マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield) / Amarok、Tubular Bells
まえに「ことの発端はプログレにある」と書いた。そのプログレ (プログレッシヴ・ロック) の世界で、いまでも日常的に聴いているのは、このマイク・オールドフィールドの音楽だけになってしまっている。理由はいろいろあるけれど、ほかのアーティストが軒なみ事実上の絶滅をしているのに対して、彼がいろいろ形は変えながらも本質的なところは維持したまま、定期的に新しいアルバムをリリースしてくれているというのも大きな要素だろう。だいたい1,2年に一回、新作リリースのニュースが届いて、とてもたのしみな気持ちにさせてくれる。
プログレというジャンルのくくり方そのものが、すでに懐古趣味的意味合いを含んでいるし、ややポップというかトラディショナルな風合いのあるマイクの音楽を、プログレという文脈で紹介することにはすこし異論もあるかもしれない。
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あまりにも長いつきあいなのでどこから話をすればいいのかわからないが、彼を紹介するときにいちばん「ああ、あれ!」と賛同を得やすいのは、やっぱり映画『エクソシスト』のテーマとして使われた、『Tubular Bells』冒頭のアルペジオの部分だろう。
1973年、19歳のマイクは、テープレコーダで多重録音を2000回以上もくり返し、登場する26種類の楽器をすべて自分で演奏して、この『Tubular Bells』を完成させた。いまでいう "おたく" の極みである。
マイクに機材、スタジオを提供したのは、当時ヴァージン・レコードというレコード販売会社を営んでいたリチャード・ブランソン。ブランソンはこの『Tubular Bells』を第1作目として、ヴァージン・レーベルを設立し、レコード制作業をスタートさせる。
はじめはあまり売れなかったらしい。ところが映画『エクソシスト』のテーマとして採用されたことから事態が一変する。800万枚を売り上げる結果となり、ヴァージン・レーベルとマイクは一躍表舞台に立つこととなった。このときマイクはまだ弱冠20歳である。
マイクとブランソンの蜜月は永遠のものではなかった。1991年の『Heaven's Open』を最後にヴァージンを離れ、WEAに移籍する。1991年までとどまったのは、契約の関係上、制作するアルバムの数が決まっていたためで、本人はもっと早くにヴァージンから離れたかったらしく、その2作前の『Earth Moving』(1989)あたりからようすがおかしくなっている(笑)。というのは、どうもやる気が感じられないとか、あとで紹介する『Amarok』(1990)のように偏執的とか、ようするに「いやいや作ってます」感がつよく感じられる。
WEAへの移籍後、処女作『Tubular Bells』の続編とも言うべき『Tubular Bells II』(1992)を発表。その後もあれこれ寄り道をしつつ、いつやめてしまうのかとひやひやさせながらも、1~3年ごとに新作を発表しつづけている。
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マイクの音楽を紹介するのに、なにか特徴的・代表的なものをと考えて、冒頭の写真にも掲載した『Amarok』(1990)と『Tubular Bells 2003』(2003)を選んでみた。
『Amarok』はさきにも紹介した通り、ブランソンとの確執まっさかりの時期に制作されたアルバム。Amarokという言葉は造語のようだが、語源は "I am a rock" からきているとも聞くものの、マイクが面倒くさがって適当に弁解しただけという話もあり、どれだけ意味があるのかはわからない。
このCDのなかには1曲しか入っておらず、その1曲は60分である。
そう――まだ言ってなかったと思うが、マイクの楽曲には、とても長いものが多い。処女作『Tubular Bells』も Part 1、Part 2の2曲構成であり、それぞれが30分前後ある。Partに分かれているのも、当時のLPレコードの制約(A面、B面というのがあった)からきていると想像できる。現在のCDのようにその制約がなければ、1曲構成だったかもしれない。そうした長大な楽曲が、親しみやすいメロディとともに退屈させることなくさまざまに展開し、よく言われるように「おもちゃ箱」をひっくり返したようなたのしさがある。
ただ1曲とか2曲とは言っても、『Tubular Bells』は内部のトラックはわかれていて、それぞれ小さな表題がついている。その表題は意味不明のことが多いものの、すこしは全体像を把握する手がかりにはなる。ところが『Amarok』はトラックも1つだけ、ほんとうに1曲の構成なのだ。なにかおかしいんじゃないか――そう思わざるを得ないが、そのあたりに当時のヴァージン・レコードとの確執が浮き出ているようにも感じられる。マイク自身もあるインタビューでそれを認めるような発言をしている。
さて、その『Amarok』、冒頭から鋭利なギターのリフがつづく。牧歌的と評されることの多い彼の楽曲において、尖り具合という点では、この『Amarok』が筆頭だろう。その尖り具合がやたらと格好いい。これを書いているのは猛暑のつづく夏本番の時期なのだが、『Amarok』にはなぜか夏がよく似合う。
鋭利に尖っているとは言っても、60分間ぎらぎらとしているわけではない。そこはマイク・オールドフィールドの音楽。さまざまに展開し、ホッとさせる瞬間もあり、能天気になる瞬間もあり、で、とにかく格好よく、たのしい1時間がつづく。終盤には、年季の入った女性の怪しい声のナレーション (サッチャー元首相の物まねらしい)が "Hello, everyone..."と入ってきて、大団円的終局を迎える。野を越え山を越え長い旅をしてきたなあと思わずしみじみする。
聴きとおすにはたしかに若干の根気がいるかもしれないが、ぼくはこの『Amarok』はマイクのいちばんの傑作だと思う。それは、ブランソンとの確執まっさかりという時期に制作されたものではあり、そのときのマイクの精神状態が、楽曲でのストレス発散という鋭利な形であらわれたのが、良い結果を残したのだろうと勝手に思っている。
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ほんとうは『Amarok』の紹介だけで充分だという気もするのだが、はじめてマイク・オールドフィールドをとり上げておいて、いきなり『Amarok』だけというのも敷居が高そうな話なので、もうひとつ、『Tubular Bells 2003』にも触れておこう。これは題名からもわかるとおり、処女作『Tubular Bells』(1973)のリメイク版となる。
Tubular Bellsシリーズは、処女作以降『Tubular Bells II』(1992)、『Tubular Bells III』(1998)、番外編的な『Millennium Bell』(1999)があるが、これらがオリジナルの変奏曲、派生的な作品であるのに対して、『Tubular Bells 2003』はほぼ完全なオリジナルのリメイク作品である。このリメイク盤が出ると聞いたとき、正直いまさら感というのがあって、よほどネタに困ったのかとも思ったりもした。実際にリリースされたものを聴いてみると、これが非常によかった。細かい差異はあれども、ほぼオリジナルに忠実で、当然最新録音だけに音も明晰だ。オリジナルの『Tubular Bells』には、当時19歳、20歳だったマイクが経済的・技術的な限界を受けつつも、熱い思いで完成させたアルバムであり、その思いが音に現れて魅力のひとつになっているという話もあるが、聴きやすさという点ではやはり『Tubular Bells 2003』に軍配があがる。ヒストリカルな興味ではなく、純粋に音楽を楽しみたいというのであれば、この2003年盤のほうをおすすめする。
WEAから最初にリリースされた盤は、CCCD(Copy Control CD)だった。ぼくの持っているのもCCCD盤だ。機器を故障にいたらせるとか、いろいろと悪い話もあったし、iPodをはじめとするポータブル・オーディオの隆盛で、コピーできないCDなんていまさら買う意味がない的な批判も多数あったせいか、いまリリースされている盤はCCCDではなくなったと聞く。
わざわざ忠実にリメイク盤まで作っただけあって、いちばん彼の本質が現れているのが『Tubular Bells(2003)』だろう。牧歌的でだれにでも受け入れられやすいメロディに満ち、『Amarok』のような鋭利さはない。ときには激しくギターをかきならし、雄叫びをあげるところもあるが、それですら全体にただよう田園風景のような印象からは外れておらず、暖かさが感じられる。
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ほかにも、たとえば『Ommadawn』(1975)とか『Five Miles Out』(1981)、『Crises』(1983)、『Discovery』(1984)、『Songs Of Distant Earth』(1994)など、ぼくがとくに気に入っていて、紹介したいアルバムはたくさんある。これらについては、またいずれ書いていければと思っている。
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