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2008年6月の4件の記事

2008年6月30日 (月)

リビングのホームシアターの再始動

CDM1SE 子供たちがすこし大きくなって、気持ちの余裕が出てきたのか、あるいはなにかが目覚めたのか、女房が「リビングで音楽を聴きたい」と言い出した。

ずっと以前――もう10年ちかく前だ――わが家のリビングには、当時まだそれほど一般化していなかった「ホームシアター」があった。市販されて間もないDVDと、プロジェクターと、スクリーンと、5.1ch のサラウンド環境という構成だった。やがて子供が中途半端に大きくなるにつれ、映画の内容や大きな音を怖がるようになり、またそれと同時に家族全体が土日も含めて「いっぱいいっぱい」の生活を送るようになって、映画を観る習慣も自然に遠のいていった。そこに追い討ちをかけるように東京への転勤があり、横浜の家に移るときにプロジェクターは知人に譲ってしまった。


3年間の横浜での生活中、アンプを2回、変えた。でもそれは、ぼくの部屋の2チャンネル再生用のシステム(世間では――すこし恥ずかしい言葉だが――ピュアオーディオという)の話で、リビングはリアスピーカーも設置せず、かろうじてフロントスピーカーだけ結線されていた状態で、それすらもあまり使うことはなかった。

横浜からいまの関西の家にもどって、さらに2年がすぎた。そのあいだに、このブログでもご報告しているように、スピーカーを変えた。それもやはりピュアオーディオ用で、リビングのAV機器はといえば、恥ずかしながらフロントスピーカーすらも結線されておらず、完全に休眠状態になっていた。

それが、先日の女房の「リビングで音楽を聴きたい」のひとことで、再始動することになった。

関西にもどるとき、ピュアオーディオ用の機器をリビングに移して、AV機器と統合しようか、というアイデアもあった。プリアンプMIMESIS 27ME の SSP モード(スルー入力)を使えば、電気的には簡単に統合できそうだった。もちろん、音質の調整という意味ではいろいろと苦労することもあるだろうけど。

リビングに置く場合のいちばんの問題は、大きくなったとはいってもまだ小さい子供たちである(笑)。自分の子供たちだけであればまあまあ信頼しているから問題ないと思ったが、友達が大勢きたりすると、やはり相乗効果でなにが起こるかわからない。ちょっと危ないかも、ということで、オーディオ機器は依然ぼくの部屋にあり、リビングにはホームシアターの残骸が残されていた。

日曜日、1日かけてリビングの機器の全チャンネルの結線をした(と、さらっと書いてみたものの、それは大変な作業だった(爆))。音をだしてみて、すぐに問題が発覚した。ひとつは、これは以前からわかっていたことだが、リモコンが効かない。さらにそのために、画面上でスピーカーのセットアップができない。そして致命的なことに、フロント左チャンネルと、センターチャンネルの音がおかしい。くぐもった音で、大きくなったり小さくなったりする。固唾を呑んで見守っていると、1分ほどで正常音量、音質になる。勝手に音量が大きくなることから、アンプ側の異常だろうということは想像がついた。

選択肢は3つだ。修理するか、買い替えるか、がまんするか。なにも投資がいらないので、しばらくようすを見ることにした――つまりがまんしてみることにした。ところが数日後、女房によるとまたおなじ現象が起こって、勝手に音量が大きくなったという。これはやっぱりまずそうだ。メーカーであるオンキヨーに問い合わせてみると、保証期間は当然とっくにすぎていて、訪問修理だと相当の金額になるので、サービスセンターまで持ってきてほしい、という。

10年前の決して高級とはいえないAVアンプ。修理料金と買い替え費用の両天秤が、沈黙のうちにぼくと女房のそれぞれの脳裏をよぎる。このアンプは長いあいだ持っているから当然愛着はあるけれど、残念ながら溺愛しているというほどではない(そもそも10年前、このアンプの音に満足できないがために、ぼくは別系統でピュアオーディオに走りはじめたのだった)。10年使ったのだから、もうこの種の機器としては天寿をまっとうしたということなのかもね――そういう話になった。つまり、買い替えである。

買い替えとなると、俄然話がややこしくなってくる。

ひとつはアンプの仕様の話。時代はすでに HDMI である。買い替えるのであれば、この HDMI に対応したくなってくるというのが人情というものだ。ところが HDMI はまだ仕様が安定しておらず、世間では HDMI1.2 という一世代前の仕様の製品もあれば、HDMI1.3a という最新仕様に対応したものもある。しかもそれが最終仕様という保証はどこにもなく、今後まだ新しい仕様が登場することは充分に考えられる。また HDMI に対応していても、将来増えるかもしれない機器をある程度視野に入れて入力数・出力数を考える必要がある。

もうひとつ、ネットワーク機能の有無もかなり迷った。IT屋としては、ネットワークにつながると聞くと、どうしてもつなげたくなってしまう。わが家ではDLNA サーバがいくつか(笑)動いているし、最近では  iTunes サーバも稼動している。インターネットラジオもときどき聴く。これらの音楽をアンプから直接再生できれば便利だと考えたのだ。さらに外部に口が開いていれば、ひょっとしたら将来のファームウェア・アップデートという、いいこともあるかもしれない。

ただ、ネットワーク機能があったとして、果たして家族がどれだけ使うのか、というのは正直なところ疑問だった。わが家の場合、リビングにPCがある。PCのデジタル出力をアンプに入力して再生する、というほうが操作として自然かもしれない。また、ネットワーク機能のついているアンプは、おしなべて価格が高い。ネットワーク機能を選ぶということは、つまり中級以上の機種を選ぶということになる。

そしてもちろん、アンプのグレードも迷う要素になる。ピュアオーディオをやっているので、「音が出る」というレベルの製品から、「いい音が出る」という製品、そして最終的には「好みの音が出る」というところまで、メーカによって、あるいはその製品のグレードによって、さまざまであることは充分にわかっている。ぼくがピュアオーディオで使用している機器はわれながら正気の世界とも思えないから比較にはならないけれど、それにしてもAVアンプでそれなりに満足のいく音質を得ようとすると、ある程度コストをかける必要もあるだろう。とくにパワーアンプ部は電源が大切になってくるので、きちんと考えられた製品は大きく重く、そのぶん高価になってくる。

アンプにコストをかけるとなると、つぎにはスピーカーが気になりだす。リビングのフロントチャンネルに使っているのは、B&W の CDM1SE だ。決して高級機というわけではないが素直で明るい音のする名作だと思う。冒頭に挙げた写真がそれで、見た目もよくて、わが家のリビングのシンボル的存在になっている。これは余談だが、つぎの世代の CDM1NT になると、見た目がへんにヤセ型になって、あまり気に入らなかったことを覚えている。いっぽう最近リリースされているの CM1 は、すっきりとした美しいデザインで、音質的にも評判がいいと聞く。

そんな CDM1SE も、アンプとおなじく10年選手になろうとしている。リビングの日当たりがいいおかげで、自慢のケプラーコーンもすっかり日に焼け、別室の 802D のものと比べると、だいぶ色あせて見える。さて、その CDM1SE はいつまで持つのだろう。アンプを替えると、スピーカーまで替えたくなるような予感がしてくる。

1週間悩んで、結局、割り切ることにした。いろいろ考えた結果、エントリー機種の王道、オンキヨーの TX-SA606X を買うことに決めた。いまAVアンプにコストをかけるのは得策ではなさそうだった。きちんと音楽を聴く環境はべつにあるのだし、マルチチャンネルは楽しさ優先でいこうと決めたのだった。

ちなみに、数年前に一世を風靡した廉価なデジタルアンプもいいかも、と思って調べてみたのだが、これはどういうわけか廉価製品では最近は下火になっているようだった。どこも数年前の機種がカタログに掲載されているだけ、という状態だった。あんなに評判がよかったのに、どうしちゃったんだろう。

これまでオンキヨーのアンプを使っていながら、そう強い思い入れがあったわけでもなかったので、よもや次のアンプもオンキヨーになろうとは思ってもいなかった。ただ世間で好評なのには理由があって、TX-SA606X とその前の TX-SA605 は、機能面では他社にくらべてあきらかに一歩リードしているようだ。これは、総合電機メーカではなくて、音響機器専業メーカであることを考えると、驚くべきことだと思う。

1993年、「平成の再建王」といわれ、大のオーディオマニアともいわれる大朏直人氏のトップ就任後、オンキヨーはとくにIT技術、デジタル技術への展開が目立っていた。なかには、一消費者として見るかぎり危なっかしく感じるビジネスもあるけれど、他社に先駆けての新仕様搭載はそうした積極姿勢のあらわれだろうし、消費者としては心強いかぎりだ。

TX-SA606X は、さきにも触れたように、機能面では「てんこ盛り」状態で、おおいに遊べるアンプだと思う。個人的に決め手となったのは、HDMI1.3a 対応の入力が4チャンネルあることと、シルバー色が用意されていること、そして価格の3点。HDMI 出力が1チャンネルしかないのが惜しいが、とくに複数チャンネルを使用する目的があるわけではないので、あまり強くはこだわらなかった。

肝心の音質は――この価格帯 (\84,000) で、これだけのデジタル・ギミックを満載して、あとなにがどれだけ期待できるだろう、というのが正直なところだ。ここで満足できない場合、おなじ世代、おなじメーカーで考えると、ひとつ上のTX-SA706X ということになり、\189,000 になる。デジタル的な付加価値ではそう大きくコストは変わらないだろうから、この価格差は電源部やアンプ部、シャーシの振動対策 (そして THX Select2 のロゴ使用料(笑)) などにある、と見るのが正しいように思う。つまり TX-SA606X から TX-SA706X へは、正しく音質アップしているだろうと期待できる。おそらくオンキヨーのアンプメーカーとしての本来の持ち味が生きてくるのは、この TX-SA706X あたりからではないかと思う。逆に TX-SA606X はそのコスト差分だけ、TX-SA706X に比べて音質には限界が出るということだ。その差がほぼ10万円分。

これが数万円の価格差だったらきっと悩んでいたと思う。でも10万円の差がついたとなれば、上に書いたとおり、いまは TX-SA606X で、楽しく行けるところまで行く、というのが正しい。と判断した。

ちなみに、他社製品の印象はつぎのようなものだった――デノン(旧デンオン)は一時期は「これに決めた」というところまで行ったのだが、HDMI の入力数が少ないところがどうしても気になった。ボリュームノブのクリック感や、低価格機でもロータリー式のスイッチを多用しているところは好感度大だった。パイオニアの高級機は魅力的だったけれど、低価格機では機能面で見劣りがした。ソニーもよかったのだが、いまのソニー製品を買うと BRAVIA や VAIO を買わなければならないような気がして、気持ちが引いた。パナソニックのシリーズは、デザインがどうしても許せなかった。そんなこんなで、ふたたびオンキヨーの採用――ということになった。

先日の土曜日、近所の量販店に出向いて、この TX-SA606X を5万円台なかばという金額で買った。シルバーは在庫がなく、数日後に届くという。価格面で通販に引けをとらない金額にしてくれたことはありがたかったし、その価格で5年保証がついているのも魅力だった。

先代のAVアンプも、何度か故障を起こしている。突然リアスピーカーから音が出なくなったり、リモコンが効かなくなったり、今回のようにスピーカーの音量が安定しなかったりした。最後の故障をのぞいて、その都度修理をしてもらってきた。前面パネルに髪の毛のような黒い線が印刷されていて初期不良交換ということもあったし、その次に届いたものは、背面のパネルのネジが外れかかっていた(自分で締めた)。だから正直、オンキヨーの製品の品質はそれほどいいとは思っていない。その意味でも、5年保証はありがたい。

この文章を書いている現在、まだアンプは到着していない。到着したら、またしばらくはセットアップやら何やらで当分なにも書けないだろうと思うので、まずはアンプを決めた、というところまでのご報告だ。

ちなみに、わが家のAVアンプでもっともよく使われるのは、FM放送などの軽めの2チャンネルソースを全スピーカーを使って鳴らす、マルチチャンネルステレオという機能だ。これを使うことで、部屋中に音楽が溢れるようになる。

あたらしいアンプがきて、また以前のように、音楽のあるリビングになればいいと思っている。そしてまた、ときどきは映画でも観ることができればいいなと思う。

 

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2008年6月15日 (日)

アバドづくし

Abbado-Mozart 前回、なにげなく買ったCDの例として、クラウディオ・アバドとジュリアーノ・カルミニョーラのモーツァルト、ヴァイオリン協奏曲全集のことについてすこし触れた。

そのとき、同じ時期にリリースされたアバドのモーツァルト交響曲集を「買ってしまうかも」とつぶやいていたら、案の定、ほどなくして買うことになってしまった。そして同時に、彼の「新しい」ベートーヴェンの交響曲全集も届いた。


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オーディオへの投資がひと段落して、それでなくとも最近はソフトに走る傾向にあるところへ、どうもHMVの「輸入盤3枚セール」に乗せられて、ついついたくさん買う結果になっているような気がする。まあ――たくさんとは言っても、ぼくの場合、月に10セットにも満たない程度だから、ほんとうにたくさん買っておられる方から見れば、なんということもないのだろうけれど。

HMV-Box2 HMVからCDが届くときには、注文時期は1ヵ月ちかく開いているのになぜか1日に複数が届いたり、あるいは連日のように届いたりする。複数の注文がひと箱にまとめられることはないので、マメに箱を処分するようにしないと、油断しているとそこらじゅう箱だらけになる。なかには数枚のCDしか入っておらず、それにしては箱が大きい。個々の注文で箱のサイズを変えるよりは、ひとつのサイズに統一したほうが結果として低コストになっているのだろうけど、どうも「もったいない感」がぬぐえない。女房から白い目で見られるばかりか、たくさん買っているのでは、と不当な疑いをかけられるもとにもなる。どうにかしてほしいが、経済性を考えるとたぶん、このやりかたがもっとも効率的なのだろう。趨勢では、経済性よりもムダを減らし環境への配慮を優先させよう、という機運が高まっているけれど、まだここには到達していないようだ。

今回も、このモーツァルト交響曲集と同時に――べつの箱で――アバドとベルリン・フィルによるベートーヴェンの新しい交響曲全集が届いた。ほかにも先日からルツェルン祝祭管弦楽団とのマーラーを買ったりしていたので、ちょっとした「アバドづくし」の様相を呈してきた。ユニバーサル・ミュージックのサイトによると、今年――2008年はアバドの生誕75周年、とのことだ。

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Abbado-Beethoven 今回のアバドの「新しい」ベートーヴェン交響曲全集は、ちょっと由来が変わっている。前回、2000年に発売された交響曲全集は、当時まだ広くは認知されていなかったベーレンライター版を使ったことで(良くも悪くも)話題になった。ぼくも、買った当初はこの全集になじめず、きちんと聴くようになるまで1年くらいかかったような気がする。

それから8年――2008年にアバドがほんとうに新しいベートーヴェン交響曲全集を出すとしたら、それはいったいどんな演奏になっているのだろうという意味でとても興味深いものだが、残念ながら今回リリースされた交響曲全集は最近の演奏ではない。前回の交響曲全集のすぐあとの2001年、イタリア、ローマで演奏されたライヴを収録したものなのだ(第9番のみ、2000年ベルリンでのライヴ)。

このライブはもともとユーロアーツによって映像作品として収録されたもので、日本ではTDKからDVDで発売されていた。その音源が、DGによってリマスタリングされ、リリースされたのが今回の交響曲全集だ。ユニバーサル・ミュージックのコピーによれば、アバド自身が自分の演奏のなかでもっとも気に入っているものだという。

Abbado-Beethoven2 前回の全集は1999年と2000年の演奏。今回の全集は2000年と2001年の演奏。実質的に1年ちがいということになる。1年で演奏様式にそう大きなちがいが出てくるとも思えないので、なぜいまになってこの録音が新譜としてリリースされるのか、正直なところ理解に苦しむ。ただ今回の全集はライヴなので、当然、その場でのコンディションによって演奏は変わってくる。だから、今回の全集はそういう興味で聴くのが正しいのだろう。時期のちがいではなく、セッション録音による全集、ライヴ録音の全集と捉える。そのちがいだけで、あらたに数千円の出費をするひとがどれだけいるのかは、やっぱり微妙のような気がするけれど。ぼく自身はといえば、迷ったすえに結局買ってしまった。

その両全集のちがいはといえば、すくなくとも、今回の全集はライヴならではの息遣いが感じられる。前回の全集で感じられたような、ベーレンライター版の演奏にありがちな無機感、「かっ飛ばし」感は影を潜めている。でも決してテンポが遅くなったわけではなく、躍動感は健在だ。

それから、これは余談になるのかもしれない――アバドは2000年、胃ガンで倒れた。今回の全集で、第9番だけがベルリンのライブになっていて、他の交響曲がその翌年、復帰後のローマでのライヴになっているのはそのためだ。一時はこのチクルスは完遂すら危ぶまれたと聞く。

復帰直後のアバドの写真を見たことがある。驚くほど痩せて弱々しい立ち姿ながら、カッと見据えた鬼気迫るまなざしに思わず息を呑んだ。これは、そういう時期のベートーヴェンでもある。

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このベートーヴェンから遡ること約10年前の1990年――クラウディオ・アバドは帝王カラヤンの後任として、ベルリン・フィルの芸術監督に選出された。このベルリン・フィルのシェフ就任をもって、事実上アバドは世界最高の指揮者として見なされるようになる。

アバドの前任者は、カラヤンであり、フルトヴェングラーである。前任者たちはベルリン・フィルのシェフをもってそのキャリアのピークを築き、それぞれの時代の最高の指揮者として、生涯の最後までベルリン・フィルに君臨した。それはすなわち、ベルリン・フィルを退くときが、彼らの音楽家としての引退のときでもあったということだ。これに対し、アバドは体調の問題で比較的若くしてベルリン・フィルを去る結果となった。そして、その後みごとにその病魔を克服し、「世界最高の指揮者」という立場のあとの時代を生きている。

現在のアバドは、写真など見るかぎりでは順調に回復して、とても元気そうだ。「あとの時代」を生きるアバドの活動はとても印象的だ。1990年代から活動をはじめていたマーラー室内管弦楽団や、それを母体としてソリスト級の奏者が集まったルツェルン祝祭管弦楽団を組織し、ベルリン時代の先鋭的な演奏スタイルからうってかわって、重厚で濃密な音楽を奏で、高い評価を得ている。

Abbado-Carmignola2004年にはイタリアのボローニャを本拠地に若手(18歳から26歳)によるモーツァルト管弦楽団を設立、その成果が冒頭でご紹介した、モーツァルトの交響曲集と、カルミニョーラとのヴァイオリン協奏曲全集だ。オーケストラはどちらも当然モーツァルト管弦楽団で、交響曲集のほうはカルミニョーラがコンサート・マスターをつとめている。ヴァイオリン協奏曲も交響曲も、どちらも軽やかで明るく、自然体で、現代オーケストラにピリオド奏法を折衷させた魅力的な演奏になっているが、ぼくはやはり最初の印象通り、より溌剌として楽しいヴァイオリン協奏曲全集のほうが好きだ。

アバドは、キャリアの頂点となるベルリン・フィル芸術監督の「あとの時代」を生きているという表現をしたけれど、こうしてみると、それはまちがいなのかもしれない。ルツェルン祝祭管やモーツァルト管との演奏を聴いていると、これからが彼の活動のピークとなっていく予感がしてくる。ぜひ、そうであってほしいと思う。

 

 

Annotations :
モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲全集、協奏交響曲 : Mozart: The Violin Concertos
Giuliano Carmignola, Violin
Danusha Waśkiewics, Viola
Claudio Abbado, Conductor
Orchestra Mozart
Archiv: 00289 477 7371 
Link : HMVジャパン
モーツァルト/交響曲集 : Mozart: Symphonies Nos.29, 33, 35, 38, 41
Claudio Abbado, Conductor
Orchestra Mozart
Archiv: 00289 477 7598
Link : HMVジャパン
ベートーヴェン/交響曲全集 : Beethoven: The Symphonies
Claudio Abbado, Conductor 
Berliner Philharmoniker 
DG(Deutsche Grammophon): 00289 477 5864
Link : HMVジャパン

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2008年6月 8日 (日)

エマーソン弦楽四重奏団の J.S.バッハ『フーガ集』

Emerson-Bach-Fugues ときどき、あまり聴きたいわけでもないのに、まるで義務であるかのように買ってしまうCDがある。聴いてみてちょっとがっかり――というのはしかたがないにしても、そもそも買おうかどうしようかという状態のときに、たいして聴きたいわけでもないはずなのに、長い「購入候補リスト」の上位に突然上がってくるCD。たいてい、それは新譜で、話題性のあるCDということになる。

先日とりあげた例では、ピエール=ロラン・エマールのバッハがそうだった。これはそのときにご報告したとおり、聴いてみて驚いて、自分の先入観をすこし恥ずかしく思いつつ、愛聴盤のひとつになった。なお、これは余談ながら、一昨日(6月7日)、そのエマールが『フーガの技法』をリサイタルで弾いているのを偶然にテレビで見かけた。もうすこし早くから放送に気がついていればよかった、と悔やみつつ興味深く見た。楽譜を見ながら弾いているのが印象的だった。


Mozart-Abbado-Carmignola あるいは――これも結果としてよかった例――最近クラウディオ・アバドが故国イタリアで進めている、若いオーケストラ「モーツァルト管弦楽団」との一連の録音。モーツァルトの交響曲集とヴァイオリン協奏曲全集のふたつが出ている。ぼくはいまのカルミニョーラのモーツァルトへの興味もあって、ヴァイオリン協奏曲全集を買った。オーケストラの溌剌とした新鮮な響きと、アバドとカルミニョーラによる肩の力の抜けたのびのびとした「大人のモーツァルト」が聴けて、とてもよかった。正直、買うときにはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を自分が熱心に聴くとも思えなかったけれど、結局、休日の午前中、家にいるときにはよくこの録音を聴いている。この分だと、そのうち交響曲集のほうも買ってしまうかもしれない。

タイトルに挙げた、エマーソン弦楽四重奏団によるバッハの『フーガ集』は、逆にあまり肯定的には聴けなかった例だ。

エマーソン弦楽四重奏団といえば、いうまでもなく、ニューヨークを拠点として活躍する、いまやアメリカのみならず世界を代表するカルテットのひとつだ。デビュー当時からその先鋭的な解釈、演奏が話題になり、1997年のベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、ちょっとした事件と言っていいくらいの反響を引き起こした。躍動的、スリリング、スポーツカー、伝統無視、そんな形容で語られることが多かった。ぼくも、そんな彼らのベートーヴェンの弦楽四重奏曲をよく聴いているし、モーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲は、一時期は家族中(笑)での愛聴盤にすらなった。

Emerson-IntimateVoices そうしたエマーソン弦楽四重奏団の特質からして、近代・現代の作品での録音が多く、評価も高い。バルトークやショスタコーヴィチはその代表的な例だ。最近ではさらに変化球気味に、グリーグ、ニールセン、シベリウスという北欧の作曲家による弦楽四重奏曲集を発表して話題になった。こうした楽曲は、たとえばフィンランディアやBISといった北欧系のレーベルから発売になるというのであればわかるが、メジャー・レーベルであるDGから発売になるというのはめずらしい。こうした企画が、演奏者自身によるものなのか、あるいはレコード会社による発案なのか、ぼくにはよくわからないけれど、エマーソン弦楽四重奏団が持つイメージと、レコード会社が求める話題性がぴたりと一致して、具体的な成果として出てきたものだという印象だ。

そんなエマーソン弦楽四重奏団の最近の特徴的な活動のひとつとして、トランスクリプションの演奏がある。

トランスクリプション(編曲版)とはいっても、彼らのやることだから、いわゆる有名な曲をカルテットで演奏しました、というような単純なものではない。2003年にバッハの『フーガの技法』、その翌年にはハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』をリリースしている。ちなみに、これらの楽曲は、ぼくが勝手にトランスクリプション系だと言っているだけで、厳密にはたぶん正しくない。たとえばハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』は、たしかにもともとオーケストラの楽曲として作曲されたものだけれど、弦楽四重奏曲版に編曲したのは作曲者自身であり、トランスクリプションではなく本来の弦楽四重奏曲だという考えかたもできる。ぼくがここでいう「トランスクリプション」というのは、字義通りの編曲版ということではなく、通常ではあまり弦楽四重奏としては演奏されない楽曲を、企画的な意図も含めて演奏すること、くらいの意味だ。

Emerson-Bach『フーガの技法』の楽曲そのものは、エマールの同曲の演奏について書いたときに触れたので、その由来についてはもうここではくり返さない。エマーソン弦楽四重奏団によるこのCDが発売されたとき、ぼくは大いなる興味と期待をもって購入した。そして一聴して首をかしげた。ほとんどなにも、感じるものがなかった。演奏がとても平板的に聴こえた。

それは、ぼくの音楽演奏の背景知識が貧弱だからかもしれない。この『フーガの技法』を弦楽四重奏として演奏することが、どれほど技術的に困難なことか、平板的と感じられた演奏を実現することがどれだけ驚異的なのか、ほとんどわからない。だから単純に『フーガの技法』のトランスクリプションとして聴いた。

そこになにを期待していたのか。それまでのエマーソン弦楽四重奏団の演奏に対する肯定的な印象と、いっぽうで――これはべつの演奏家のものだが――おなじように弦楽器を交えて演奏した、リナルド・アレッサンドリーニとコンチェルト・イタリアーノによる、研ぎ澄まされ、緊張と生命感に溢れた音楽の印象――そうしたものが脳裏にあったのだと思う。

Emerson-Haydn翌年にリリースされた、ハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』でも、平板的という印象は変わらなかった。ただこの楽曲のことは、そもそもよく知らないところが多いから、ぼくはきちんとはわかっていないのかもしれない。弦楽四重奏としての美しさはわかったけれど、魅力という意味では感じとることができなかった。

Emerson-Bach2そうして今年――2008年、3作目となるトランスクリプション、『フーガ集』がリリースされた。このリリースのことを知ったとき、どうしても前2作のことが脳裏をかすめ、あまり積極的には聴きたいという気持ちにはなれなかった。でも買った。ここまでくると買うとか買わないとか、そういう議論はないような気がした。こんどこそ、という期待感もあった。

この『フーガ集』は、バッハの鍵盤楽器用の『平均律クラヴィーア曲集』から編曲されたものだ。主な編曲者は、モーツァルトと同時代の作曲家だというフェルスター。「主な」というのは、このアルバムにはフェルスターのほかに、モーツァルトによる編曲で、K.405として知られる『5つの4声フーガ』の5曲と、ベートーヴェンの編曲による1曲が収められているからだ。

聴いた結果はといえば――楽曲がちがうとはいえ、その演奏から受ける印象は、やはり『フーガの技法』と大きくはかわらなかった。美しくはあるけれど平板的で重たく、魅力的とは感じられなかった。どうもくり返して聴きたいという気持ちにならない。

こうした印象になる理由のひとつには、聴くほうの耳が古楽器によるピリオド奏法に慣れてきてしまっている、ということがあるのだと思う。ノン・ビブラートで軽快に、躍動的に音楽の生命感を伝えていこうという最近のアプローチは、さきに挙げたアレッサンドリーニによるバッハでも、音楽の緊迫感となって力強く伝わってくる。

でも――そもそもエマーソン弦楽四重奏団は、スリリングで先鋭的な音楽の旗手として語られることが多かったのではないか。それがここにきて、急に保守的で鈍重になってしまったのだろうか。

この記事を書くにあたって、手許にあるさまざまな彼らの演奏を聴きなおしてみた。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いているとき、ふと思いついて、ジュリアード弦楽四重奏団の90年代の録音をかけてみた。乱暴な言いかたをすれば、演奏を収録した時期はほぼいっしょであっても、エマーソンは新世代、ジュリアードは前世代の演奏家だ。そして、こうしてあらためて比べてみると、前世代であるはずのジュリアード弦楽四重奏団の演奏のほうが、活力と躍動感があった。

そういうことか――すでに多くの方々が理解されていることに、ぼくはいまようやく気がついたのだと思う。スマートでスリリングな演奏といわれる故に、エマーソン弦楽四重奏団の演奏には、力強さが感じられない。緊迫感はあるけれど、決して躍動的ではない。それがバッハやハイドンのバロック音楽において、ことさらに表面化してきたのだと思う。それはどこか、まえに触れたカラヤンの音楽美学に通じるものがある。

エマーソン弦楽四重奏団は、さまざまな挑戦を厭わない、アグレッシヴな演奏家集団だ。今回のバッハにしても、ぼくにはそれを受けとる器がなかったということだけで、高い演奏技術や深い作品への理解など、世間ではおおむね高い評価で迎えられている。でもやっぱり、今回の演奏は、ぼくとしてはどうも好きにはなれない。画期的な試みだけに、そしてこうした試みを世間で話題にできるだけのブランド力があるだけに、個人的には残念な気持ちが拭いきれないけれど、まあそれはそれで仕方がない。

Emerson-Mozart-Brahms いっぽうで、さきに挙げたモーツァルトやブラームスの演奏は、あらためて聴いてみると、彼らの「薄味」の部分が、ある種のさわやかさにもつながっていて、気持ちがいい。ブラームスで「さわやか」とはなにごとぞ、という話もあるけれど、手許にあるものでマイヤーとABQによる演奏に比べてみても、シフリンとエマーソンの演奏は、これはこれでやっぱりよいのだ。だからこそ、わが家のような素人集団でも、重たさと悲しみにメゲるようなこともなく、くり返し聴くことができたのだろう。

 

弦の奏法という意味で、今回のバッハの演奏を支点にして、はからずも現在の古楽界の演奏とエマーソン弦楽四重奏団の演奏を比べることになった。両者は似ているようでいて、じつは対極にあるということに今回はじめて気がついた。

弦楽四重奏という演奏形式は、ハイドンが開拓し、ベートーヴェンが確立したとされる。それ故に、この弦楽四重奏を旨とする演奏家集団は、バロック音楽の奏法とは直截的には邂逅することはないのかもしれない。それでも、趨勢としてはピリオド奏法が確実にベートーヴェンの演奏を変えつつあるし、やがてはこの弦楽四重奏の分野にも、さまざまな影響を及ぼしてくるのかも――なんて、つい想像してしまう。でも、それをやるとしたら、エマーソン弦楽四重奏団ではないのかもしれない。

ぼくは決してピリオド奏法信者というわけではない。それでも、これらの奏法の考えかたの基礎のひとつとなっている、音楽に生命力や躍動感を、という方向性は、ひとりの聴き手として歓迎している。それが「奇をてらう」ような演奏になってしまったら困るけれど。

 

 

Annotations :
J.S.バッハ: フーガ集 / エマーソン弦楽四重奏団 :
J.S.Bach: Fugues 
Emerson String Quartet 
DG: 00289 477 7458 
Link : HMVジャパン
J.S.バッハ: フーガの技法 / エマーソン弦楽四重奏団 :
J.S.Bach: The Art of Fugue
Emerson String Quartet
DG 474 495-2
Link : HMVジャパン
J.S.バッハ: フーガの技法 / エマール : 
J.S.Bach: DIE KUNST DER FUGE 
Pierre-Laurent Aimard, Piano 
DG 00289 477 7345
Link : HMVジャパン
J.S.バッハ: フーガの技法 / アレッサンドリーニ/コンツェルト・イタリアーノ :
J.S.Bach: DIE KUNST DER FUGE 
Concerto Italiano
Rinaldo Alessandrini 
OPUS111 OPS 30-191
Link : HMVジャパン
 

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2008年6月 1日 (日)

マイク・オールドフィールドでクラシック

MikeOldfieldPiano いったいどういう経緯なのかよくわからないのだが、マイク・オールドフィールドの『Tubular Bells』がクラシックの新譜として発売された。HMVで1枚660円という廉価盤ながら2005年の立派な新録音で、クラシック専門レーベル "BRILLIANT CLASSICS" からのリリースだ。

演奏しているのはもちろん本人ではない。4人からなるピアノ・アンサンブル――そのまま "Piano Ensemble" とクレジットされている――のメンバによって編曲されている。特徴的なのは、おなじ『Tubular Bells』が楽器を変え、ピアノ2台+シンセサイザー2台版、そしてピアノ4台版の2種類の演奏が収録されていることだ。両者は本当に楽器を変えているという程度の差しかなく、演奏時間もほぼおなじだ。


MikeOldfieldTribute『Tubular Bells』が、こうしてトリビュートのように演奏されることは、じつはそんなに珍しいことではない。手許には、ほかにも Duo Sonare によるクラシック・ギター2台による演奏、スタジオ・ミュージシャンのよくわからないユニット "Studio 99" による電子楽器を駆使した演奏もある。この Studio 99 版は、できあがった音楽としてはそこそこまとまっているものの、聴き手としては残念ながらトリビュートというよりはパロディにしか聴こえず、よほど心に余裕がないとなかなか聴こうという気にならない (というか、1回しか聴いていない。この記事を書くためにもう一度聴こうとしたけれど、やはり全部は無理だった)。

いっぽうギター・デュオ Duo Sonare のほうは、こちらはアコースティック・ギターによる演奏で、モノトーンの独特の世界観があり、そこにさまざまな演奏技法を駆使することで、『Tubular Bells』のおもちゃ箱を表現しようとしているところがおもしろく、これはこれで楽しめる。

今回の Piano Ensemble による『Tubular Bells』は、どちらかといえば、この Duo Sonare による演奏の印象に近い。実際にCDが届いてみてはじめて気がついたのだが、収録されているのは『Tubular Bells』の Part 1 だけで、ジャケットにもそうはっきり明記してある。通して聴いてみると、この Part 1 の部分だけがピアノ2台+シンセサイザー2台版、そしてピアノ4台版と、くり返して演奏されることになる。ひょっとしたらそのうち Part 2 がリリースされるのかもしれないけれど、『Tubular Bells』というひとつの楽曲の前半部だけを――表現は多少ちがうとはいえ――2回くり返すというのは、ちょっと中途半端の感は否めない。

さて、肝心の演奏のほうはといえば――けっこうドキドキしながら聴きはじめてみると、しごく真面目なものだった。さすがはクラシック音楽としてのリリースだと変に感心した。いっぽうで、25分に近い演奏時間を切れ目なくピアノだけで奏でるというのは、さすがにちょっと単調な感じも否めない。録音にすこしエコー感があり、鮮明というよりは薄く幕をかけたような音色になっていことも関係しているのかもしれない。ギターによる Duo Sonare は弦楽器の特徴を生かしてハーモニクスやらグリッサンドやら多彩な音を引き出してくるし、天板を打楽器として叩いたり本人たちが雄叫びをあげたり、けっこう体当たりな演奏をくり広げる。Piano Ensemble ではピアノ演奏にかぎってはそういう特殊奏法はいっさいない。プリペアド・ピアノを用いたり、足を踏み鳴らしたり、やろうと思えばやれることはあるのだろうけれど、ここはいたって正攻法的な演奏だ。その意味では冒頭のシンセサイザーとの組み合わせのほうが聴いていて色彩感があり、最初はとっつきやすい。ただ、くり返して聴いているのはなぜか4台のピアノによる演奏のほうばかりだ。

Part 1の終盤、独特のベースラインがくり返し演奏されるなか、オリジナルでは出演する各楽器がダミ声で紹介されていく。Piano Ensemble 版では誰もなにもしゃべらないが、ピアノの音がすこしずつ重みを増し、やがて迫力のある壮大な音楽を形作っていく――ここが聴きどころだろう。正直なところ最初はうるさくも感じたけれど、結局引き込まれてしまう。

全体として、オリジナルが作曲された当時、19歳のマイクが抱えていたような狂気と紙一重の執念や、ドロドロとうごめく得体の知れないエネルギーといったものはそこにはさすがに感じられないが、Piano Ensemble によって再構成されたことで、エネルギーだけにささえられたものではなく、楽曲として充分に高い完成度を持っていることが改めて確認できる。

なお Piano Ensemble 盤 Part 1 の最後は、オリジナルの心穏やかな静けさに帰っていく形式ではなく、マイク自身がライブで演奏しているように、力強い踏み込みで終わる。

MikeOldfieldTop HMVのサイトでこのCDのリリースがアナウンスされたとき、いくつか驚くようなことがあった。ひとつは冒頭でも触れたように、オールドフィールドの音楽がクラシックレーベルから発売され、HMVもクラシックサイトでこのCDをとりあげたこと。そして、なぜか積極的にHMVがこのCDを宣伝したこと。かなり長いあいだトップページにニュース・リリースが掲載されていたように思う。

そしてもっとも驚いたのは――HMVのクラシックサイトで、ほんの一時期にせよ、ランキングでこのCDが第1位になったことだ。世界中を席巻したという1970年代ならいざ知らず、どういうランキングにせよ、マイク・オールドフィールドの音楽がいまになって1位になるようなことがあろうとは、思ってもみなかった。ある晩、HMVのサイトを眺めていてこの異常事態に気がつき、思わずハードコピーをとったのが、左上の画像だ。他のランキングから見て、いわゆるライト・クラシックでフィルタされているような気もするけれど、そういうことはこの際どうでもよくて、1位は1位だ。思わず夜中に「うおお」と呻いたことを覚えている。やっぱり『Tubular Bells』というコンテンツの価値は強力ということか。

 

 

Annotations :
Mike Oldfield / Tubular Bells Part 1
Version for two piano and two synthesizers
Version for four pianos
arranged by Marcel Bergmann 
Piano Ensemble 
Brilliant Classics: 8812
Link : HMVジャパン
今回ご紹介した、Piano Ensemble盤。
DUO SONARE plays Mike Oldfield
DUO SONARE 
MDG 630-0628-2
Link : HMVジャパン
本文中で触れたギター・デュオ盤。
Mike Oldfield / Tubular Bells - Remaster 
Mike Oldfield
Virgin 49388
Link : HMVジャパン
こちらがオリジナル盤。
Mike Oldfield / Tubular Bells 2003 
Mike Oldfield
Virgin 49388
Link : HMVジャパン
こちらは以前ご紹介した、Mike自身によるリメイク。よくできていて、いまなら個人的にはこの2003年盤がお勧め。一部でCCCD(コピーコントロールCD)になっている場合があるので注意。

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