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2007年10月 7日 (日)

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』

ノスタルジア10月というこの気候のいい時期に、今年のうちの会社では4連休がある。平日の休みも含まれるのでどこか旅行でも行こうということになるはずだったのだが、間の悪いことにというかなんというか、子供の運動会と地区の運動会が連続してど真ん中に入っており、しかも役員をしている女房はその前日は準備で借り出され、結局連休の初日はひとりですごすことになってしまった (その翌日からは、もちろんぼくも運動会へ行くのだ)。


もちろん、ふだん騒々しい生活をしている者としては、ひとりの休日はこれはこれでありがたく、めったに観れない映画でもゆっくり楽しむことにした。未開封のままのDVDやらサーバーのなかやらをあさっているうちに、ふと (またもや) 録画した覚えのない映画を見つけた。アンドレイ・タルコフスキーの映画はこれまで何度か観ていたが、見つけた『ノスタルジア』は観たことはなかった。

「ちょっとさわりだけ」というつもりで再生し、結局そのまま最後まで観つづけてしまった。10代後半から20代にかけて、さまざまな "表現" に惹かれてさまざまなメディアに触れることに夢中になっていたころ、圧倒的な映像美と "間" で存在感を示していたタルコフスキーの映画も何本かは観ていた。でも正直なところ、40歳をすぎた年齢になって、世のサラリーマン諸氏と同様、大げさに言えば経済戦線の最前線で過ごす日々にあって、精神的な意味でこうしてゆっくりとタルコフスキーの映画を観てすごすことができようとは思ってもいなかったので、自分でもすこし驚いた。

しかも、窓の外は秋のさわやかな昼下がりである。今年は猛暑のためか、日差しは秋というよりは夏の名残が感じられる。さんさんと輝く太陽。決してしんとした夜中というわけではない。タルコフスキーを観るにしては、われながらちょっとへんな時間帯のような気がする。

そんな状況でも、とくに退屈することもなく違和感を感じることもなく、静かに最後まで観ることができたのは、たぶんこの映画の時間感覚、静寂感が頭と身体にしっくりとなじんだということなのだろう。むかしから、日本人はまったくの無音の世界ではなく、虫の音や風の音に静寂を見出してきたと聞く。それとおなじようなことが自分にも起こったような気がする。なにもない状況ではなく、タルコフスキーの映画がぼくのところに静寂をもたらし、その静寂が休息の時間を与えてくれたのだろう。

§

『ノスタルジア』は、タルコフスキーの映画としては比較的わかりやすい。たぶんソ連の外(イタリア)で制作されたことが影響しているのだろう。映像美はそのままに、独りよがり度がいくぶん緩和され、周囲にすこし心を開いているように思える。それはイタリアで「外」のスタッフと仕事をするという、タルコフスキーの心情と譲歩の表われのような気がする。いっぽうでイタリアならではと思える美的感覚が、モノトーン的なタルコフスキーの映像美にほのかな色彩感を添え、映像は圧倒的に美しい。

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