こうということになるはずだったのだが、間の悪いことにというかなんというか、子供の運動会と地区の運動会が連続してど真ん中に入っており、しかも役員をしている女房はその前日は準備で借り出され、結局連休の初日はひとりですごすことになってしまった (その翌日からは、もちろんぼくも運動会へ行くのだ)。


もちろん、ふだん騒々しい生活をしている者としては、ひとりの休日はこれはこれでありがたく、めったに観れない映画でもゆっくり楽しむことにした。未開封のままのDVDやらサーバーのなかやらをあさっているうちに、ふと (またもや) 録画した覚えのない映画を見つけた。アンドレイ・タルコフスキーの映画はこれまで何度か観ていたが、見つけた『ノスタルジア』は観たことはなかった。

「ちょっとさわりだけ」というつもりで再生し、結局そのまま最後まで観つづけてしまった。10代後半から20代にかけて、さまざまな "表現" に惹かれてさまざまなメディアに触れることに夢中になっていたころ、圧倒的な映像美と "間" で存在感を示していたタルコフスキーの映画も何本かは観ていた。でも正直なところ、40歳をすぎた年齢になって、世のサラリーマン諸氏と同様、大げさに言えば経済戦線の最前線で過ごす日々にあって、精神的な意味でこうしてゆっくりとタルコフスキーの映画を観てすごすことができようとは思ってもいなかったので、自分でもすこし驚いた。

しかも、窓の外は秋のさわやかな昼下がりである。今年は猛暑のためか、日差しは秋というよりは夏の名残が感じられる。さんさんと輝く太陽。決してしんとした夜中というわけではない。タルコフスキーを観るにしては、われながらちょっとへんな時間帯のような気がする。

そんな状況でも、とくに退屈することもなく違和感を感じることもなく、静かに最後まで観ることができたのは、たぶんこの映画の時間感覚、静寂感が頭と身体にしっくりとなじんだということなのだろう。むかしから、日本人はまったくの無音の世界ではなく、虫の音や風の音に静寂を見出してきたと聞く。それとおなじようなことが自分にも起こったような気がする。なにもない状況ではなく、タルコフスキーの映画がぼくのところに静寂をもたらし、その静寂が休息の時間を与えてくれたのだろう。

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『ノスタルジア』は、タルコフスキーの映画としては比較的わかりやすい。たぶんソ連の外(イタリア)で制作されたことが影響しているのだろう。映像美はそのままに、独りよがり度がいくぶん緩和され、周囲にすこし心を開いているように思える。それはイタリアで「外」のスタッフと仕事をするという、タルコフスキーの心情と譲歩の表われのような気がする。いっぽうでイタリアならではと思える美的感覚が、モノトーン的なタルコフスキーの映像美にほのかな色彩感を添え、映像は圧倒的に美しい。

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