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2008年3月の4件の記事

2008年3月30日 (日)

マイク・オールドフィールド / Music Of The Spheres ~ 『天空の音楽』

MusicOfTheSpheres たまたま、前回につづいて “プログレの末裔” というべき新譜が出た。以前ご紹介したマイク・オールドフィールド (Mike Oldfield) の2年ぶりの新作、『天空の音楽』―― "Music Of The Spheres" だ。

2007年の終わりごろから出る出ると言われていながら延期になり、年も明けていよいよ輸入盤が2月に発売確定になったと聞いて予約したら、直前にふたたび発売延期。それだけならまだしも入荷時期はまったく未定ということになってしまった。それで結局、3月に発売された国内盤を購入した。マイク・オールドフィールドの二十数枚あるアルバムのうち、国内盤で買うのは『アイランズ』(1987) につづいて2枚目ということになった――それはもう、20年もまえの話なのだけれど(笑)。


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以前ずいぶん長い文章で書いたように、ぼくにとってマイク・オールドフィールドはとても思い入れのあるアーティストなのだが、じつのところ最近のアルバムはどうも不調だった。2005年の『Light & Shade』は、2枚組という大作ながら、それこそヒーリング・ミュージックというか、なにもないというか、あたりさわりのないBGM集としか思えない内容で、ほとんど聴く気になれなかった。そして、ついに国内版は発売されなかったようだ。無理もないと思う。

だから今回、あたらしいアルバムがリリースされるというニュースを聞いたときにも、期待感よりも一抹の不安感が先に脳裏をかすめたのは事実だし、またそのタイトルが『Music Of The Spheres』という、いかにもという感じのものだったから、ますます不安は募った。しかも、フル・オーケストラによる楽曲だという。行くところまで行ってしまったのかなあ――そんな印象だった。

YouTube につぎつぎと断片がアップロードされていくのを横目にじっと我慢して、3月18日――つまり平日に届いたので、帰宅したあと深夜に聴いた。そして、すこしホッとした。やっぱり最高とは言えないが、すくなくとも前作よりは救いがある。それだけでうれしくなって、リビングで眠りかけている女房に聴かせてみた。すると一聴して、女房は関西弁でこう言った――「このひとは、いつまでたっても Tubular Bells から離れられないんやね

・・・

不覚にも (笑) かえす言葉を失った。まあそうなのだ。そう言われてもしかたがない。冒頭のアルペジオからして、明快に『Tubular Bells』とその世界観を共有している。それでいいじゃないか。と思えるのは、個人的な思い入れを抱いているファンだけで、すこし冷静なひとたちから見たら、もうこの冒頭部分だけで聴く価値を失ってしまいかねない。

ぼくは返す言葉がなかった。「いや、それでも前作にくらべたらだいぶがんばったと思うよ」と、もごもごと弁解したものの、われながら説得力もなにもなかった。

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たまたま、『Music Of The Spheres』のオーケストレーションは、前回ご紹介したイギリスの誇るべき音楽職人、カール・ジェンキンスが担当している。ジェンキンスは、ほぼ同時期に自分の大曲と、この『Music Of The Spheres』を抱えていたことになる。演奏の指揮も、ジェンキンスが担当している。

そのジェンキンスの『スターバト・マーテル』と比較することに意味があるかどうかはわからないが、比較してみるとどうしても『Music Of The Spheres』は聴き劣りがする。『スターバト・マーテル』にはこちらを引きこむような気迫が感じられるのに対して、『Music Of The Spheres』は聴き流せてしまう音楽である。まあ『スターバト・マーテル』が全面的な精神性をかかげた宗教曲である(と確信しつつある)いっぽう、マイク・オールドフィールドの音楽は、30年前からずっと、そうした精神性とは微妙に、しかし明確に距離を置いてきた。その楽天性あるいは娯楽性が大切だと思うからそれはそれでよいのだが。

マイク自身からすれば、フル・オーケストラの楽曲だということで、この作品も大きな挑戦になっているのかもしれない。実際、このアルバムはユニバーサル・ミュージックのクラシック部門からの発売であり、日本でも彼のためのページすら用意されている(ユニバーサル・ミュージックのサイト)

でも、言いづらいのだが、今回の作品で聴き手としてなにかあたらしさを感じるとすれば、このフル・オーケストラであるという点くらいのような気がする。ユニバーサルのサイトではクロスオーバー&サウンドトラックのひとつとして紹介されていて、たしかに映画のサウンドトラックを聴いているような印象だ。ふだん、ほとんどの楽器を自分で演奏して自分で仕上げていくようなひとが、アレンジをほかのひと(ジェンキンス)に託して楽曲を作りあげたということも関係するのかもしれないけれど、いまの音楽として、聴いてただ心地よいというだけではなくもう一歩踏み込んだこだわりがほしい、というのが正直なところだ。

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前回のマイク・オールドフィールドの紹介で、1970年代に活躍したプログレ一族のうち、21世紀に入ってなおコンスタントに新作をリリースしてくれる貴重な存在、という趣旨のことを書いた。彼はすでに、多くの印象的な作品を残してくれている。世間ではただひたすら『Tubular Bells』だけが有名で、それゆえに一発屋と揶揄されたりもするけれど、彼の代表作と呼ぶべきもの、彼にしかできない音楽はけっして『Tubular Bells』だけではなかった。

だから、これから出てくる新作はある意味でボーナスのようなものと捉えるべきなのかもしれない。だいたい年齢ももうとっくに50歳を超えている。いつ引退したっておかしくはない。ただそれでも、そうは思っていても、新作が出るたびになにかこれまで聴いたことのない、なにかあたらしいものを期待してしまうのだ。それはもちろん、マイク・オールドフィールドという音楽家が、ほかにかえがたい稀有な存在であるから、だ。

 

 

Annotation :
Mike Oldfield : HMVジャパンのアーティストページ
Link : HMVジャパン
Mike Oldfield :  Music Of The Spheres
ユニバーサル インターナショナル : UCCS1113
Link : HMVジャパン
Link : Universal Music Japan

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2008年3月23日 (日)

カール・ジェンキンスのスターバト・マーテル

Jenkins-Stabat-Mater カール・ジェンキンスといえば、“アディエマス” プロジェクトの印象が強く、ジェンキンズ個人の名前で、こういう大きな宗教曲を出しているとは知らなかった。今回新譜として出たのは古典的な『スターバト・マーテル』だが、これまでにも『レクイエム』はじめ、いくつかの楽曲をリリースしている。


ぼくはジェンキンスの熱心な聴き手というわけではない。実際、「ジェンキンスといえば、“アディエマス”プロジェクト」と言いながら、持っているのは恥ずかしながらベスト盤1枚。何年かまえにこのベスト盤を買ったとき、なにか琴線に触れるものがあれば、個別のアルバムを買っていこうと思ってはいた。結果としてそれなりにこのアルバムを聴く回数は多かったものの、世界を広げていこうとまでは思わなかった。むしろヴォーカルのミリアム・ストックリーのソロ・アルバムに走った。

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今回のアルバムのタイトルである『スターバト・マーテル (Stabat Mater)』はラテン語で、日本語では『悲しみの聖母』と訳される。13世紀カトリック教会で成立した聖歌(詩)であり、磔刑となったわが子キリストを想う、母マリアの悲しみの気持ちがうたわれている。

Pergolesi-Alessandrini この詩に対して、これまで多くの作曲家が曲をつけてきた。たぶん、もっとも有名なのは18世紀のイタリアの作曲家、ペルゴレージだろう。作曲家として有名ということであれば、ほかにもアレッサンドロとドメニコのスカルラッティ親子、ヴィヴァルディ――さらにウィキペディアを調べてみると、ロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランクなど、まさに枚挙に暇がない。そんななかで、後世においてモーツァルトとならび称されるほどの才能を持ちながら、わずか26歳で夭逝したペルゴレージのスターバト・マーテルは、この曲の傑作といわれている。

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カール・ジェンキンズが、そんなスターバト・マーテルに曲をつけ、発表した。冒頭にも書いたように、ぼくは彼がそういった活動をしていることを知らなかったし、多少ともスターバト・マーテルの由来くらいは知っていたので、いったいどんな音楽になっているのか、好奇心を抑えきれなくなった。アディエマスの楽曲は、NHKスペシャル『世紀を超えて』のテーマでも使われたことからわかるように、親しみやすく聴きやすい。その上でキリスト教圏のみならずアフリカ、東洋、中東の音楽を包含して、ポップス、クラシック、プログレ残党の要素が混在する独特の世界を形成している。だが、あれはあくまでもアディエマスの音楽だ。ジェンキンスが真摯に宗教曲に対峙したとしたら、それは精神性を主としたまたまったくべつの世界になるのかもしれない――。

結果はといえば、それはやはり、アディエマスをつくったジェンキンスの世界だった。それどころか、ところどころアディエマスの曲で聴きおぼえた旋律も登場する。スキャット主体で構成されているアディエマスの音楽に対して、ここでは歌詞が聴きとれることが新鮮だった。ギリシャや中東の音楽がふんだんにとりいれられていて、古典的なキリスト教音楽の世界観に、民族音楽的な要素が加わっている。

だからよかったのか、悪かったのか、それは微妙なところだ。1回目は、ぼくはわりとあっさりとこの曲を聴きながした。もしぼくが十代だったら、このボーダレスな世界観には、ひょっとしたら夢中になったかもしれないな、と思った。だがどちらかといえば、いまはジェンキンスの手腕というか、職人芸的な音楽の構築技術に冷静に感心したという印象だった。

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数日おいて、2回、3回と聴きかえすうちに、すこし印象が変わってきた。ジェンキンスの親しみやすい旋律、アレンジの背後に、もうすこしちがうものが聴こえてくるようになった。彼の職人技にやられたのかもしれない(笑)。この音楽をヒーリングのひとつとして聴きながすこともできるが、それだけではすまされないものもたしかにある。終盤、中東の旋律にのって歌われるアラム語のテキストは、意味は英訳でしかわからないけれど、訴えかけてくるものがある。そのあたりをヒントにしてさらに全体を聴きかえしてみると、だんだんと聴きながすのがむずかしくなり、気がつけば聴きいっているということになってきた。

発売元のEMIはこれをクラシック音楽と位置づけているようだが、アディエマスの音楽と同様、このスターバト・マーテルを分類することはむずかしい。ぼくはクラシック音楽も聴くけれど、その観点で聴くと拒絶感を引き起こしやすい。こうしたカテゴライズのむずかしい音楽のうち、耳になじみやすい旋律を持つものは、多くのプログレの末路と同様に、やがてヒーリングミュージックとして分類されるようになる。

それでもいいのかもしれないが――この楽曲にこめたジェンキンスの想いは、いまのぼくにはわからない。単に楽曲の題材のひとつとして、古典としてのスターバト・マーテルが選ばれただけなのかもしれないし、あるいはそれを超えて純粋に宗教的あるいは人間的な姿勢があって創作されたのかもしれない。ぼくは聴き手として後者であってほしいと思うが、それはジェンキンスの想いとはまたべつに、これからの時間が決めていくことになるのだろう。ぼく自身がどう捉えていくのか、ということも、もうすこし時間が経ってみないとわからない。ただすくなくとも、分類に困るような世界を構築し、それでなお一定の “親しみやすさ” と “聴かせる力” を持つ音楽を創造するカール・ジェンキンズは、ときに職人技という表現もしたけれど、ほんとうにすごい音楽家だと思う。

 

 

Annotation :
Karl Jenkins : Stabat Mater 
EMI Classics: 50999 5 00283 2 0 
Link : HMVジャパン

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2008年3月22日 (土)

モーツァルトの交響曲全集

Mozart-Symphony2 「全集」という言葉の響きは、とても充足した気持ちにさせてくれる。知りたい、聴きたいと思う対象について、全集を手に入れるということは、読んで字のごとくそのすべてを手に入れるということだ。完全無欠であり、完璧で、もうなにもこれ以上必要なものなどない――なんて言うと大げさだけれど、そういう豊穣な気持ちになる。

それは、分厚い技術書を買ったときの充足感とおなじ種類のものだ。本を買ったからといってその技術が身につくわけではない。でも、その本を買うことで――たとえ読まなかったとしても(笑)――なんとなく自分がその技術を征服したような気持ちになってしまう。それはまやかしの感情なのだけれど、職場の若い連中にはそういう自分への暗示も案外大切だと、すこしくらいは冗談だがまあまあ本気で言っている。それであらたな技術分野に対峙する気持ちが整うのであれば、それだけでも充分すばらしい効果だ。


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モーツァルトの交響曲全集を買った。選んだのは、ボリューム感たっぷりで格安のセットものを発売しつづけ、ぼくのような素人の音楽の購入スタイルを変えさせたと言っても過言ではないオランダの Brilliant レーベルによる 11枚組。ヤープ・テル・リンデン指揮による、アムステルダム・モーツァルト・アカデミーの演奏。聞いたことのない指揮者による、聞いたことのない古楽器オーケストラによる演奏(...)。

ぼくはモーツァルトの音楽がとても好きだが、最近はそう頻繁には聴かなくなった。モーツァルトの音楽のことについて書きはじめるとはなしが終わらなくなるのでここでは深入りはしないが、とても好きだといいつつ、たとえば一般に41番まであると言われる交響曲について、どれだけ聴いたことがあるのだろうと考えると、たぶんその半分にも満たない。

じゃあ、その残りを聴きたいのかと問われると、それはまあ聴いてみたいというか好奇心はあるのだけれど、ほかにも聴きたいものがありすぎるし、正直なところ学術的な観点も持ちあわせているわけではないので、わざわざ初期の交響曲群をお金をだして買おうという気にはなれない部分もある。

それが、こうしたバジェット価格の交響曲全集では可能になる。すべての交響曲が収録されていて、価格はだいたい5,200円。たった5,200円で、ひょっとしたら一生聴く機会のなかったかもしれない(?)、モーツァルトの全交響曲がいつでも好きなときに聴けるようになるのだ。

Mozart-Symphony3 さっそくいつものように PC に TTA形式でリッピングしてみると、全部で144トラックあった。さすがはモーツァルトの交響曲全集――ささやかな満足感をもってCDを棚に収納しようとモーツァルトのコーナーに目をやると、そこには驚くべきものがあった――なんとそこには、すでにべつのモーツァルトの交響曲全集があったのだ。チャールズ・マッケラス指揮のプラハ室内管弦楽団による演奏だった。何年かまえに購入したものの、どうもすっかり忘れていたらしい。ふだん、いいかげんに聴いているのがバレてしまうような話だ。

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テル・リンデン盤の演奏は、古楽器系ということで期待していたとおり、小気味よく颯爽としていてとても気持ちがいい。たとえばアーノンクールのように “やる気と個性” まるだし、というような演奏ではない。かといって、BGM的に美しいけれどなにもない、というような演奏でもない。BGM的というかロマンティック・コンサート的度合いでいえば、マッケラスの録音のほうがその趣がつよい。マッケラス盤は通奏低音にチェンバロを加え、全体に疾走感があってよいのだけれど、それが “流しているだけ” のようにも聴こえてしまう。対して、今回のテル・リンデンの演奏は、躍動感を持ちつつも落ちついた端正な演奏になっており、聴いていてとても気持ちがいい。

モーツァルトの交響曲全集は、第1番から第41番までが整然と並んでいるわけではなく、研究が進んだ結果、欠番したり、あるいはあらたに交響曲とみなされた曲が追加になったりしており、それはマッケラス盤もテル・リンデン盤も例外ではない。さらに、テル・リンデン番は、有名な第40番の交響曲について、初稿版と、その後モーツァルト自身によって改訂されたクラリネットつきの版が収録されている。今回のCDを買うまで、この交響曲にそういう版のちがいがあるとは知らなかった。

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全集を手にいれて、すべてを聴いたのかといえば、じつは――やっぱり――全部はまだ聴いていない。ただ、休日の朝、気の向くままにのんびりと聴いている。そういう聴きかたでいいのだろうと思っている。

 

 

Annotations :
モーツァルト/交響曲全集 :  Mozart: Symphonies 
Jaap ter Linden, Conductor
Mozart Akademie Amsterdam
Brilliant Classics: BRL92110 
Link : HMVジャパン

Sir Charles Mackerras, Conductor
Prague Chamber Orchestra
TELARC: KZ-80300
Link : HMVジャパン

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2008年3月 2日 (日)

ハイティンク/シカゴ響のブルックナー、交響曲第7番

Haitink-Bruckner7 先日ご紹介したマーラーの交響曲第3番にすっかり感心したので、やや高めの価格設定にもめげずに購入した。でも残念ながら、感心というところには至らなかった。

いかにもハイティンクらしい、流麗な演奏。そしてシカゴ交響楽団の馬力感もたっぷり。両者の良いところが出ているのに、演奏全体としてはとくにこれ、というものが感じられない。

そんなはずは。そう思って何回か聴きかえしても、やっぱり印象はかわらない。単純に期待が大きすぎたのかもしれないのかもしれないが、これはいったいどういうことだろう、と、しばし考えこんでしまった。


やがてわかってきたのは、結局、ハイティンクとシカゴ響は、マーラーのときとなにもかわっていないということだった。前回のマーラーのときに、このように書いた――「迫力だけで圧倒するのではなく、あくまでも明確で自然な流れで音楽を導いていく」。この演奏スタイルが、マーラーでは混迷気味の音楽を明晰で豊かに聴かせ、ブルックナーの広大な音楽では単調気味に聴かせてしまうのだ。

いや、もともとブルックナーは表面的に聴けば単調に感じるものだ、おまえはブルックナーがわかっていないのではないか――そう言われてしまいそうだし、それにはあまり抗弁はできないのだが、ぼくは、ハイティンクとシカゴ響の熟練した職人芸が、ぎゅっと詰まった密度の濃いブルックナーを響かせ、それが逆に、妙に足どりが軽く、きらびやかな印象を与える演奏にしてしまったのではないかという気がする。ブルックナーに求めたい呼吸感、間(ま)の美学、彼方を見つめるような視線、そういった世界観にどっぷりとつかるというよりは、ひとつのなにげない演奏会、という感じだ。

もちろん、そのとおりだ――これはシカゴ交響楽団の自主制作によるライヴの記録なのだから。そう思って聴くと、力感のあるすばらしい演奏であることはまちがいない。ただ、こちらが前回のマーラーの第3番を聴いて、それに感銘して、それとおなじような独自性、高みを求めてしまうから、期待に応えていないかのような演奏に聴こえてしまうのだろう。それは、ぼくがフィラデルフィアやニューヨークあるいはオランダのコンセルトヘボウの出す自主制作盤を讃えておきながら、いっぽうで新譜を出すことの少なくなったレコード会社が心配しているとおりの聴衆の反応を見せてしまった、ということなのかもしれない。

この演奏を聴きながら、むかし、大阪のシンフォニー・ホールで聴いた、ゲオルグ・ショルティとシカゴ響による、おなじブルックナーの7番の演奏を何度も思い出した。それはオーケストラの響きに当時を髣髴とさせるものがあったからだと思うが、同時に、ショルティの一種のバーバリズムについても想わずにはいられなかった。ぼくはショルティのブルックナーは全面的には受け入れられないでいるのだけれど、その演奏には以前の記事で「カタルシス」と表現したような、五感に恍惚と訴えかけるような、強烈なエネルギーがあった。

ハイティンクは、そうしたバーバリズムとは対極にいる指揮者だ。シカゴ響からの強い要請で就任したと聞くこの首席指揮者が、これからどういう音楽をやっていくのか――これは結局、前回とおなじ結論になるのだが、"CSO-RESOUND" というメディアを通じて、これからゆっくりと楽んでいきたいと思う。

 

 

Annotation :
ブルックナー/交響曲第7番ホ長調 :
Bruckner: Symphony No.7 in E major 
Bernard Haitink, Conductor
Chicago Symphony Orchestra
CSO-RESOUND CSOR 901 704 
Link : HMVジャパン

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