フィラデルフィア管とFLACとエッシェンバッハ
雑誌『レコード芸術』の最新号(2007年8月号)で、オーケストラの自主制作盤が特集されている。
ぼくは門外漢だが、クラシック業界だけでなく音楽業界全体で商業としてのアルバムの売れ行きが落ち込むいっぽう、デジタル技術の一般化やロングテールに対応できる流通の整備などが、こうした自主制作盤の発展に寄与しているのだろう、と思った。いずれにしても、聴き手としてはこうして選択肢が増えるのはありがたいことだ。
この『レコード芸術』の自主制作盤特集のなかに見覚えのあるジャケットのデザインを発見したのでCDの棚をあさってみると、自分では意識していなかったのだが、ぼくも1枚すでに自主制作盤を持っていた。オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)――どうしても以前の "アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団" の名前のほうがなじみがある――の制作で、マリス・ヤンソンス指揮のシベリウスだった。たしかHMVで買ったものだ。
購入当時、ジャケットを見た女房が「なんでルアー なの?」と怪訝な顔をした。ぼくもメジャーレーベルにしてはなにかへんだなと思ったのだが、いまにして思えば、いったいどこのメジャーレーベルと勘ちがいをしたのか、自分でもよくわからない。
ひと昔まえまでは、こうしたマイナーレーベルは海外通販にメールやFAXを送って、2ヶ月か3ヶ月待って、というのがあたりまえだったような気がするから、そうした印象からすると、音楽業界の不況というのはじつは逆で、ますます活況を呈しているのではないか、などと思ってしまう。それは、決して商業的な意味での活況ではないのだと思うが、コンシューマとしては確実に商品に選択肢が増え、しかもそれは決して軽薄短小といわれるような質のものではない。とても "豊か" になった。
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さて、その『レコード芸術』の特集で、米国フィラデルフィア管弦楽団の自主制作盤が紹介されている。フィラデルフィア管といえば、ぼくがサヴァリッシュやデュトワを気に入っている関係から折に触れ聴いてきたオーケストラであり、あらためて言うまでもなく米国の名門オーケストラのひとつだ。どうでもいいことかもしれないが、ディズニーの1940年の『ファンタジア』の音楽は、ストコフスキーの指揮でこのフィラデルフィア管が担当している (さらにどうでもいいが『ファンタジア2000』のほうはレヴァイン指揮のシカゴ交響楽団だった)。
フィラデルフィア管は、自主制作盤をダウンロード方式でも販売している。それだけであれば "いまどきの話" ということで終わるのだが、ダウンロードできるフォーマットについて、MP3だけでなくFLACも用意されているという。これには驚いた。
FLACはMP3やWMA、AACほど市民権を得ていない。Windows Media Player や iTunes などメジャーのメディアプレーヤーの多くは標準では対応していない。いっぽうで、MP3のような非可逆圧縮方式とはちがい、FLACは可逆圧縮方式である。可逆圧縮方式は音質が劣化しない。これはダウンロード販売でありながらまったくCDと同等のクオリティで手に入れられるということだ。これはすばらしい。
さっそくいそいそとホームページに行ってみると、指揮者別に検索できるようになっている。サヴァリッシュやデュトワのものをさがしてみたが、残念ながらこれはと思えるようにものが見あたらない。デュトワは2008年9月からこのオーケストラの首席指揮者に就くと聞くから、それはそれでこれからが楽しみだ。
目についたのは、現音楽監督クリストフ・エッシェンバッハによるベートーヴェンの交響曲だった。
エッシェンバッハ....。
マウスを持つ手がとまった。エッシェンバッハのことは、正直あまり好きではない。むかしむかしの美男子系ピアニストのころからそうだったけれど、まじめで端正な音楽を聴かせてくれるものの、どうも面白みがない。彼がチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団を振っていた時代に、NHK-FMで放送されたブルックナーの交響曲第8番のライブ録音によって、ぼくをブルックナーに開眼させてくれたという(大きな)恩義はあるのだが、これとて「なにかとても遠いところで延々とくり返されるフレーズに無限の広がりを感じた」という、良かったのか悪かったのか微妙な印象の話である。
でも、考えてみれば最近のエッシェンバッハの演奏はまったく聴いていない。興味がなかったのだから当然だ。いっぽうで世間での評判はいいらしい。いま聴けば、またべつのエッシェンバッハに出会えるのかもしれない。CDは買う気にはなれないが、ダウンロード販売で1曲だけ単品で試してみる、ということなら悪くはない。ひさしぶりに聴くのだから、こちらが慣れ親しんだベートーヴェンが妥当だろう――そんなことを考えて、購入してみることにした。選んだのは動静両面が充実していていろいろとわかりやすい交響曲第3番「英雄」。
FLAC版の交響曲1曲(全楽章)は約6ドル。MP3だとさらに1ドル安く、いちおう価格面で差別化してある。名門オーケストラの最新録音が、なんら制約のないフルセットで、家にいながらにしてたった6ドルで手に入れられる。本当に素敵な時代になったものだ。
楽曲は楽章ごとに別ファイルになっていて、その構成は冒頭のホームページのコピー画像の通りである。光ファイバのおかげで、数分とかからずダウンロードは終わり、いつものようにfoobar2000で再生してみた。本当にいつもと変わらない。
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音質は、目の覚めるような、というわけではないが、まずまず高品質だ。ややオンマイク気味でホールトーンは少なめ。かつてフィラデルフィア・サウンドと言われていた印象とはすこしちがう。明るく豊か、というよりは、渋めで引き締まっている。とはいえ、音質面としては充分満足できるものだ。
それで、話題のエッシェンバッハの演奏はといえば、やっぱり印象は変わらなかった。質実剛健。これにちかい表現は以前にショルティのときにも使ったような気がするが、ショルティがわりと前へ前へと突き進むのに対して、エッシェンバッハのそれは決して急いでいるようには見えない。最近、ベーレンライター版の出版とピリオド奏法の台頭の余波で、それでなくても "前倒し気味" の活力系の演奏が多いなかで、エッシェンバッハはきちんと一定のペースで着実に音楽を進めていく。かといってひと時代まえの雄大な演奏というわけでもなく、上で書いたように引き締まっている。これは録音によるものだけでなく、エッシェンバッハがオーケストラからそうした響きを導き出そうとしているからなのかもしれない。そのあたりは、ピリオド奏法の影響なのか、あるいはエッシェンバッハ自身の特質によるものなのかは、よくわからない。どうもエッシェンバッハの顔を見ていると、後者のような気がしてくるが。
最後に驚いたのは、曲が終わってから入る拍手と歓声だった。フィラデルフィアの観客は大盛りあがりだ。その場に居合わせたわけでもなく、しがないオーディオ装置を介して演奏を聴くぼくには、会場の雰囲気まではとらえられず、どうしてそこまで盛り上がるのか、いまひとつピンとこなかった。こういうとき、やっぱり映像があったらなあと思う。あるいは米国の観客というのは、いつもこうして盛り上がるものなのかもしれない。そんな気もしてきた。
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いずれにしても、6ドルでこれだけ楽しめるのだから、ほんとうにすばらしいことだ。いわゆるIT企業に勤めていながらいまさらこういうことを言うのもどうかと思うが、海外からCDクオリティで気軽に音楽を手に入れられるインフラと、特別なものではなく単なる手段となったデジタル技術には、あらためて「すごいなあ」と感心させられる。
アナログ信号をデジタル化する際には、どうしても "失われる情報" がある。その議論があることは知っている。でもやっぱりぼくは、こうしてデジタル技術の恩恵にどっぷりと漬かりながら過ごす休日も、なかなかいいじゃないかと思う。
Royal Concertgebouw Orchestra
Sibelius: Symphony No.2
Mariss Jansons, Chief conductor
RCO 05005
Link : HMVジャパン
Bruckner : Symphony No.8 in C minor (Haas Edition)
Vienna Philharmonic Orchestra
Herbert von Karajan, Conductor
Deutsche Grammophon 427 611-2
Link : HMVジャパン
カラヤンという指揮者はすこし苦手意識があるのだが、この曲に関してはカラヤン盤を推奨。いつかまた取り上げたい。
Beethoven : Symphony No. 3 in E flat major, Op. 55, "Eroica"
Vienna Philharmonic Orchestra
Simon Rattle, Conductor
EMI TOCE13521
Link : HMVジャパン
Link : HMVジャパン (交響曲全集)
賛否いろいろあるけれど、いまを代表するラトルのベートーヴェン。折に触れ聴いている。CDを買うなら、全集盤がお薦め。CD番号は全集盤。
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