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2007年9月29日 (土)

アンドラーシュ・シフのベートーヴェン その2

Schiff05 アンドラーシュ・シフの弾くベートーヴェン、ピアノ・ソナタ全集の第5巻が発売された(輸入盤)。シフについてはすでに書いたので、もう取り上げないつもりでいたけれど、聴いてみるとやはりすばらしく、なにかを書きたくなってしまう。いつもおなじようなCDタイトルがつづいて申し訳ない。


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シフのベートーヴェン、ピアノ・ソナタ全集の続刊が出るということは、胸の躍るようなニュースのすくない最近のクラシック業界において、ぼくにとって、かなり大きなニュースのはずなのだが、HMVのサイトを見ていても、どうも盛りあがりがいまひとつだ。

近いうちに、ポリーニのベートーヴェンの初期ピアノ・ソナタ集が出る。これはこれで大変に楽しみにしているのだけれど、HMVはポリーニ盤にニュース・リリースのページを用意しているのに対し、シフのほうはといえば、ひっそりと商品が追加されているだけの状態だ。すでに第5巻ともなると、さすがにニュース性はないということなのか、あるいはシフというピアニストの注目度がそういう程度ということなのか。

近年、全集物は "いっきにボックスセットで発売" というのが一般的になった。今回のシフのピアノ・ソナタ全集のように、録音は終わっていながら、こうして1枚1枚、個別にじっくりとリリースしていくというのは、とてもまれな例になってしまった。その意味で「大胆な」今回のリリースの方式は、発売元のレーベルECMの主、マンフレート・アイヒャーのこだわりの結果なのだろう、と想像してみたりもする。ひとりの消費者としてはボックスで出たほうが安くなってありがたいし、一気に手に入るので一気に楽しめる。でもそれは、あたかも山盛りの料理を腹いっぱいにかぶりつくような種類の幸福感になりがちだ。そうなるといくら高級素材だろうがB級グルメだろうが、そこそこの味であれば料理の中身はあまり関係なくなってくる。それはそれで幸せなのだけれど、そういう楽しみかただけではなくて、適切な間合いをとりながら順番に出される料理を、じっくりと味わって時間をすごす幸せだって、もちろんある。こうして数ヶ月おきのリリースをたのしみに待ちながら、ひとつひとつ時間をかけて聴いていくと、「忘れかけていたなにか」みたいなものをあらためて教えられ、豊穣な気持ちにさせられる。あるいはそれこそが、アイヒャーの狙いなのだろう。この心象は、ECMというブランドの持つイメージと、しっくりと合う。

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さて、シフのベートーヴェン。敬愛する音楽評論家、濱田滋郎氏が雑誌『レコード芸術』の月評で、このシリーズの1枚を評して「東洋武術の精神に近づいたような」という趣旨の表現をされていたが、これはじつに言いえて妙だ。

これまで「軽やかで愉悦感に溢れる」という印象だったシフのピアノは、このベートーヴェンのピアノ・ソナタでは、研ぎ澄まされた鋭利な響きを強く感じさせる。軽やかであることと鋭利であるということは、言葉上はだいぶ印象がちがってくるが、おそらくはシフの「軽やか」というピアノの音は、その打鍵力の強さ、速さで成立していたものだ。その特質を、さらに推し進めて最大限に表現しつつ、それがベートーヴェンという楽曲の力感とあいまって、まるで東洋武術の世界観のように力強く、かつ磨かれて聴こえる、ということなのだろう。

今回のピアノ・ソナタ全集の発売にあたって、ぼくも含めて多くの方々の関心がここにあったのではないだろうか、と思う。つまりシフのピアノがベートーヴェンでどのように響くのか――もちろんシフがベートーヴェンを弾いたことがないというわけではない。ピアノ協奏曲はベルナルト・ハイティンクとすでに全集を完成させているし、室内楽でも高い評価を得ている。でもそれらの作品は、言いかたが悪いけれど、どちらかと言えば単発的、アルバイトのような印象で見られがちだったように思う。やはりシフといえば、あの音色を生かしたJ.S.バッハ、モーツァルト、シューベルト、あるいはぐっとむかしにもどってドメニコ・スカルラッティの躍動的なソナタ群。

そのシフが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾く。しかも一部の楽曲だけでなく、全曲演奏をすると言う。だれがどう考えたって、それはもうアルバイトではない。なんらかの思い、覚悟をもって弾くということだ。いったいシフはなにを聴かせてくれるのだろう――そのワクワク感が、このシリーズにはある。

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静謐で透明、それでいて強靭。とても美しい。もともとシフのピアノは静かな楽曲においてきらきらと輝く魅力があり、それはもちろんこのベートーヴェンでも健在だ。それにくわえて強奏部では、スローモーションのように鮮明さを保ちつつ美しい音がきらめいて乱舞する。たとえとして妥当かどうか迷うけれど、まるで映画『マトリックス』シリーズが拓いた映像世界のようだ。

それは、もちろん技巧上の「音」だけで作られている世界ではない。全体を見通してテンポや間あい、アクセントがすべて考え抜かれた結果、呼吸感のある、いささかも退屈させない、この理知的なベートーヴェンが表現されることになったのだろう。

 

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