ピリオド奏法とテンポとベーレンライター版
これまで音楽について書いたときに、なにげなく "ベーレンライター版" とか、 "ピリオド奏法" とか "躍動系" といった表現を使ってきたけれど、自分の勉強のためにも、すこしまとめておいたほうがいいような気がしてきた。まとめるとは言ってもぼくは完全に門外漢だから、あくまでも素人の理解の範疇で、ということだが....。
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ピリオド奏法とは――ステレオタイプな言いかたになってすこし恥ずかしいが――ようするに、いまクラシックの音楽界で "流行っている" 演奏スタイルということなのだろう。聴いた感覚では、やや乾いた音で颯爽として軽快、快速のテンポで躍動的に音楽を進めていく。
背景となる技術としては、ビブラートをあまりかけないとか、オーケストラは比較的小編成とか、いろいろとあるようだ。これらは「作曲された当時はこういう演奏方法だったんだよ」という考えかたが出発点になっている。つまり作曲当時の奏法に則って、現代の楽器で演奏する方法を "ピリオド奏法" と呼んでいるようである。"ピリオド" はいうまでもなくあの Period である。
ピリオド奏法になったからといって、なにもむやみにスピードもあがらなくてもいいんじゃないかとも思うが、その奏法から、おのずとテンポは速くなるものらしい。ゆったりとした重厚長大型の演奏ではなく、颯爽と軽薄短小型の演奏をする。"軽薄短小" というと言葉がネガティヴな印象だが、聴いていてきびきびとして気持ちがいい。
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さて、こうしたピリオド奏法の流行とはまたべつに、"ベーレンライター版"という言葉が出てくる。ベーレンライターというのは、ドイツの楽譜の出版社の名前である。 "ベーレンライター版" とは、この会社が出版した楽譜という意味で使っている。
最近、ジョナサン・デル・マーという――「気鋭の」とだれもが言う――音楽学者があらたにベートーヴェンの交響曲全集を校訂した。これは最新の研究成果にもとづく原典版と呼ぶべき楽譜であり、それまで150年の長きにわたり使われていた旧全集の楽譜とくらべて、よりベートーヴェンが意図した通りの内容になっていると言われている。
ベーレンライターは1990年代後半からこのデル・マーの楽譜の出版を開始した。これがベートーヴェンの記述でよく話題にする "ベーレンライター版" だ (もちろんベーレンライターはベートーヴェンだけでなく、ほかの作曲家の楽譜も出版している。念のため)。デル・マーの校訂した楽譜なので、ひとによってはデル・マー版と言ったりもする。ただ個人的には、正確に言うのなら、デル・マー自身が作成したオリジナルの楽譜はデル・マー版、それを出版物にした楽譜がベーレンライター版、と区別して呼ぶようにしたほうがいいような気はするが (それはソフトウェア技術屋の構造化設計的発想なのかもしれない)。
そんなわけで、ベートーヴェンの世界において、ベーレンライター版とピリオド奏法とは直接は関係がないとも言える。ベーレンライター版のまえには、19世紀なかばに編纂されたブライトコップ社の楽譜があったのだが、このブライトコップ版を使ってピリオド奏法をしたっていいし、その逆もあってもいいと思う。
ただ、作曲された当時の奏法に則ることを目的とするピリオド奏法と、作曲家本来の意図に沿うことを目的とするベーレンライター版のこころざしはおなじゴールを向いており、おのずとピリオド奏法をとりいれる指揮者はベーレンライター版を使い、ベーレンライター版を使う指揮者はその精神に則りピリオド奏法をとりいれる、ということが多くなってくるのだろう。
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ぼくのような素人から見ると、そもそも作曲したひとはひとりなのに、どうして第三者によってちがう楽譜が出版されるのか、不思議に思える。これはたとえば、ブルックナーのように自分でなかなか最終版を決めきれずにいろんな版を残してしまった場合もある。ひとりの作曲家がおなじ楽曲に対して複数種類の楽譜を残しているのだ。だったら最後のやつを演奏すればいい、ということになるのだが、作曲家としては、いちばん最後のがいちばん満足というわけでは決してないようなので――そのあたりはソフトウェアを書いたり文章を書いたりする経験からわからなくはない――作曲家の心情の解釈のしかたによっていろいろと変わってくる。
さらに、たとえばベートーヴェンならベートーヴェンで、彼がほんとうに自分で書いたという、いわゆる「自筆譜」というものを見てみると、ことの大変さがわかる。かなり汚く書きなぐられている。ここに挙げている例となる画像は比較的読みやすいと思うが、事故で滲んでしまっている部分もある。ぐしゃぐしゃと消されている部分もある。消されている範囲はどこまでか? あとになって訂正箇所だけを指示している場合もある。こうした楽譜から読みとった解釈が、細かいところでは一致しないというのは充分理解できる。
また自筆譜がすべてというわけでもない。自筆譜は最初に作曲家が書き上げたものであり、そのときにはまだいちども演奏されていない。最初に演奏されたときに、作曲家はいろいろと修正をすることが多く、その修正を反映させた版こそが作曲家の本来の意図だとする考え方もあるようである。
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ピリオド奏法が好きかきらいか、というのは、演奏者にしても聴衆にしても、そのひとそれぞれだろう。ぼくはといえば、単純にどちらも好きだ。たとえば、クラウディオ・アバドは1980年代にウィーン・フィル(VPO)と、2000年にベルリン・フィル(BPO)とそれぞれベートーヴェン交響曲全集を録音している。
1980年代の録音は、いわゆる "むかしながらの" 正統派の演奏である。雄大で深遠、そういった言葉が似あう。発売された当時はジャケットにクリムトの絵画をあしらっていて、パッケージ全体に漂う静謐な感じにあこがれたものだ (当時はぼくには簡単には買えなかった)。
いっぽう、2000年の録音はベーレンライター版を使い、ピリオド奏法を導入している。当時、アバドの全集ということで嬉々として購入したものの、そのころのぼくにはこうした奏法の背景知識もなかったし、演奏そのものもまだ耳慣れておらず、軽くてせわしない部分ばかりが耳についた。当時の批評もさんざんだった記憶がある。結局、何度か聴いたあと、ちょっとがっかりしてそのままお蔵入りにしてしまった。ある日あらためてとり出してみて、躍動感がなかなかいいじゃないかと再発見したのは、2、3年前のことだったと思う。
いまではそれぞれのスタイルということで、どちらも聴く。どちらかというと、ピリオド奏法系のほうが機会は多いような気もするけれど、さきにあげたアバド/VPO版はじめ、バーンスタイン/VPO版、最近ではヴァント/NDRの80年代版といった、重厚長大の正統派の演奏もとても気に入っている。ヴァントの80年代版については、以前ブラームスについてすこし文章を書いたが、近いうちにベートーヴェンのほうもとりあげることができれば、と思っている。
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ピリオド奏法は、聴きようによっては殺伐とした印象にも聴こえる。そのあっさり感、乾いた感じがいいんだということなのだが、すこし末期症状的に聴こえなくもない。冒頭に書いたように、流行の部分もあるだろうから、またこれから奏法も変化していくのだろうとは思いつつも、なぜか、ふと――なにかが――心配になってくることがある。その心配の根源は、分別くさいことを言うようだが、いまの世相とも関係しているのかもしれない。
- 記事中の画像は、Beethoven-Haus Bonnで公開されているDIGITAL ARCHIVESから引用した、ベートーヴェンの自筆譜とスケッチです。
Symphony No.3 in E flat major, Op. 55 "Eroica"
Claudio Abbado, Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
DG 419597
Link : HMVジャパン
残念ながら全集が見つからない。ここでは交響曲第3番を挙げておいた。なんとクリムトのジャケットがいまだに健在。うれしい。
Claudio Abbado, Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
DG UCCG1003
Link : HMVジャパン
国内盤。通常なら安い輸入盤を紹介するのだが、国内盤のほうが安かった。
Leonard Bernstein, Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
DG 474924
Link : HMVジャパン
驚くほど安くなって再登場。リマスタも行われて音質改善しているらしい。欲しい! が、すでに事実上2セット分買ってしまっているので、さらにもう1セット分というのは正直きつい...。
Günter Wand, Conductor
North German Radio Symphony Orchestra
RCA 74321891092
Link : HMVジャパン
思い出深いセット。またいつかちゃんと書こう。いまのところこの全集がいちばんお勧めかも。
Simon Rattle, Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
EMI TOCE13521
Link : HMVジャパン
これも国内盤。安くなった。ウィーンフィルにピリオド奏法をさせた、として話題になった。(それだけで話題になったわけではないが)
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