もういちど、エッシェンバッハ
最近、自分の持っているものを忘れてしまうことが多くなった (としのせいなのか、やっぱり...)。それは本とかCDの場合に顕著であり、ほんとうに困っているのだが、先日のボウモアのときのように、このあいだ、もうひとつ自分が持っていて驚いたものがあった。
家族が帰省した金曜日の夜、あいにく飲みにいく相手も見つからなかったので、すこし早めに――だいたい22時ごろ――家に帰り着き、ビールとアテのような夕食をとって、それからぼんやりとテレビを見た。おもしろい番組は見つからなかったが、静かな家のなかでぼーっと過ごすのがそれなりに幸せだった。わりと上機嫌のまま、こんどはDNLAのプレーヤーでサーバにためてある録画をあさってみた。たいした期待もしていなかったところに、ふとエッシェンバッハ/フィラデルフィア管の来日公演のタイトルが目に飛びこんできた。
つい先日、このカップリングについて書いたばかりだ。そのときには「好きではない」とか言っておきながら、NHK-BSで放映されたときには、しっかり録画していたようなのだ――でも、記憶がない。うちの女房はこういう番組を録画するほどマメではない。子供たちはそもそも録画する方法を知らない。とすれば当然ぼくが録ったのだ。でもまったく覚えがない。先日エッシェンバッハについて書き、その数日後にこのビデオを偶然に発見する――ぼくの心の深いどこかに、なにかが刻まれているのだろうか、なんて考えてみたりする(考えないけど)。
そういうわけで、せっかく見つけたのだから、このクリストフ・エッシェンバッハとフィラデルフィア管弦楽団の来日公演を観てみた。そして、前回あっさり流しすぎたということもあって、もうすこしエッシェンバッハについて書いておいたほうがいいな、と思った。
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2005年サントリーホールでの来日公演の収録で、1曲目がいまをときめくピアニスト、ラン・ランとのベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番、2曲目はマーラー/交響曲第5番。贅沢なプログラムだ。
いろいろなことがわかった。コンサートの最後には、いままで見たことのない、めずらしいできごとがあった。それについては最後で触れよう。
エッシェンバッハの指揮姿は、思っていたよりも流麗で、広がりを感じさせるものだった。おなじピアニスト出身の指揮者、アシュケナージのそれとはだいぶちがう。ピアニストが指揮者になると、それまで自分の身体と鍵盤、ペダルだけで音楽をコントロールしていたのが、おなじ身体でたくさんの人の音楽をコントロールするようになる。アシュケナージを見ていると、そのコントロールのキャパシティのちがいのなかで、どうもいっぱいいっぱいのところで音楽をやっているように見えて、なにか落ち着かないものを感じる。あるいは、ピアノを弾くというのは耽溺的な作業なのだと思うが、指揮をしていても、そうした耽溺的で唯我的、すこし内向きの世界での音楽をやっているように見える。
エッシェンバッハの指揮は、やはり唯我的というのが感じられなくもないが、いっぱいいっぱい感は感じられず、充分に音楽の広がりを見せていて、安心して観ていられる。派手さはない。ある意味、職人世界――プロフェッショナリズムに徹しているとも言える。前回、ぼくはエッシェンバッハの音楽におもしろみが感じられないと書いたが、その印象は変わらない。変わらないけれども、このビデオを観て、そのニュアンスはだいぶ肯定的になったことは事実だ。立派な指揮者である。
指揮者には、ある意味カリスマ性やショーマンシップが求められる側面もある。カリスマ性はオーケストラと聴衆を導くため、ショーマンシップは聴いてもらうためである。それは決してカラヤンやバーンスタインの時代にはじまったわけではなく、当時の記録を読んでみると、ずっとまえからそうだった。これはもちろん、指揮台の上でパフォーマンスをするとかそういうことではなくて、クラシック音楽の宿命――「その音楽のことはみんな知っている。で、あなたはなにを聴かせてくれるの?」という無言の聴衆の問いに応えていく必要から生まれる必然なのだろうと思う。
エッシェンバッハの指揮、音楽はショーマンシップとはまったくちがう世界だ。だいたいにおいて眼光の厳しい眼差しを持っていて――それは彼の生い立ちにも関係があるのかもしれない――服装も黒一色でまるで聖職者のようだ。多少出だしのかぶり、テンポ遊びはあるにしても、ストイックな外見の印象そのままに、着実堅実な音楽を響かせる。
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マーラーの交響曲第5番は、先日ぼくが聴いたベートーヴェンとはちがって、やはり米国のオーケストラの輝かしい響きがよく出る。前回は「フィラデルフィアサウンドはどこへ行った」みたいなことを書いた。今回観たビデオでは、音質的にはあまり工夫はしていないので充分にはわからなかったけれど、会場ではこのフィラデルフィアサウンドがさぞ魅力的に映っただろうと思う。
聴衆は、ラン・ランとの協奏曲も、後半のマーラーも、大喝采で迎えていた。最後のマーラーが終わったあと、ブラヴォーがつづくなかで、不思議なことが起こった――めずらしいというより、こういうのは見たことがない――ひとしきりオーケストラを称えたあと、エッシェンバッハはいちども聴衆に顔を向けることなく、そのまま片手をあげて舞台裏に去ってしまったのである。もちろん、TV画面で見ていたことだから、なんらかのカットかアングルのちがいで映っていなかっただけ、ということは考えられる。おどろいて何度か見直してみたが、そのうしろ手に片手をあげて立ち去る姿は、まるで主役はあくまでオーケストラであり、自分はその進行役、黒子にすぎない、とでも言いたいようである。あるいは著しく気位が高いのか...。どちらかというのはわからないが、どちらにしても、そのストイックさはエッシェンバッハという指揮者を理解するうえで、ひとつの大切な材料になるかもしれない。
公式サイト: http://www.philorch.org/
公式サイト: http://www.christoph-eschenbach.com/
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