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2008年11月 3日 (月)

マウリツィオ・ポリーニの2008年のショパン

PolliniChopin1 ポリーニの新譜が出た、と聞いて、心躍らせるひとが、いまはどれくらいいるのだろう――そういうぼくも、楽しみにはするが、強い期待感とか、わくわく感というのは最近はすこし薄らいできた。逆に言えば、すこし前までは、ポリーニの新譜が出るということは、それはとても特別なことで、またひとつ「演奏の基準」が生まれる――みたいな、大げさに聴こえるだろうけれど、ほんとうにそんな居住まいを正すような気持ちになったものだ。


ポリーニの新譜なんて、べつに特別視するようなことなんてなにもない、という向きも当然あると思う。でも、ぼくはずっと、ポリーニのピアノ録音を「原器」のように捉えてきた。あたりまえだが、彼のピアノは決して機械的な正確さで音符を追っただけ、というようなものではない。冷徹で抑制的な興奮・感情が絶えず音楽の底辺に流れていて、そこにがっちりとした構築力、牽引力、そして完全にコントロールされた呼吸感があって、音楽の躍動を的確に伝えてくれる。それは感傷的な演奏とは対極にあるけれど、「音の羅列で表現された作曲家の心象」を、殺したり捻じまげたりすることなく、むしろ的確に感情まで伝えてくれるように思うのだ――あたりまえのことだが、感傷的になったら感情はきちんとは伝えられない。受け手の気持ちが引いてしまうからだ。はじめて知る楽曲があったとしたら、ぼくはまずポリーニで聴きたい、といつも思ってきた。それがぼくにとっての原器になって、そのあとで、さまざまな演奏家の表現を図っていく。

たとえば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、90年代にアバドとベルリン・フィルとの組み合わせで録音したもの――これは収録上の手ちがいか、あるいはホールの音響的限界のせいか、なにかくすんだような大変残念な録音になってしまっている――では、とてもよく聴きなじんだ楽曲のはずなのに、この録音で、はじめて聴こえてきた音符の響きがある。それはポリーニのピアノがトリルひとつとっても弛緩がなく、1音1音が完全に制御されてきちんとした音として聴こえてくる結果なのだろう、と思う。

いまさら紹介するまでもないが、マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)は、1942年生まれのイタリア、ミラノ出身のピアニストだ。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝。当時審査員長だったアルトゥーロ・ルービンシュタインが「われわれの誰よりもうまい」と言った、という話は有名だ。そして、その直後から10年間、ポリーニは国際舞台から姿を消す。さらに研鑽を積むためだった、と言われている。1971年、DGからアルバムの発売を開始、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンといった古典派、ロマン派の音楽から、現代音楽まで幅広いレパートリーを録音しているが、なんでもやみくもに弾くということはなく、むしろ限定的に曲を選んで録音している印象だ。

最近のポリーニの録音は、1980年代から1990年代に見せた、まるで修行僧のような趣きからはすこしはなれて、ややリラックスした、肩の力が抜けたような印象になってきた。2005年のショパンのノクターン(夜想曲)全集の発表は、これまでのポリーニの選曲からはすこしちがうものを感じさせた。そのすこし前、1990年代にリリースしていたショパンといえば、スケルツォ集にしても、バラード集にしても、まだ硬派の延長にあるように思えたし、実際に演奏もそうだった。でも、夜想曲?――いったいどんな音楽になっているのか、これはおもしろそうだと思って、CDがリリースされるのを楽しみに待った記憶がある。そしてその演奏は、たしかにそれまでのポリーニの印象とはすこしちがうものだった。

PolliniChopin2夜想曲というのは、その曲想からおのずと感傷的に傾く。そしてポリーニの演奏にも、たしかにその感傷が感じられた。でも、同時にポリーニならではの鉄の意志というか、いくぶん覚めたようなところもあって、なんとなくちぐはぐな感じもした。手許にあったアシュケナージの夜想曲と聴きくらべてみると、アシュケナージはもちろん感傷性が全面に出ているし、録音も残響がたっぷりとして音像が柔らかく、その感傷性をさらに前面に押し出している。正直、こうした演出は何回も聴くにはつらい感じだし、実際にそう何回も聴いた記憶がない。その点、ポリーニの演奏は抑制が効いていて、つらい感じはない。楽しみにしていたこともあって、これは愛聴盤になるかも――と思ったが、やはり何回も聴きたいと思うようなことはなかった。ひょっとしたら、ぼくは夜想曲そのものが苦手なのかもしれない。

そのあとに、モーツァルト(2006/2008年)とベートーヴェン(2007年)が登場した。ベートーヴェンは初期のピアノ・ソナタ集で、1970年代から途方もなく長い時間をかけて行われている全曲録音の終焉に向けての一部、という位置づけに見えた。そしてモーツァルトはVPOをみずから弾き振りしてのピアノ協奏曲集――ポリーニは若いころに、やはりピアノ協奏曲を一部録音している。でも、いまになってもう一度モーツァルトを――しかも弾き振りで――手がけることになるとは、多くのひとが思っていなかったにちがいない。

このモーツァルトとベートーヴェンにはここでは詳しくは触れないが、ひとつだけ気になったことがあった。モーツァルトを聴いていて、上で書いたような、ポリーニらしい「冷徹で抑制的な興奮、がっちりとした構築力、牽引力」を感じると同時に、すこし、以前には微塵も感じられなかった「急ぎ感」があるように思った。磐石のテンポ感がわずかに揺らいで、せっかちになってきているように感じられた。

PolliniChopin4 そうして先日、また新しい録音が発売された。それは、ふたたびショパンだった。しかもこれまでは、スケルツォならスケルツォ、バラードならバラードで、まとまった楽曲を集成して録音してきたのに、今回はまるでひと晩のコンサートのように、バラード、マズルカ(ポーランドの舞曲)、ワルツ、即興曲、そしてピアノソナタの第2番を集めた構成になっている。やっぱりなにかが変わっている。2005年の夜想曲のあたりからなんとなく感じさせはじめたポリーニの変化が、いよいよ具体化していくような感じだった。

それは考えてみれば当然のことなのだろう。カルロス・クライバーが永遠に存在するわけではなかったのと同様、ピアノ演奏の原器であり原器ゆえに不変、と思っていたポリーニも、すでに60歳代後半だ。ぼくは自分ではきちんとは弾けないから想像するしかないのだけれど、ピアノの演奏は物理的な体力を要求する。近年、高齢になるまで活躍したピアニストのひとりにウラディーミル・ホロヴィッツがいるが、このひとの80歳代の演奏を見聴きすると、まるでピアノの鍵盤には重さなどないかのように、指が羽のように軽やかに動いて音楽が響く。スカルラッティのピアニッシモも、ショパンのフォルテも、すべてその調子でまるで魔法のようだが、ポロネーズなどを聴いていると、さすがに音楽はときどき覚束なくなることがある。

そういう演奏をしたホロヴィッツに比べれば、もちろんいまのポリーニにはまだまだ時間がある。ポリーニとホロヴィッツでは、音楽、ピアノに対する姿勢がまるでちがうから、それを比べるわけにもいかないだろうが、ポリーニの演奏も、探求の道をいく歩調をすこしゆるめて、より優しく、より個人的に音楽を聴かせてくれるようになってきたと思う。

結果として、このポリーニのショパン集は、ぼくはとても気に入った。勝手なことを言えば、ピアノソナタが第2番ではなく第3番であってくれたらもっとよかったのだが、それは些細な話だ。「原器」たるポリーニのピアノは健在だが、ここではすこしやわらかく、リラックスしているように聴こえる。そして、1枚のCDにさまざまな楽曲が含まれているから、表情がつぎつぎと変わって、ぼくのような素人でも飽きさせない。とくにマズルカとワルツは、2005年のノクターンと同様に、感傷的になりすぎず、かといって単調でもなく、ポリーニならではの「抑制的な興奮・感情」が込められていて、とてもすばらしい。風雲児の到達した枯れた世界、などというととても陳腐で恥ずかしいが、そういうように思ってみたくもなる。

これから、ポリーニがどういう世界に向かっていくのか。だれもが望むように、ベートーヴェンの全集を完成させてほしいけれど、それは仕事の完結性、記念碑としての意味であって、未録音のベートーヴェンのソナタのうち、どうしてもポリーニで聴いておきたいという曲は、正直なところぼくにはもうない。聴きたいとしたら、かつて若いころに録音した後期のピアノソナタ群だ。いっそのこと、これから、ふたたび全曲録音してくれないだろうか――なんて、いまのポリーニを見ていると、そんなことを望みたくなってくる。それから、シューベルトのピアノ曲も、もういちどぜひやってほしい。

 

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