鈴木雅明とBCJのマタイ受難曲@兵庫県立芸術文化センター
先日4月12日、鈴木雅明とBCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン) による、J.S.バッハのマタイ受難曲を聴いてきた。場所は兵庫県立芸術文化センターのKOBELCO大ホール。
この公演の最大の目玉は、マタイ受難曲が「メンデルスゾーン版」だということだろう。メンデルスゾーン版マタイ受難曲については、すでにあちらこちらで書かれているのでここでは詳しくは触れないが、バッハの死後上演されることもなく時代とともに忘れられていたマタイ受難曲を、1829年にメンデルスゾーンがベルリンで復活演奏した。このときメンデルスゾーンはじつに20歳。すなおに「すごい」とうなってしまうのだが、それはいまは関係ない。メンデルスゾーンはこの演奏に際し、当時の聴衆に受け入れられやすいよう、もとのマタイ受難曲に対して、いくつかの改変を施した。約三分の一をカットし、楽器の扱いも当時の事情にあわせて変更た。これをどう捉えるかについてはさまざまな見方があるだろうが、結果として歴史が証明したように、メンデルスゾーンは「意気盛んな若者」というだけでは終わらず、歴史に名を残す人物となった。だからマタイ受難曲を改変する資格があるとかそういうことは言えないが、すくなくとも、後世のひとたちが「聴いてみよう」という楽曲となったのはたしかだと思う。
今回の公演に先立ち、ステージで簡単な説明をしてくれた鈴木雅明も、つぎのようなことを言っていた――古楽器を使おうがどうしようが、いまの時代に演奏するバッハは、当時とは異質のものである、今回のメンデルスゾーン版は、時代を超えてバッハの演奏を行っていくことについての、メンデルスゾーンの時代の例として捉えたい、というような。わかりやすい説明で、なるほどと思った。
そして、もちろん今年はメンデルスゾーン・イヤー(誕生100年)である。今回の演奏はその記念の意味も強いのだろう。演奏に先立ちメンデルスゾーン版について簡単に解説してくれた鈴木雅明も、「来年からはやりません」とさらっと明言していた。
その「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲。率直に言って、カットされていることはぼくにはあまり問題にはならなかった。というか、マタイ受難曲と言えば3時間ちかくかかるから、これを聴きに出かけていくというのは、正直それなりの覚悟がいる。それが約三分の一カットされ、2時間前後とわかっていたのは、
多少なりとも気持ちを楽にしたのは事実だ。そういう気持ちを抱くことが正しいのかどうかは、わからないけれど。実際の演奏で、もっとも違和感を感じたのは通奏低音だった。通奏低音は通常はオルガンやチェンバロで演奏される。ぼくが聴きなじんだ鈴木雅明とBCJによる1999年の「マタイ受難曲」では、オルガンが使われている。今回の「メンデルスゾーン版」では、その通奏低音にチェロが使われている。最初の説明を聴いたとき、ひとつの楽器が変更になっているんだな、くらいにしか理解していなかったのだけれど、冒頭の合唱が終わって福音史家のレチタティーボに入った瞬間にハッとした。清廉なオルガンの音色のかわりに、チェロがブン!と鳴ったからだ。
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さて、これだけ「メンデルスゾーン版」について書いておきながら、じつは今回は「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲のために出かけたわけではなかった。
いやもちろん、聴いたのは「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲なのだが、ぼくの目的はそれではなくて、BCJと鈴木雅明の演奏、そのマタイ受難曲を聴きに行ったのだ。
以前、このコンビによるバッハのロ短調ミサの録音について書いた。期待が大きすぎたこともあって、あまりいいようには書かなかった。ほかの方のブログを参考に読んでみると、誰もがその実演に接して絶賛に近いコメントをされていた。ぼくはその演奏をCDだけで聴いて、薄いとか偉そうなことを書いた。書いたことは個人的な率直な感想だからべつに悔やんではないけれど、ふだんから愛聴しているBCJと鈴木雅明の演奏について、そういう印象で書くことになったのは残念だった。いちどは実演を聴きに行かないといけないな、と思っていた。
先日、おなじコンビでヘンデルのメサイアの演奏会があった。これはこれでチャンスだったのだけれど、メサイアの全曲を聴きとおせる自信がなく(爆)、引いてしまった。そこへ聴きなじんだマタイ受難曲演奏会の告知があり、女房に頼んで12月の発売日にチケットを予約してもらった。「メンデルスゾーン版」だということはチラシからわかっていたけれど、そう大きくはちがわない(いくつかの楽器とカット....)だろうことは確認できたし、それよりもなによりも、BCJと鈴木雅明によるマタイ受難曲を聴けるという期待のほうが大きかった。
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結果はといえば、総じて満足して帰ってきた。ホールの工夫で、舞台両脇に字幕が出るようになっていて、ぼくははじめて、日本語でのストーリーを追いながらマタイ受難曲を聴いた。ひょっとしたら――三分の一カットされているバージョンだとはいえ――そのことが、ぼくにとってはいちばん大きな意味があったかもしれない。CDでも邦盤を買って、ブックレットを開きながら対峙すればおなじことができるのだが、無精者のぼくはこれまでそうして聴いたことはなかったし、たぶんこれからもそうだという気がする。ミサ曲とはちがって、受難曲はストーリーをもったドラマである。ただ音楽を聴いているだけ、という状況にくらべて、そのドラマ性はあきらかに高まる。処刑に向かう終盤には、思わず知らず固唾を呑んで見守った。
ソプラノのレイチェル・ニコルズは声が美しいうえに張りと声量があり、すばらしかった。鈴木雅明の指揮は、想像していたよりもはるかに精力的だった。だから音楽全体に張りつめた緊張感が出るのだろう、と思った。
またオーケストラと合唱の編成が左右に2パートに分かれていて、演じ分けているということをはじめて視覚的に理解した。CDを聴いているとき、その定位から「鳴り分け」があることは理解していたものの、それは単に声部や楽器による位置配置だと漠然と思っていた。ここまで明確に役割を分けているとは知らなかった(ぼくのオーディオや耳の定位の曖昧さがバレる話かも(笑))。
で、肝心の音楽そのものは――冒頭の合唱部分、息を詰めて「あの」響きを待ったのだが――残念ながら期待していた以上のものではなかったのだ。それは「メンデルスゾーン版」だから、ということとは関係なかったと思う。BCJはこの前日に千葉県の佐倉で、前々日には東京オペラシティで、それぞれコンサートを開いている。この日の兵庫県立芸術文化センターでの公演は3日目で、直前には関東から関西への移動も含まれている。なにが言いたいのかといえば、なぜか音の縦の線がそろっていないように感じたのだ。疲れていたのかも――プロの音楽集団に対して失礼な言い草だけれど、とっさにそう感じてしまった。
それはあるいは、このホールのせいだったのかもしれない。
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兵庫県立芸術文化センターは、2005年に開館した「響きの美しさ」を誇るホールである。阪神大震災からの復興のシンボルであり、個人的な話だが自分の住んでいる地域からほど近いところに、こうした立派な施設と音楽・芸術の活動拠点があることはとても心強く、さまざまな意味で思い入れがある。
大ホール――先日命名権のスポンサーがついて、KOBELCO大ホールと呼ばれるようになった――は4階席まであり、2001人を収容する。内部は見事に天然木で覆われていて、あまり吸音性の素材は見えないが、反射性の無垢板を複雑に組みあわせることで最適な残響が得られるようになっているのだろう。
この大ホールで、これまで何回かの演奏会を聴いた。今回のBCJのコンサートのつい1週間前にも、佐渡裕が指揮する兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の定期演奏会を聴いたばかりだ。去年ベルリン・フィルとラトルが来日した際にも、ぼくは行かなかったけれど、関西公演の一日はこのホールで行われた。つぎのウィーン・フィルの関西公演でも、このホールが使われるようだ。
すべて天然木である外観の美しさと風評から、響きの美しいホールという印象を受けるのだけれど、数回コンサートに通ううちに、どうもそうでもないような気がしはじめていたところだった。ぼくはいつも1階席の中ほどで聴いている。そこでは、ヴァイオリンの高域がすこし混濁して聴こえ、結果として弦が弱いように聴こえる。ふだん、このセンター専属のオケである兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の演奏会を聴くことが多いから、そういう音のオケなのだろうと思っていた。あるとき、チケットを購入したときに目ぼしい席が空いていなくて、3階席で聴いた。そのときには、弱さを感じさせることはなく、力強く豊穣な響きの音楽が堪能できた。それは、そのときの指揮者の実力だと思った。
でもやっぱり、それだけではないのかもしれない。ひょっとしたら、このホールは座席によってだいぶ音の印象が異なるのかもしれない――BCJの演奏を聴きながら、そう思った。このときも1階席の中ほどだった。どうも響きがくすみ、線が乱れ気味に聴こえる。BCJの透明感と張り詰めた力感のある音は、なかなか聴こえてこなかった。それで、上に書いたように、とっさに「疲れているのかな」などと思ったのだ。
つぎの演奏会の予定、というのは決めていないけれど、いちど2階席に挑戦してみたほうがいいのかもしれない。
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でも、そんな音の話は些細なことであって、上にも書いたように、ぼくは充分に音楽に没入することができ、満足して帰ってきた。次の受難節の季節、たぶんまたマタイ受難曲が演奏されるだろうと期待している。来年の復活祭は4月4日。3月から4月に入ったばかり、というのは休日であっても休めるかどうか微妙な時期だが、機会があったら是非また聴きに行きたい。つぎはふつうのマタイだったらいいけど。