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2007年10月14日 (日)

鈴木雅明/BCJの J.S.バッハ ミサ曲 ロ短調

BCJMassInBMinor 鈴木雅明とBCJ(Bach Collegium Japan/バッハ・コレギウム・ジャパン)が録音をつづけているJ.S.バッハのシリーズから、"ついに" というべきだろう、ロ短調のミサ曲 BWV 232が発売された。レーベルはいつもの通りスウェーデンのBIS。録音場所もこれもまたいつもの通り、神戸松蔭女子学院大学のチャペルである。

すでに実演では日本で何度か演奏されているようなので、CD/SACDではなく先に実演で触れた、という方も多いと思う。ぼくはといえば、恥ずかしながら、家族やら仕事やらのいいわけ的事情で実演のほうに触れる機会はまったくないので、このディスクを大きな期待をもって待っていた。


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BCJMatthaus鈴木とBCJによるバッハは、ぼくにとってはマタイ受難曲BWV 244が定番中の定番だ。演奏もさることながら、以前から評判のよい神戸松蔭のチャペルでのBISによる録音は、歴代のアンプやスピーカーの試聴時にはかならず同伴している。実際に機器が搬入されたときにかける、栄えある(?)最初の演奏曲も、このCDだったことが多い。

このマタイ受難曲の演奏は、もちろんいうまでもなくすばらしい。古楽器特有の透明感と演奏の歯切れのよさをもって、力みすぎず、緩みすぎず、3時間ちかい長丁場を丁寧に丁寧に描いていく。鈴木とBCJは代表作であるカンタータ全集も含めて、かなりの頻度でレコーディングとコンサートをこなしていると思うが、そうした多忙ななかで、こうして丁寧に曲を作り上げていくところは、ほんとうに立派だと思う。その真摯な姿勢は、たいした宗教心もなく、音楽も聴くだけのぼくにも、ひしひしと伝わってきて「特別なもの」に触れているという気持ちにさせてくれる。

BCJMassBDataそれで、今回のロ短調ミサだが、これはおそらく、かなり編成を絞った演奏になっているようだ。冒頭のキリエでの合唱の薄さには、正直かなり驚いた。マタイ受難曲のときには、小規模感や透明性を感じたとしても、薄いとは思わなかった。その後の二重唱でも、薄いという印象はつづく。二重唱は二重唱であって厚いも薄いもないはずなのだが、やはり平面的で薄いように感じる。

これはどうも、器楽や合唱の編成の話だけではないようだ。よく聴いていると、マタイ受難曲でよいと思っていた「歯切れのよさ」が感じられず、全体として平面的に、単調に音楽が響くように聴こえる。楽器の演奏然り、歌手の歌い方然りである。上手かどうかというところではわからないのだが、ぼくがBCJの演奏に期待していたところとはややちがっていた。

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ロ短調ミサは、これまで主に現代楽器での演奏で触れてきた。世界遺産ともいえるリヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団による演奏、カラヤンとベルリン・フィル(BPO)による演奏、最近では小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる演奏。カラヤンとBPOは、CD化されているのは1970年代の演奏であり、いまはこれを聴くしかないのだが、ぼくが若いころに愛聴していたのは、死の直前である1980年代後半に、たしかザルツブルグ音楽祭で演奏した録音だった。NHK-FMで放送されたものを録音し、カセットテープでくり返し聴いた。カラヤンというと、大編成でエネルギッシュ、ドラマチックな演奏を想像する向きも多いと思うけれど、このザルツブルグ音楽祭でのロ短調ミサは、むしろ明るく穏やかで、聡明な音楽として演奏されている。晩年のカラヤンは、ブルックナーでも顕著だったように、穏やかな呼吸感と静かな目線の音楽を奏でるようになり、音楽そのものが祈りのように聴こえていた。ぼくはその時代のカラヤンの演奏に感銘していた。

BachMisaBMinor2このごろはもっぱらロ短調ミサといえば小澤とサイトウ・キネン・オーケストラの演奏を聴く。これは2000年の長野県松本文化会館での演奏だ。この時代くらいになってくると、いわゆる古楽器奏法が多少なりとも意識されている。バロック・ボウが用いられ、それにゆえに簡素で明るい音で音楽になっている。そこからくる印象は、1980年代のカラヤンの演奏から得ていた好印象と通じる。

マタイ受難曲が題名のとおり物語性を持ち、それゆえに音楽も複雑でシリアスであるのに対して、ミサ曲ロ短調は物語性を持たない祈りの音楽であり、しかもロ短調といいながら全体的には長調的な明るい響きが支配的だ。ここでバッハの音楽について書くのはとてもぼくの手に負えるようなものではないのだが、すくなくともぼくはロ短調ミサをマタイ受難曲ほど深刻にはとらえず、わりと気軽に音楽として聴くことが多い。そしてその音楽は、上で触れたカラヤンや小澤の演奏の印象のように、この長大な音楽を簡素で軽く、明るい響きで淡々と演奏するものを好む。逆にこの曲にかぎっては、リヒターやジュリーニの演奏のように、あまりに重厚な演奏は苦手だ。

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鈴木雅明とBCJの演奏は、こうした側面からいえば、まさに真打ちの登場と期待した。

精緻にして静謐。このロ短調ミサは、彼らの演奏するほかの音楽と同様に、そう表現したくなる演奏だ。この音楽に対する姿勢が、かつてのマタイ受難曲では楽曲本来の持つドラマ性とあいまって稀有の表現につながっていたように思う。逆にロ短調ミサでは、楽曲が祈りそのものとして穏やかに推移していくなかで、演奏が精緻であるがゆえの平板さが出てきているような気がする。これは、誤解を恐れずにいえば、たぶん鈴木雅明の姿勢からくるものではないかと思う。音楽に対して真摯であり、学究的であるが故の緊張感がすこし強すぎ、音楽の息遣いという点ではどこか平面的になってしまったように思った。

もちろん彼らの全世界共通的な評価はぼくのなかでも何ら揺らぐことはない。音楽は充分に研究され、それを具体的な音楽として形にする感性も技術もある。聴き手は、全幅の信頼を置いて音楽に没頭することも、この演奏を通じてバッハの音楽について考えることもできる。ぼくはCDで聴いているが、おそらく実演で触れた方々は、ぼくが聴いているものとはくらべものにならないほどの美しさ、音楽の真摯さに触れ、無上の経験をされたことだろうと想像する。

ぼくがあらためて言うまでもなく、これは世界的に見て非常に高い水準での演奏だ。それをここで率直に称えることができず心苦しいかぎりだが、期待が大きすぎたことも関係するのか、今回の演奏はどうも心から賞賛するということができなかった。そして、これを書きながら、かつて寺神戸亮と録音した、おなじくJ.S.バッハのヴァイオリン協奏曲でも似た印象を持ったことを思い出した。

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コメント

cherubino さん、こんばんわ。コメントありがとうございます。
カラヤンのザルツブルグでのロ短調ミサについて、情報ありがとうございます。おなじ演奏を記憶されている方がおられて、嬉しいかぎりです。(^_^)
じつは再生装置の関係でもうエアチェックしたテープを聴くことはできず、本当に心に残っているだけ、という状態です。キャスリーン・バトルとアグネス・バルツァでしたか。そうしたデータも、もう私の手許には残っていませんでした...。

こうした演奏が復刻してくれると嬉しいのですけどね。海賊盤がある、と聞くと、ちょっと心が揺らいでしまいます。(^_^;

投稿: Tiki | 2009年11月15日 (日) 22時16分

Tikiさま、こんばんは。昨晩からカラヤンの「ロ短調ミサ曲」(70年代)を聴いていて、検索サーチから飛んできました。ご紹介いただいたカラヤンのザルツブルク音楽祭の「ロ短調ミサ曲」、たしか1985年の大晦日に放送されたもので、バトルとバルツァのコンビで聴くChriste eleisonの見事な重唱は今でも耳に残っています。同じようにエアチェックテープを大事にしている方も多いのではないかと思います(海賊版のCD−Rも出ているようですが)。そしてもちろんこれは、カラヤンが生涯で最後に演奏した「ロ短調ミサ曲」でもありました。

投稿: cherubino | 2009年11月13日 (金) 22時17分

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