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2007年10月の5件の記事

2007年10月21日 (日)

B&W 802D と 部屋の対策 (その2)

Wall2以前ご報告した通り、B&W の 802D が到着してから、気持ちはすぐに部屋のほうに向いていった。これはスピーカーを変えることで、ようやく関心が機器からその周辺へと向ける余裕ができるようになってきたということと、最初から心配していた通り、部屋の大きさを考えればすこし大きめのスピーカーを入れているので、音が飽和しきってしまうのではないかと懸念したからだった。

ウーファーの大きさから言っても、ALR/Jordan Note 7のアルミ15cmの2発から、B&W 802D はロハセル20cmの2発にかわり、音量というよりは音圧が強くなった。大きめの音量のときには室内の机などが振動しているのがわかる。部屋をデッドにしすぎてはいけないと言われつつ、こうした余計な振動は雑味の原因となりそうなので、これはこれで対策を考えていこうと思っている。


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そんななかで今回手を入れたのは、スピーカーの反対側の壁面にあるクローゼットの扉。高さ2.3mの細長い板2枚。いかにもたわんで振動しそうだし、実際に手でそっと触れてみると振動しているのがわかる。このクローゼットの扉の表面に、簡単な吸音材を置くことにした。

Thinsulate 素材は、住友スリーエムの誇る吸音断熱素材シンサレート。吸音素材としては自動車や建築素材として利用されており、今回は関係ないけれど断熱素材としてはスキーウェアなどのスポーツウェアに採用されている。

このシンサレートをオークションで入手して、1500mm×350mm の吸音材を2枚、製作した(正確には、女房に作ってもらった)。長さが1.5mもあるので、特別な機械もなく、ちびっ子が暴れまわるわが家では、裁断と縫製が大変だった。ぼくが家にいる休日の深夜、子供たちが眠ってからの作業にならざるを得ないし、シンサレートにしても生地にしても、広い範囲をまっすぐに切ろうとすれば、それなりに場所もいる。熱帯夜のなか、たいして広くもない家のなかを移動しながらの作業だった。裁断のあとは、女房が黙々と(ブツブツと)布端部をマツリ縫いをして、袋状に加工をした。

シンサレートは13mm厚。いろいろ考えて2枚重ねにした。これ以上厚くするとデッドになりすぎるような気がした。理屈の上では26mm厚になるはずだが、多少は圧迫されて薄くなるので20mm程度。面積が大きいことも関係してほとんどシート状という感じだ。これを近所の手芸店で買ってきた綿100%の生地でカバーしている。背面はホック止めにして、吸音材の入れ替えや調整ができるようにしてある。

設置はとても簡単だ。ホームセンターで買ってきたコの字型の金具を吸音材の上部にフック代わりにつけて、クローゼットの上から吊るすだけ。大きいこともあって軽量素材ながらそれなりに自重もあって、すっと下まで自然に垂れ下がっている。クローゼットの扉の開閉もなんら問題なし。

それで肝心の効果のほうはといえば、これはプラシーボの可能性もあることをお断りしたうえで言うのだが、期待以上だった。音の雑味が減って静けさが増し、スピーカーからの音がより明瞭に聴こえるようになった。前面を覆うこの吸音材のおかけで、扉がびりびりと振動することもなくなった。結果としては充分満足している。クローゼットの扉に吊るしているだけなので、いつでも簡単にはずして比較実験もできる。でもまあ、充分改善には満足したし、部屋もぼくの耳もなじんでからはずしてみても遅くはない。それで効果がなかったということになったら女房に殺されるような気がするから、べつに無理に比較実験などする必要もないのだが。

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つぎは、上で書いたように机など家具の振動対策か、あるいは―― これはそれなりに勇気をもってやらないといけないのだが―― 天井の対策である。家具の振動対策は、たぶん見えないところに制振素材を貼っていくことになると思う。天井はいまのところ具体的な案はない。QRDのスカイラインがよさそうな気がしているものの、見た目の問題と価格面でちょっと躊躇するものがある。できれば今回のように自作できれば楽しくていいのだが、また楽しいのはぼくだけ、ということになりそうな気はする。

Annotations :
シンサレート : Thinsulate
公式サイト: 住友スリーエム Thinsulate

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2007年10月14日 (日)

鈴木雅明/BCJの J.S.バッハ ミサ曲 ロ短調

BCJMassInBMinor 鈴木雅明とBCJ(Bach Collegium Japan/バッハ・コレギウム・ジャパン)が録音をつづけているJ.S.バッハのシリーズから、"ついに" というべきだろう、ロ短調のミサ曲 BWV 232が発売された。レーベルはいつもの通りスウェーデンのBIS。録音場所もこれもまたいつもの通り、神戸松蔭女子学院大学のチャペルである。

すでに実演では日本で何度か演奏されているようなので、CD/SACDではなく先に実演で触れた、という方も多いと思う。ぼくはといえば、恥ずかしながら、家族やら仕事やらのいいわけ的事情で実演のほうに触れる機会はまったくないので、このディスクを大きな期待をもって待っていた。


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BCJMatthaus鈴木とBCJによるバッハは、ぼくにとってはマタイ受難曲BWV 244が定番中の定番だ。演奏もさることながら、以前から評判のよい神戸松蔭のチャペルでのBISによる録音は、歴代のアンプやスピーカーの試聴時にはかならず同伴している。実際に機器が搬入されたときにかける、栄えある(?)最初の演奏曲も、このCDだったことが多い。

このマタイ受難曲の演奏は、もちろんいうまでもなくすばらしい。古楽器特有の透明感と演奏の歯切れのよさをもって、力みすぎず、緩みすぎず、3時間ちかい長丁場を丁寧に丁寧に描いていく。鈴木とBCJは代表作であるカンタータ全集も含めて、かなりの頻度でレコーディングとコンサートをこなしていると思うが、そうした多忙ななかで、こうして丁寧に曲を作り上げていくところは、ほんとうに立派だと思う。その真摯な姿勢は、たいした宗教心もなく、音楽も聴くだけのぼくにも、ひしひしと伝わってきて「特別なもの」に触れているという気持ちにさせてくれる。

BCJMassBDataそれで、今回のロ短調ミサだが、これはおそらく、かなり編成を絞った演奏になっているようだ。冒頭のキリエでの合唱の薄さには、正直かなり驚いた。マタイ受難曲のときには、小規模感や透明性を感じたとしても、薄いとは思わなかった。その後の二重唱でも、薄いという印象はつづく。二重唱は二重唱であって厚いも薄いもないはずなのだが、やはり平面的で薄いように感じる。

これはどうも、器楽や合唱の編成の話だけではないようだ。よく聴いていると、マタイ受難曲でよいと思っていた「歯切れのよさ」が感じられず、全体として平面的に、単調に音楽が響くように聴こえる。楽器の演奏然り、歌手の歌い方然りである。上手かどうかというところではわからないのだが、ぼくがBCJの演奏に期待していたところとはややちがっていた。

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ロ短調ミサは、これまで主に現代楽器での演奏で触れてきた。世界遺産ともいえるリヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団による演奏、カラヤンとベルリン・フィル(BPO)による演奏、最近では小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる演奏。カラヤンとBPOは、CD化されているのは1970年代の演奏であり、いまはこれを聴くしかないのだが、ぼくが若いころに愛聴していたのは、死の直前である1980年代後半に、たしかザルツブルグ音楽祭で演奏した録音だった。NHK-FMで放送されたものを録音し、カセットテープでくり返し聴いた。カラヤンというと、大編成でエネルギッシュ、ドラマチックな演奏を想像する向きも多いと思うけれど、このザルツブルグ音楽祭でのロ短調ミサは、むしろ明るく穏やかで、聡明な音楽として演奏されている。晩年のカラヤンは、ブルックナーでも顕著だったように、穏やかな呼吸感と静かな目線の音楽を奏でるようになり、音楽そのものが祈りのように聴こえていた。ぼくはその時代のカラヤンの演奏に感銘していた。

BachMisaBMinor2このごろはもっぱらロ短調ミサといえば小澤とサイトウ・キネン・オーケストラの演奏を聴く。これは2000年の長野県松本文化会館での演奏だ。この時代くらいになってくると、いわゆる古楽器奏法が多少なりとも意識されている。バロック・ボウが用いられ、それにゆえに簡素で明るい音で音楽になっている。そこからくる印象は、1980年代のカラヤンの演奏から得ていた好印象と通じる。

マタイ受難曲が題名のとおり物語性を持ち、それゆえに音楽も複雑でシリアスであるのに対して、ミサ曲ロ短調は物語性を持たない祈りの音楽であり、しかもロ短調といいながら全体的には長調的な明るい響きが支配的だ。ここでバッハの音楽について書くのはとてもぼくの手に負えるようなものではないのだが、すくなくともぼくはロ短調ミサをマタイ受難曲ほど深刻にはとらえず、わりと気軽に音楽として聴くことが多い。そしてその音楽は、上で触れたカラヤンや小澤の演奏の印象のように、この長大な音楽を簡素で軽く、明るい響きで淡々と演奏するものを好む。逆にこの曲にかぎっては、リヒターやジュリーニの演奏のように、あまりに重厚な演奏は苦手だ。

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鈴木雅明とBCJの演奏は、こうした側面からいえば、まさに真打ちの登場と期待した。

精緻にして静謐。このロ短調ミサは、彼らの演奏するほかの音楽と同様に、そう表現したくなる演奏だ。この音楽に対する姿勢が、かつてのマタイ受難曲では楽曲本来の持つドラマ性とあいまって稀有の表現につながっていたように思う。逆にロ短調ミサでは、楽曲が祈りそのものとして穏やかに推移していくなかで、演奏が精緻であるがゆえの平板さが出てきているような気がする。これは、誤解を恐れずにいえば、たぶん鈴木雅明の姿勢からくるものではないかと思う。音楽に対して真摯であり、学究的であるが故の緊張感がすこし強すぎ、音楽の息遣いという点ではどこか平面的になってしまったように思った。

もちろん彼らの全世界共通的な評価はぼくのなかでも何ら揺らぐことはない。音楽は充分に研究され、それを具体的な音楽として形にする感性も技術もある。聴き手は、全幅の信頼を置いて音楽に没頭することも、この演奏を通じてバッハの音楽について考えることもできる。ぼくはCDで聴いているが、おそらく実演で触れた方々は、ぼくが聴いているものとはくらべものにならないほどの美しさ、音楽の真摯さに触れ、無上の経験をされたことだろうと想像する。

ぼくがあらためて言うまでもなく、これは世界的に見て非常に高い水準での演奏だ。それをここで率直に称えることができず心苦しいかぎりだが、期待が大きすぎたことも関係するのか、今回の演奏はどうも心から賞賛するということができなかった。そして、これを書きながら、かつて寺神戸亮と録音した、おなじくJ.S.バッハのヴァイオリン協奏曲でも似た印象を持ったことを思い出した。

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2007年10月 8日 (月)

アーノンクールの『フィガロの結婚』 (2006年ザルツブルグ音楽祭)

2006年のザルツブルグ音楽祭で話題となった、ニコラウス・アーノンクールとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト『フィガロの結婚』が、昨夜NHKのBS2で放映された。この公演は、いまをときめくロシアのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコのスザンナ役がいちばんの目玉なのだろうが、それよりもクラウス・グートの演出とアーノンクールの音楽が、辛口というよりは "激辛" だとの評判で、そちらへの興味のほうが強く、楽しみにして観た。


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雑誌『レコード芸術』では、2006年のザルツブルグ音楽祭での演出は事件扱いである。2007年10月号ではまさにこのグート演出の『フィガロの結婚』公演のDVDを観て、小宮正安氏は「セックスとバイオレンス」と評している。趨勢をご存知の向きにはいまさらな話だろうが、ヨーロッパのオペラ演出はだいたいにおいて日本人が期待するような絢爛豪華というものではなく、そういう牧歌的な時代はとうに通り過ぎて20世紀末的退廃に入り、そのまま炸裂的に突き進んでいるように見える。一部には奇を衒ったようにしか見えない演出もある。ようするに彼らは飽きてしまったのだろう。と思う。そのあたりの変わり身の速さは、表現を極限まで簡素化し、精神性を主として息の長い芸術を育んできた日本人にはなかなか理解できないところもありそうなのだが、いっぽうで、前線に立つ演出家、演奏家たちが "つぎなる表現" を求めて変化していくことも、まあ理解はできなくはない。モーツァルトの音楽はずいぶん以前から、そしておそらくは今後も存在しつづけていくのに対して、演出家、演奏家たちはいまを生きていく必要があるのだから。

それでも、ぼくも『レコード芸術』での評価記事を読んで心配になったクチだ。なにしろ場所はザルツブルグ音楽祭、オケはウィーン・フィルである。これ以上に "いま" のクラシック音楽を代表する状況はないというところで、「セックスとバイオレンス」のモーツァルトが演じられているとしたら、それがいまを代表するモーツァルトということである。遠く世界の反対側から、「そんなふうにしないでくれ」と小声で叫びたくもなる。

いったいそこでなにが行われているのか、純粋に興味があって観てみたいと思いつつ、わざわざ確認のためだけにDVDを買おうという気にもなれなかった。そこへ、ありがたくもNHKが衛星放送で放映してくれたのだ。ひさしぶりにわくわくして放送を観た。

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悪くないじゃないか――そう思った。アーノンクールの音楽は、ここにきて突然攻撃的になったわけではなく、まえからそうだった。それ以上に異様なことにはなっていないようだ。すくなくとも、ぼくの耳にはそう聴こえた。これはアーノンクールの音楽であって、モーツァルトの新定義ではなく、ヨーロッパ全体の音楽を代表しているわけでもない。そう思って楽しめば、いつものアーノンクール節でしかない。よいか悪いかではなく、ぼくはアーノンクールの音楽だと思って聴いた。

グートの演出はと言えば、これを「セックスとバイオレンス」というのは、ちょっと大げさじゃないかなあというのが正直な感想だ。たしかに緊張感の持続する切れ味のある演出であり、リラックスしてモーツァルトのオペラを楽しむというよりは、社会派の演劇を観ているような感覚にちかい。ただ充分に写実的でありつつも、いっぽうで舞台芸術ならではの逸脱もあり、楽しめた。だれに訊いても不評を買いそうな天使ケルビム (もともとの台本にはそういう存在はなく、演出家の創作だ) の登場も、ぼくは好感を持った。それでこそ舞台芸術ってものじゃないか。

クリスティーネ・シェーファー演ずるケルビーノが、視覚的にはなんといっても際立つ。ネトレプコのスザンナが、いかにも田舎から出てきた小間使いという地味な容姿の演出になっているのに対し、シェーファーのケルビーノは乱れたブロンドと薄汚れた顔にセーラー服という姿で登場する。シェーファーはさすが知性派といわれる故か、そんなケルビーノ役に表情も動きもぴったりと嵌め、こうしたきびしい演出であってもまったく違和感なく演じている。有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のところでの虐待的なシーンには、思わず息を詰める。前出の「セックスとバイオレンス」という評価の所以も一部にはこのケルビーノの扱いにあるようだが、たしかにケルビーノ全体にただよう "危なさ" が全体に緊張感を与えているのはまちがいない。それは、くり返すようだが、単なる演出上のケルビーノの見せかただけでなく、シェーファーの見事な演技が強い効果をあげているように思う。

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結局、最初に感じていた心配はどこかへと去り、ぼくは肯定的にこの舞台を観た。すくなくとも、真っ暗ななかに岩とか棒をひとつ置いて、「これが舞台だ」というような演出に比べれば、充分に説明的で演劇のように楽しめる。アーノンクールの演奏も、1996年のチューリッヒでの演奏を引っぱりだして比べてみたところで、とりたてて過激になったとも思えない。

今回は事情があって全篇は観ることができなかったのだが、逆にDVDかCDを買ってもいいかな、と思うようになった。買っても全篇を通して楽しむ時間はほとんどないだろうから、優先度としてはあまり上げられないのだが....。

 

Annotations :
アーノンクールの『フィガロの結婚』(日本語字幕つきDVD) :
イルデブラント・ダルカンジェロ(Br:フィガロ)
アンナ・ネトレプコ(S:スザンナ)
ドロテア・レーシュマン(S:伯爵夫人)
ボー・スコウフス(Br:アルマヴィーヴァ伯爵)
クリスティーネ・シェーファー(S:ケルビーノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ニコラウス・アーノンクール(指揮)
DG UCBG1202
Link : HMVジャパン

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2007年10月 7日 (日)

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』

ノスタルジア10月というこの気候のいい時期に、今年のうちの会社では4連休がある。平日の休みも含まれるのでどこか旅行でも行こうということになるはずだったのだが、間の悪いことにというかなんというか、子供の運動会と地区の運動会が連続してど真ん中に入っており、しかも役員をしている女房はその前日は準備で借り出され、結局連休の初日はひとりですごすことになってしまった (その翌日からは、もちろんぼくも運動会へ行くのだ)。


もちろん、ふだん騒々しい生活をしている者としては、ひとりの休日はこれはこれでありがたく、めったに観れない映画でもゆっくり楽しむことにした。未開封のままのDVDやらサーバーのなかやらをあさっているうちに、ふと (またもや) 録画した覚えのない映画を見つけた。アンドレイ・タルコフスキーの映画はこれまで何度か観ていたが、見つけた『ノスタルジア』は観たことはなかった。

「ちょっとさわりだけ」というつもりで再生し、結局そのまま最後まで観つづけてしまった。10代後半から20代にかけて、さまざまな "表現" に惹かれてさまざまなメディアに触れることに夢中になっていたころ、圧倒的な映像美と "間" で存在感を示していたタルコフスキーの映画も何本かは観ていた。でも正直なところ、40歳をすぎた年齢になって、世のサラリーマン諸氏と同様、大げさに言えば経済戦線の最前線で過ごす日々にあって、精神的な意味でこうしてゆっくりとタルコフスキーの映画を観てすごすことができようとは思ってもいなかったので、自分でもすこし驚いた。

しかも、窓の外は秋のさわやかな昼下がりである。今年は猛暑のためか、日差しは秋というよりは夏の名残が感じられる。さんさんと輝く太陽。決してしんとした夜中というわけではない。タルコフスキーを観るにしては、われながらちょっとへんな時間帯のような気がする。

そんな状況でも、とくに退屈することもなく違和感を感じることもなく、静かに最後まで観ることができたのは、たぶんこの映画の時間感覚、静寂感が頭と身体にしっくりとなじんだということなのだろう。むかしから、日本人はまったくの無音の世界ではなく、虫の音や風の音に静寂を見出してきたと聞く。それとおなじようなことが自分にも起こったような気がする。なにもない状況ではなく、タルコフスキーの映画がぼくのところに静寂をもたらし、その静寂が休息の時間を与えてくれたのだろう。

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『ノスタルジア』は、タルコフスキーの映画としては比較的わかりやすい。たぶんソ連の外(イタリア)で制作されたことが影響しているのだろう。映像美はそのままに、独りよがり度がいくぶん緩和され、周囲にすこし心を開いているように思える。それはイタリアで「外」のスタッフと仕事をするという、タルコフスキーの心情と譲歩の表われのような気がする。いっぽうでイタリアならではと思える美的感覚が、モノトーン的なタルコフスキーの映像美にほのかな色彩感を添え、映像は圧倒的に美しい。

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2007年10月 5日 (金)

ピエール・ブーレーズのマーラー、交響曲全集

MahlerBoulez2 ピエール・ブーレーズのマーラー、交響曲全集の録音が完結した。

前回、アンドラーシュ・シフのベートーヴェン、ピアノ・ソナタ全集のことを書いた。そこでは、いまではめずらしくなった個別リリースを敢行するECMレーベルの試みについて触れた。それにくらべると、このDG(Deutsche Grammophon)によるブーレーズのマーラー交響曲全集の気の長さは、その比ではない。最初の録音が交響曲第6番の1995年のことだから、じつに10年以上の歳月を費やしたことになる。


MahlerBoulez4最初の発売当時、ぼくは何枚かはマーラーの交響曲を持ってはいたものの苦手意識が強く、またあまりに忙しくて長時間じっくりと聴く "気持ちの余裕" もなかったので、マーラーのCDの購入優先度は決して高いものではなかった。そこへブーレーズのマーラー・チクルスがはじまると聞き、これを一枚一枚買っていけば、やがては全曲完走ということになるな、と思い、購入をはじめた。そのときには、よもや10年以上かかろうとは思ってもいなかった。それはおそらく、DG側も同様だったのだろうと思う。1990年代の録音までは、ジャケットに落ち着いた色彩感の絵画を据えて統一感を出していたのに、2000年代の交響曲第3番あたりから、ブーレーズの姿を中心に据えるように変わっていった。今回発売された第8番にいたっては顔の全面アップである。これはたぶん、スター指揮者不在となったクラシック業界において、そのときのDG (このころからUniversal Music傘下となった) がブーレーズをそのスター級の位置づけとし、彼を中心としたさまざまな企画盤を出しはじめたこととも深い関係があるのだろう。

その間にもクラウディオ・アバドやサイモン・ラトルらがさまざまな話題盤を出してきた。ラトルは前任のバーミンガム市交響楽団との録音と現任のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との録音をあわせて、17年越しのマーラー交響曲全集を完成させたと報じられたが、こちらははじめから全集を目指したというわけではなく、気がついたらいけそうだ、ということだったのだろうと思う。発売当初もチクルス (企画的な意図をもった連続録音、演奏会) のアナウンスはなかったと記憶している。ラトルのマーラーは、それはそれでぼくも現在も愛聴している。

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MahlerPictureブーレーズのマーラーといっしょに進んで行こうと思った背景はいろいろある。わりとどうでもいい理由としては、ちょうどチクルスのスタート時期と、ぼくがそろそろマーラーに再挑戦しようと思った時期が合っていたことがある。あるいはジャケットの絵画がマーラーの世紀末的世界観と人間味をうまく顕わしているように思え、そうしたデザインポリシーからこの企画の本気度がうかがえたということもある。「ジャケ買い」することが多いので、ジャケットからくる印象での企画の判断は、どうでもいいと言いながらも重要なポイントだ。ちなみに1990年代のリリースを飾ったこれらの絵画は、おなじ作家によるものではなく、複数の作家のものが選ばれているようだ (なぜかカバーアートの著作権者が明示されていないCDが多く、Alberto Magnelli の名前を唯一見つけることができた。かといって、作風からすべてが Magnelli の作品とも思いにくい)。

そしてもちろん、このシリーズとつきあったいちばん重要な理由は、指揮者がブーレーズであったことだ。正直なところ、自分がブーレーズを指揮者としてどう見ているのか、というのは微妙だ。現代音楽の旗手、パリの IRCAM (電子音響研究所) の創設者という印象が強く、吉田秀和の『世界の指揮者』でも("ブレーズ" という表記で) ちゃんと指揮者として取りあげられていたのは読んでいるが、どうも作曲家の余技という印象がぬぐえない。ただ音楽については冷徹で明晰、そしてダイナミズムも合わせ持つというある種の信頼感はあり、それをこのマーラー・チクルスで期待したのだった。逆に、1996年にウィーン・フィルとブルックナーを振った盤は、興味本位で買いはしたものの、やはりちょっとなにかがちがうという印象はつづいている。

巷ではブーレーズのマーラーは賛否いろいろあるようだけれど、ぼくは期待通りのマーラーを聴かせてもらったと思っている。このチクルスの特徴のひとつに、楽曲によってオーケストラがかわるということがある。その面でもいろいろと楽しめる。米国のオーケストラで聴くブーレーズのマーラーは、強力なエンジンの馬力で輝かしく鳴り響くという印象で、ある種の快感の領域に到達していると思うし、ウィーン・フィルを率いてのマーラーは、やはりマーラーの本拠地としての想いと、ウィーン・フィルならではの弾力、温かみのある響きが力量感をもって響くことに、他にかえがたい豊穣な響きを感じることができる。

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そこにあるのは、たとえばバーンスタインの名高い「情念のマーラー」とは全然ちがう世界なのだろう。"だろう"というのは、バーンスタインのマーラーはこれまで何度か購入しようとしたものの、踏み切れずいまに至っているからである。クラシックの音楽は、すくなくともぼくの場合は、何がなんだかわからずぐちゃぐちゃとした印象の状態ではとても聴きとおすことができない。せめて曲の全体の構成くらいはわかってこないと、楽しむというところには至れない。その意味でマーラーを知ろうというときに、ブーレーズはやはり最適の指揮者、道案内だと思う。

とはいっても、最初にその楽曲を聴くときの演奏者は大切だ。はじめて聴く場合には、それが楽曲の特徴なのか、演奏者の特徴なのか、にわかには判断がつかないからだ。たとえばぼくの場合のマーラーでいえば、第5交響曲は話題になったラトルとベルリン・フィルの盤を聴く機会が多く、ブーレーズの盤はたまにしか聴かない。その耳でブーレーズの演奏を改めて聴いてみると、ブーレーズの冷静さが裏目に出て、やや淡々とした印象に聴こえる。ブーレーズで最初に入門していたとしたら、楽曲についての理解がすこしちがっていたかもしれない。これは第5番だけで表出したブーレーズの短所というわけではなく、彼の音楽の明晰さからくる根本的な特質なのだと思う。それを理解した上でそれを楽しめば、デモーニッシュなところのある音楽を聴くのに、こんなに信頼のおける指揮者はいない。

 

Annotations :
Conducting Mahler: I Have Lost Touch With World グスタフ・マーラー : Gustav Mahler
1860年生まれ、1911年没。ウィーンで活躍。19世紀と20世紀の境目に立つ交響楽、声楽の巨人。ここではとても語れない、複雑な面を持つ人だった。
はじめてマーラー体験したいという方には、個人的には交響曲第4番をおすすめしている。末尾参照ください。
Link : HMVジャパンの紹介ページ
ピエール・ブーレーズ : Pierre Boulez
1925年生まれ。フランスの作曲家、指揮者。本文中でも紹介したように、若いころにはだいぶとがっていた。最近はドイツの名門レーベルDG(Deutsche Grammophon)の主役的な扱いでつぎつぎと新しい録音を出している。けれど、きっとベートーヴェンとかそういうロマン派の音楽は似合わないので絶対に出さないだろうな。
マーラー / 交響曲第8番『千人の交響曲』:
Mahler/Symphony No. 8 "Symphony of a Thousand"
Staatskapelle Berlin, Orchestra
Pierre Boulez, Conductor
DG 00289 477 6597
Link : HMVジャパンの紹介ページ
マーラー:交響曲第5番マーラー / 交響曲第5番 :
Mahler/Symphony No. 5 in C sharp minor
Berlin Philharmonic Orchestra
Simon Rattle, Conductor
EMI 557 385 2
こちらは、ブーレーズではなく、本文中で紹介したサイモン・ラトルとベルリン・フィルの交響曲第5番。大変に評判が良く、ぼくもよく聴いている。ラトルのベルリン・フィル音楽監督就任披露、というような位置づけだった。
Link : HMVジャパンの紹介ページ 
マーラー:交響曲第4番マーラー / 交響曲第4番 :
Mahler/Symphony No. 4 in G major
Cleveland Orchestra
Pierre Boulez, Conductor
DG 463 257
小ぶりでチャーミング。マーラー節も楽しめる。20代のとき、ぼくが最初に日常的に聴くようになったのは、この第4番から。最終楽章は歌曲になっている。
Link : HMVジャパンの紹介ページ

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