2010年6月13日 (日)

ガーディナーのモンテヴェルディと、バッハ

Gardiner-Bach また、前回の投稿からずいぶんと時間が空いてしまった。「また」というより、こんなに空いたのははじめてだと思う。そのあいだにあったことについては、いい話はあまりないし、書きはじめるとキリがなくなるので、今回はさらっと、いつものとおり、買ったCDの話をしよう。

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ボックスCDの流行は止まる気配もなく、さまざまなレーベルからさまざまな企画モノがつぎつぎと発売されている。お買い得感だけで選んでいたら全部お買い得ということになってしまうので、さすがに最近はやや慎重になってきた――あまりいい言いかたではないが、目新しくなくなってきた、と言えるのかもしれない。


ジョン・エリオット・ガーディナー (John Eliot Gardiner) と、彼の率いるイングリッシュ・バロック・ソロイスツ (English Baroque Soloists) によるバッハの演奏を集めたボックスセットも、発売されてから興味は惹かれつつも「買うまい」と思っていた。ガーディナーの演奏は、これまでほかのCD聴いたことがないわけではないが、イギリス人で端正な顔立ち、というイメージ通りの真面目で端正な音楽をやる人、という程度の安直な認識しかなく、つよい興味をもったことがなかった。聴いた機会も、宗教音楽か、古楽器系の伴奏という程度だった。

DG111 それが、べつのボックスセットにたまたまガーディナーの演奏が入っていて、それを聴いているうちに、すこし考え方が変わってきた。そのボックスセットというのは、右の画像の通り、DGの111周年記念ボックス――55枚組で、これについて書き出したらまた大変なことになる――で、そのなかでモンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』がガーディナーの演奏で収録されていて、それを聴いたのだった。

ぼくはバロック音楽のことはあまり詳しくない。ただ、それでもモンテヴェルディの音楽のことをすこしは聴く機会を持ってきたのは、イタリアのリナルド・アレッサンドリーニ (Rinaldo Alessandrini) 率いるコンツェルト・イタリアーノ (Concerto Italiano) の一連のCDのおかげである。ぼくはバッハの音楽で彼らの演奏を知り、そして彼らの演奏を軸にモンテヴェルディ (と、そのほかのバロック時代の作曲家) の音楽に触れるようになった。

そうしてDGの111周年記念ボックスでガーディナーの『聖母マリアの夕べの祈り』を聴いて、そのスケールと構成力に驚いてしまった。さきに挙げたアレッサンドリーニは、最小限の人数と構成で、研ぎ澄まされた鋭敏な音楽をする。だからそれと比較すれば、たいていの演奏は大きく聴こえるに決まっている。ガーディナーの演奏で驚いたのは、編成が大きいとかそういう話ではなくて、闊達、ドラマチック、雄大で力強くありながら、緻密な美しさに満ちている「構成の見事さ」とでもいうようなところだった。もともとの楽曲の性格もあるのだろうが、これまで聴いたことのない、宇宙に浮かぶかのような音楽世界が広がっていた。

結果として、前に書いた、真面目で端正な音楽をやるひと、というガーディナーの印象はその通りなのだが、それだけではなくて、じつはものすごく強靭なものを持ったひとなのではないか――と思うようになった。

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そうして結局、先日発売されたガーディナーのバッハの宗教曲ボックスを買うことになった。

この22枚組に収められているのは、9枚が4大宗教曲――マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、クリスマス・オラトリオ、そしてロ短調ミサ――のこり13枚がカンタータ集となっている。バッハのカンタータは、その膨大な量のためにこれまで正面から聴いたことがないので、このCD集がいい機会となったらいいのだけれど、まだ聴いていない。まずはマタイとロ短調ミサを聴いた。

その演奏は、期待どおり端正ですばらしいものだ。モンテヴェルディのときのような、どこか別のところにいるかのような不思議さはなく、しっかり地に足がついている。ひょっとしたら、モンテヴェルディ経験がなければ、ぼくの耳はこのバッハを清涼で端正な演奏として聴いて、それ以上には進めなかったかもしれない。でもいまは、その清涼で端正な表情の下にある、静かな強さが感じられる。

もちろん、それは単なるプラシーボなのかもしれない。でもやはり、それだけではないような気がする。それは、これから時間をかけてすこしずつわかってくるのだろうと思う。つぎは、ガーディナーのベートーヴェンを買ってみようと思っている。

あ、でもそのまえにカンタータ入門、かな(笑)。

 

 

Annotations :
Gardiner-Bach バッハ/カンタータ&宗教曲ボックス
Bach/Sacred Masterpieces, Cantatas
John Eliot Gardiner, Conductor 
The English Baroque Soloists
The Mondeverdi Choir 
ARCHIV: 477 8735 
それにしても、このジャケットはいったい...。
Link : HMVジャパン
Gardiner-Monteverdi[3] モンテヴェルディ/聖母マリアの夕べの祈り
Monteverdi/Vespro della Beata Vergine
John Eliot Gardiner, Conductor
The English Baroque Soloists
The Mondeverdi Choir
ユニバーサル: UCCA3108
ふつうは安い輸入盤を紹介するのだが、HMVのカタログでは日本盤しか見つけられなかったので、これは日本盤。
Link : HMVジャパン
Alessandrini-Monteverdi モンテヴェルディ/聖母マリアの夕べの祈り
Monteverdi/Vespro della Beata Vergine
Rinaldo Alessandrini, Conductor
Concerto Italiano
naïve (OPUS111): Op30403
本文中では、ガーディナー盤との比較として紹介するかたちになったが、ぼくはこのアレッサンドリーニの演奏も傑作だと思う。
Link : HMVジャパン
DG111 111 Years Of Deutsche Grammophon
DG: 002894778167
残念ながら完売。
Link : HMVジャパン

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2009年12月28日 (月)

ホロヴィッツのスカルラッティ、ベルリン コンサート 1986

Horowitz-TheLegendaryBerlinConcert-1986 ひさしぶりに「待ちに待った」という思いを味わったCDが出た。ウラディミール・ホロヴィッツが、1986年にベルリンで開催したコンサートの録音がCD化されたのだ。

「待ちに待った」というのは、2つある。ひとつは、コンサートが行われてから20年以上が経過して、ようやくCD化されたということ。もうひとつは、たしか10月にHMVに注文をして、その月のうちに届くはずが、入荷予定が延びて、延びて――HMVと数回メールのやりとりをして――ようやくこの年末になって届いたのだ。


これは、ホロヴィッツが83歳のときのコンサートの録音だ。この翌月、彼は2度目の――そして最後の来日を果たしている。ほんとうに聴きたかったのは、この東京での演奏なのだが、今回発売されたベルリンのコンサートはそのひと月のもの。ぼくが楽しみにしていたスカルラッティの曲目はおなじで、おそらくはコンディションもあまり変わらないと思う。

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この2度目の来日のとき、ぼくはまだ学生で、クラシックを聴きはじめたばかりだった。なかなか日本にきてくれなかったホロヴィッツは、その3年前に、はじめての来日を果たしている。この1983年の初来日のコンサートは、吉田秀和氏の有名な「ひとこと」があるように、評判の良いものではなかった。

ぼくは1983年のときのことはよくは知らない。あとになって、吉田氏自身の著作や、さまざまな記事などで知識として知った程度だ。だから、2度目の1986年のときには、そうした初来日の印象、先入観はなにもなく、ただ往年の大ピアニストのコンサート――高額なチケットも話題だった――という程度の認識で、どちらかといえば興味本位で、NHK-FMでの中継を聴いたのだった。

ヴィルトゥオーゾとして知られるピアニストのコンサートだから、どんなに凄い演奏ではじまるのだろう――そう思いながら、たいして緊張もせず待っているうちに1曲目がはじまって、ぼくは思わず息を呑んだ。

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コンサートは、スカルラッティの3曲のソナタではじまった。ぼくは、そのときはじめてホロヴィッツというピアニストと、ドメニコ・スカルラッティのソナタを聴いたのだった。1曲目は K87 だった。その静謐で美しい響きに、あっというまに引き込まれてしまった。つづいて、チャーミングで闊達な K380。小太鼓を模した音の響きということらしいが、そのときにはまるで小鳥のさえずりのように聴こえた。どちらも、それまで――その後も――聴いたことがないほど、美しかった。

当時のコンサートのことは、これ以外に、じつはあまり覚えていない。とにかくホロヴィッツというピアニストの凄さと、彼のスカルラッティの美しさに、完全にやられてしまった。

その後すぐ、ホロヴィッツが1960年代にスタジオ録音した、スカルラッティのソナタ集を買ってきた。ところが、ここにはぼくが聴いたスカルラッティはいなかった。それから約20年、ぼくの音楽を聴く幅もひろがってきて、スカルラッティもさまざまな演奏を聴いた。ソナタでいえば、シフの演奏が印象的には近かったけれど――結局、あのときのホロヴィッツのようにスカルラッティを弾いた演奏は、ほかにはないのだ、ということを理解するようになった。

その演奏が、いまになって音質のよいCDで聴けるようになろうとは、思いもしないことだった。最後の3ヶ月、HMVには焦らされたけれど(笑)、とてもうれしい。

このCDの背面にはこう引用されている――"Anyone who has once heard Horowitz's pianissimo will never forget it" (Der Tagesspiegel, 21st May 1986)まさに、ぼくはそうだったのだ。

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Horowitz-InMoscow-1986余談を三つ。この年のホロヴィッツのコンサートは、モスクワでの模様がすでにCDとしてDGからリリースされている。でも、このCDには肝心のスカルラッティが1曲しか収録されてない!

もうひとつ。おなじくこの年のホロヴィッツの演奏は、YouTube で見ることができる。上で紹介したソナタ K86 は "カークパトリック番号" と言われる体系であらわしたものだが、ほかにスカルラッティのカタログ番号には "ロンゴ番号" があり、この番号であらわすと、おなじ作品が L33 となる。YouTube ではこのロンゴ番号で紹介されていることが多いようだ。ちなみに、この K86=L33 のモスクワでのライブの映像はここ。息を詰めて(笑)ご覧ください。

最後。ベルリンでのコンサートの終盤、アンコールのまえに弾かれたショパンの英雄ポロネーズ。なんて粋な演奏なのだろう、と思った。とても当時83歳とは思えない。

 

 

Annotations :
Horowitz : The Legendary Berlin Concerto 1986
Vladimir Horowitz, piano
Sony Music : 88697527082
Link : HMVジャパン

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2009年12月 6日 (日)

foo_NowPlaying.gadget (foobar2000 用ガジェット)

foo_NowPlaying.gadget 先日通りすがりさんからリクエストをいただいたのと、ときどき某掲示板で話題にしてもらっていることもあるようなので、Windows 7 / Windows Vista 用のガジェット foo_NowPlaying.gadget を公開しました。

この foo_NowPlaying.gadget は、フリーのプレイヤー・ソフト foobar2000 用の Windows ガジェット (サイドバー・ガジェット) です。このブログの右側に、foo_NowPlaying.gadget 用のページへのリンクがありますので、そこからダウンロードできます。

foobar2000 の Version 0.9.5.3 以降で使用した実績がありますが、現在はもっぱら、自分で使っている Version 0.9.6.9 で動作確認しています。

また、このガジェットの動作には、foosion氏作成の COM Automation server "foo_comserver2" が必要です。 foo_comserver2 は、ここからダウンロードできます。使用しているバージョンは、この記事を書いている現在最新の、0.7 alpha 6 です (長いあいだこのバージョンのままのようです)。


foo_NowPlaying.gadget は表示専用のガジェットです。このガジェットから操作できることはほとんどありません。表面をクリックすると、 foobar2000が起動していなければ起動します。逆に起動していれば「アクティベート」します。アクティベートというのは、こちらの期待としては foobar2000が隠れたり最小化していれば前面に表示されてほしいのですが、なぜかそういうようには動かないこともあるようです(^_^;。

演奏中は、その楽曲とおなじフォルダに画像があればランダムに表示します。またそれ以外に、Associated-Images と呼んでいる、"連想画像表示" 機能があります。これは、演奏中の楽曲から単語を抜き出し、その単語に合致する画像を、特定のフォルダの下から自動的に探してきて表示するものです。たとえば、あるフォルダに "otter.jpg" を置いておき、このフォルダを設定画面の Associated-Images Folder として指定しておくと、Otter が歌っている曲を演奏中、otter.jpg など "otter" をファイル名に含む画像を探してきてランダムに表示します。ただし、もちろんこの場合には、楽曲の Title、Artist、Performer などのタグのどこかに Otter の名前が入っている必要があります。

このガジェットを作成した経緯は、「foobar2000 と Windows Vista サイドバー ガジェット」と「foobar2000 と Windows Vista サイドバー ガジェット (その2)」に長々と書いたので、ここではくり返しません(^^;。このガジェットがお役に立てれば幸いです。

 

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2009年11月 3日 (火)

小さな手術とマレイ・ペライアのピアノ

Bach-Partitas-Perahia-1 依然あわただしい日々がつづいているなか、さらに追い討ちをかける出来事があった。手術のため1週間入院したのだ(^o^;。

原因となった疾病は深刻なものではなく外科的なもので、医者も気軽に引き受けてくれたけれど、なんといっても、こちらは抜歯以外には手術など経験したことのない初心者だし、手術当日に切り開いてみてはじめて予想より問題の部位が大きいことがわかったらしく、回復にもすこし時間がかかるなど、小さな手術ながら大変な思いをした。

手術が終わってからしばらく、麻酔で下半身が思うように動かせず、麻酔が切れたら切れたで痛みのためにあまり動けず、ベッドに張りつけになった。本を読むのも意外に疲れる――時間を忘れさせてくれるはずのジョン・グリシャムの『謀略法廷』は、ぼくの状況が悪いのか、あるいはグリシャムの今回の作品に問題があるのか、さっぱり進まない。

それで、病室の天井を見つめながら、iPodで音楽を聴いた。


以前、仕事で体力的にも精神的にも厳しい状況だったときに、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いたという話をした。今回はこれはダメだった。ぎゅっと握り締めたような静かなる力強さは重荷だった。それでふと、マレイ・ペライアのバッハ、パルティータをかけてみたら、これがすっと心に入ってきて、そのまま――ときおりウトウトとしながら――全曲を静かに、ゆっくりと聴いた。

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Bach-GoldbergVariations-Perahia 特別に好きと意識したわけでもなかったのに、ペライアのピアノは、いつも近くにあった。買った覚えも理由も思い出せないまま、勝手にCDが増えていく(爆)――そんな感じだった。いちばん印象的だったのは、自分の部屋の棚のなかに、バッハのゴールドベルグ変奏曲を「再発見」したときだ。たぶん買った当時1回だけ聴いて、あまり感じるところもなくそのまま棚にしまっておいたのだろう。PCにCDを移していく過程で、好奇心からこのCDもリッピングし、さらにiPodにも入れた。そうしてある日、聴いてみて驚いた。大人の余裕、ゆとりが感じられ、とても楽しげで魅力的な演奏だった。

ペライアのピアノは、アンドラーシュ・シフのピアノと居場所の似ているところがある。演奏の印象を文字にすると似た表現になりがちだし、雑誌『レコード芸術』で、矢澤孝樹氏が「ペライアはいつもシフの割りを食ってしまう」と書かれていて、なるほどと思った。でも実際には、演奏の結果から受ける印象が似ていたとしても、音楽の根幹のところはずいぶんとちがう。両者の音楽に愉悦感があったとしても、シフのそれが闊達で溌剌としているのに対して、ペライアはもっと静かで内向的なものを感じさせる。それはあるいは、ペライアが一時期、指の故障で活動を休止していたこととも関係しているのかもしれないけれど。

Bach-Partitas-Perahia-2 今回のペライアのパルティータは、先に発売された2番から4番が2007年の録音、今年になって発売された1番と5番6番が2008年と2009年の録音となっている。そしてこの2枚目が発売になるちょうどおなじ時期に、シフのパルティータ全曲の再録音がECMから発売となった。

レコード会社がちがうから仕方がないとはいえ、なんという間の悪さ。世間では、どちらかといえばシフの再録音のほうに話題が集まっていたように思うし、正直なところ、ぼくの印象もそうだった。

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でも結果として、病室にいた日、聴きたいと思ったのはペライアの演奏だった。ちなみに、持ち込んだiPodには、シフとペライア両方の演奏が入っていた。いつどっちを聴きたくなるのか、自分でもよくわからなかったからだ(笑)。

ベッドに横たわりながら、ペライアのパルティータをじっと聴いていると、不思議と心が落ち着いた。そしてCD2枚分――約140分のあいだ、ただひたすらこの音楽を聴いていられることに安息と満ち足りた気持ちを感じた。とてもいい時間を――痛みに耐えながら――過ごせた。

Chopin-Etudes-Perahia 退院して自宅にもどり、あらためて自分の部屋の棚からペライアのCDを探してみると、ほかにバッハのイギリス組曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、そしてショパンのエチュードなどが出てきた(このエチュードはたしか、あとになって制作上のミスが発覚した事故盤で、HMVから返品の連絡がきたものの、代替品がないと言われたのでそのまま手許に置いておいたものだ)。

このエチュード(練習曲集)を聴いていると、たとえショパン特有の激しく情熱的な楽曲であっても、パルティータやゴールドベルグ変奏曲で受けたのとおなじ印象を受ける。つまり、技術的に安心感があるのはもちろんのこと、豊穣な音楽を鳴らしつつも、音楽を楽しむ余裕・ゆとりが感じられ、どこか優しい演奏なのである。そのいっぽうで、一聴してガツンと来るような派手さはない。あわただしいなかで接していると、聴き逃してしまうのかもしれない。これは大人の音楽だな、と思う。

 

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2009年8月25日 (火)

愛郷の森

Fire 今年、うちの会社の夏休みは9日間あった。でも残念ながら、トラブルを起こした他課の工事の応援に入ることになり、結局2日間しか休めなかった。

その2日間、滋賀県の東近江市永源寺にある、「愛郷の森」に家族でキャンプに行ってきた。キャンプとは言っても、設備の整ったコテージがあり、不自由を感じることはほとんどないのだが、夫婦ともにかなりインドア派であるわが家としては、相当めずらしいイベントだった。


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ことの発端は判然としない――決して子供たちが行きたがったわけでもない。ただ、下の子が小学生になってそれなりに動けるようになってきたこと、一方で上の子は小学校高学年になってきて、「そういうこと」ができるのも意外とあと何年もないかも――というような深夜の大人の会話があって、なぜかふたりとも行く気になってしまったのだ。

調べてみると、初心者にも敷居の低いキャンプ施設は全国に――もちろん近畿圏内にも――たくさんあった。ただ、調べはじめたのはすでに6月になってからだったので、夏休みのシーズンはどこも予約でいっぱい。そんななかで奇跡的に空いていて、設備的にも満足できそうなのが、滋賀県の「愛郷の森」だった。インターネットを検索してみるとすぐにわかるけれど、行かれた皆さんの評判はすこぶる良い。実際に行ってみて、その期待は裏切られなかった――天候には思いっきり裏切られたけど(笑)。

空いていたコテージは、すこし大きい8人用で、一泊2万円。家族全員が宿泊できて、バス・トイレ・寝具完備、と考えると安いものである。あと愛郷の森のポイントとしては、川遊びができること、バーベキュー炉が用意されていること、そしてその炉に屋根があること、などがあった。この最後の「屋根」は、あってくれて本当に助かった(^^;。

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行くと決めたはいいけれど、なにしろ経験ナシの初心者だ。インターネットでの先輩諸氏の情報や書籍を参考にしながら準備をした。道具として買ったのは――大物では椅子、テーブル、シングルコンロ、ランタン、大きなクーラーボックス――などである。どれもそれなりの値段がするか、あるいはあとあと収納場所に困りそうなものばかりなので、悩みに悩んで厳選したものだが、結果としてすべての道具をきちんと使って終わった。どれも買ってよかったものばかりだ。

そして細かいもの――料理用、炭用それぞれのトングやプラスチックの食器、調理道具、炭や着火材などの消耗品、ホテルではないので洗剤やシャンプー、洗面用具などの生活用品を用意した。

食料は現地調達。 Google Maps で見るかぎりいちばん近そうなスーパー平和堂に行ったものの、ここはかぎりなく日常生活向けのスーパーだった。あとで知ったのだが、すこし足を伸ばして西友まで行ったほうが、より豊富な食材を選べたと思う。

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ようやく確保した2日間の休み。当日は台風がきていた (^O^;ヒャー。

日本列島に接近してから突如姿を現した台風9号である。その直前に接近していた台風8号は、台湾などアジアに大きな被害をもたらしたものの、愛郷の森的には大丈夫だと踏んでいた。ところが目前になって台風9号が出現して、この台風9号の日本接近とともに出発、ということになってしまった。仕事の予定も変えられないし、愛郷の森の予約ももちろん変えられない。暴風雨になったらどうしようかと言いつつも、「中止」と判断するほどの材料もなかったので、とにかく出発した。

さいわい台風の上陸はまぬがれ、暴風雨には遭遇しなかったけれど、初日は夜までずっと雨ということになった。楽しみにしていた川遊びはできなくなった。残念無念だったが、おかげでゆとりをもって行動することができるようになった。

計画通り名神高速の八日市インターで降り、平和堂で買い物をして、昼食には愛郷の森近くの永源寺そばを食べた。とてもおいしかった(^_^)。

そこまできてはじめて、台風の情報を得られるものが車のラジオか携帯電話しかない、ということに気がついた。コテージにはテレビはない。コテージの目のまえに車が停められるとはいえ、雨のなか車とコテージを往復するのも面倒だし、携帯電話も通じるとはかぎらない(その心配は正しかった)。それであわてて携帯ラジオを買いに走った。ホームセンター・コメリに入ってみたもののめぼしいものがなく、親切な店員さんに西友の存在を教えられ、そちらに向かった。

西友は、上で触れたように立派な設備だった。そこでソニーの携帯ラジオを買った。由緒正しきソニーの携帯ラジオ(笑)を買う日がくるなんて。このラジオは夜まで大活躍だった。2cmくらいの小さなスピーカーから流れるナローレンジの音楽は、不思議と心休まる音色で、コテージの夜にはよく似あった。ちなみにコテージのなかはドコモの携帯電話は「圏外」だった(外に出れば、つながるところもある)。

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River 到着して訊いてみると、愛郷の森はこの日も満室ということだった。しかもテントサイトでは、テントを張っているひとがいる。台風がくるかも、というときにすごいなあ。と感心した。

夕方にすこし弱まった雨脚も、夜にはふたたび強くなった。でもコテージの横にあるバーベキュー炉には屋根が完備されていて、その下は快適だった。上の子は女房といっしょに食材の準備、ぼくと下の子は炉の準備をした。一抹の不安のあった(笑)火起こしにも無事に成功し(上の写真は着火直後で炎が出ているが、やがて炎は消えて炭だけが燃える状態になる)、お約束のバーベキューもまずまず楽しめた。これで屋根がなかったらと思うと、ゾッとする。そのあと花火をしたものの、これは屋根のなかが濛々とした煙に覆われてしまい、下の子の喘息を誘発しそうだったので早々に切り上げた。

キャンプの夜は長い――と、聞いていたけれど、コテージの夜はあっというまだった。あと片づけをして、シャワーを浴び、子供たちとシーツの準備をして、ひと息つくともう21時を回っていた。コテージのリビングで、ぼくはウィスキー――クラガンモア――を、子供たちは特別にジュースを飲みながら、家族でトランプをした。下の子がそれなりにきちんとトランプができるようになっていて感動した。気がつくと、もう23時を回っている。子供たちは寝て、ぼくと女房も憔悴した頭で2回ほど立体四目並べをして、なにをやっているのかお互いにわからなくなってきたので、寝た。

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朝には雨もやみ、晴れ間も見えるようになっていたので、朝食はコテージのバルコニーでとった。イワタニ・プリムスのシングルコンロでソーセージとキャベツを炒めて、ホットドッグを作って食べた。こういうのはおいしいに決まっている(^_^)。

上の子と炉の片づけ、清掃をして、荷物をまとめ、シーツを事務所に返却し、車に荷物を積み込んで、準備万端。愛郷の森を出発した。

2日目の天気はどんどん回復していった。一日ズレてくれれば川遊びができたのに、と、まだ未練に思いながら、この日は草津市にある滋賀県立琵琶湖博物館に向かった。この話は、機会があればまたべつに書こうと思うけれど、ここを訪れたすべてのブロガーの皆さんが「立派な施設」と言われているのを読んで行ってなお、想像していたよりも立派な施設で驚いた。日をあらためて、この博物館だけを目的にまた来てもいい、と思った。

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こうしてインドア派一家の初キャンプは終了した。また来ようね。ということになった。ぼくはといえば、なんとか小さな夏休みを無事に終えたと安堵しつつ、翌日からはまた仕事にもどった(^_^;。

 

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2009年8月24日 (月)

サイモン・ラトルとBPOのブラームス、交響曲全集

Rattile-Brahms すでに国内盤が発売されているので入手されている方も多いと思うけれど、サイモン・ラトルとBPO(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)によるブラームスの交響曲全集が発売された。待望の、と言っていいと思う。全世界が待ち望んだ、という感じかも(笑)。

海外盤が豊富に流通するなか、付加価値を見出しにくい国内盤は、今回は特典として、全曲の演奏映像を収録した2枚組のDVDが付属するという、豪華仕様になっている。ぼくもこの「オマケ」にやられて、国内盤を購入した。ちなみに――これはPCでリッピングするぼくにはあまり魅力は感じられないのだが――CDはHQCD仕様となっている。


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CDで2回ほど全曲を聴いた。とは言っても、夏休みのシーズンだというのに仕事がやたらと忙しく、ほとんど休めないので、腰を落ち着けて聴いたというにはほど遠い状態になってしまった。思いあまってiPodに入れて――とも思ったけれど、BGMであればまだしも、交響曲を真剣に聴きたいときのiPodというのはさすがに気が引ける。それで、ようやく休めた先日の土曜日、子供たちとマクドナルドから帰ってきたあと、すこし時間を作って自分の部屋のオーディオで聴いた。

そうしたら、予想していたものとは大きくちがっていて驚いた。

2002年のVPO(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)とのベートーヴェンでは、ラトルはベーレンライター版を用い、ピリオド奏法も取り入れ、溌剌系の演奏を聴かせていた。最近リリースされたベルリオーズの幻想交響曲も、そのまえのジルベスター・コンサートを収録したロシアもののアルバムでも、BPOの能力を生かした明晰に聴かせる演奏で、その明晰さがある種の軽さにもつながっていたと思う。それで今回のブラームスでも、ややテンポを早めにした、どちらかと言えば「軽め」の演奏なのだろうと漠然と思っていたのだが、実際に聴いてみるとこれがまったくちがっていた。

重厚なブラームスだった。テンポは悠然として、よどみがなく、それでいて迫力と牽引力、高揚感もある。各交響曲とも、終楽章に向けてしっかりと気持ちを連れて行ってくれる。緩んだようなところはまったくない。1970年代から90年代を髣髴とさせる「巨匠」の演奏である。ただすこし往年の演奏とちがっているのは、雄大でありながら、中身がぎゅっと凝縮された充実した響きになっているところで、このあたりはさすがベルリン・フィルとラトルだなと思う。

現在最高のオーケストラと指揮者が、満を持してリリースしたブラームスの交響曲全集なのだから、ある意味これは当然の感想なのかもしれないけれど、正直なところ、まさかこういうスタイルの演奏が――2009年の録音として――聴けるとは思っていなかった。ほんとうに驚いてしまった。

ちょっと気になるところもあった。ところどころ、ディナーミク(音の強弱)がすこしわざとらしく感じられるところがあった。この瞬間に、ふとわれに返ってしまった。成功していればスカッと決まったのかもしれないが、素人のぼくの印象だと、充分にオーケストラが制動しきれなくてバラけてしまったような感じがした。

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ブラームスの交響曲って、こういうものだったんだな――と思った。

十代後半にクラシックを聴きはじめるようになって以来、ぼくはブラームスの交響曲をとくに好きで聴いてきた。どこが好きだというのは難しいけれど、ベートーヴェンの古典派音楽の様式に、じわっと染み出てくるようなロマン派音楽の香りが感じられるところが好きなのだろう、という気がする。

ただ残念ながら、これという演奏にはなかなかめぐりあえない。

このブログの最初のころに、ヴァントとNDR(北ドイツ放送交響楽団)による80年代の録音を紹介した。この演奏がぼくの思っているブラームスにもっとも近い。

ほかにも、全集で言えば、バーンスタインやジュリーニ、そしてアバド――オーケストラはすべてVPO――の演奏をこれまでよく聴いてきた(そういえば先日、金聖響とオーケストラ・アンサンブル金沢によるブラームスのコンサートにも行った)。交響曲第4番には、カルロス・クライバーとVPOによる世界遺産というべき演奏があり、これは別格としても、ほかはどうしても重すぎたり遅すぎたり、あるいは逆に軽すぎたりして、どれもすばらしいが、もうあとほんのすこしのところでなにかが届かない。

結局――よく聴くかどうかとはべつに――自分のなかでスタンダードとして残っているのは、ヴァントとNDRによる80年代の演奏、ということになりそうだ。また、よく聴くという意味では、じつは最近はチェリビダッケとシュトゥットガルト放送交響楽団の演奏が気に入っている。これはぼくはスタンダードとは呼ばないものの、とても魅惑的な演奏だ。

ラトルとBPOによる今回の全集は、これまでぼくが聴いてきたブラームスのなかでも、もっとも重厚なものだと思う。ブラームスの交響曲は、こんなに巨大なものだったのか――そう思った。

これから、この演奏を気に入りつづけられるかどうか――というのは、まだしばらく時間がたってみないとわからない。ただ、すくなくともいまは、まだ何回でも聴いてみたい、と強く思っている。

ああ時間が...いよいよiPodに入れるしかないのかも。

 

 

Annotations :
ブラームス/交響曲全集 : Brahms/The Symphonies
Simon Rattle, Conductor
Berliner Philharmoniker
EMI Classics: TOCE-90097-99
Link : HMVジャパン

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2009年7月21日 (火)

フェルナーのバッハ、インヴェンションとシンフォニア

Fellner 最近ティル・フェルナーがECMに録音した、バッハの『インヴェンションとシンフォニア』を買った。

この曲集はどうしても教育用というイメージがあり、これまであまり熱心には聴いてこなかった。いまもべつに、熱烈に聴きたいと思っているわけでもないのだけれど、そういう性質の曲集であるにもかかわらず、このフェルナーの演奏が世間で話題になっているようだし、そして先日の平均律クラヴィーア曲集の通勤全曲演奏以来、ぼくの通勤時のトレンドがベートーヴェンからバッハになったこともあって、買ってみた。


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うすうす想像はしていたのだが、やはりこれはプロデューサーのマンフレート・アイヒャーの美学と、フェルナーの内向性がうまく融合した成果なのだろうと思う。静かで穏やかで、とても深くて悠然とした世界だ。期待どおり――期待以上にすばらしかった。

「フェルナーの内向性」というのは、決して "暗い" という意味ではない。知的で温かみがあり、優雅さも兼ねそなえている。その意味では、先日おなじレーベルでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を完成させたアンドラーシュ・シフとすこし世界観がかぶるようなところがありそうだけれど、シフのピアノはもうすこし力強く、溌剌とした感じがある。フェルナーのピアノは力強さというよりは穏やかでやわらかい。

そんなフェルナーのピアノを、アイヒャーの美学が全面的に支えている。音質は残響が豊かでありながら静謐で透明だし、それ以前に、最初に目に入るECMレーベルならではのジャケットのデザインから、その世界観はスタートしている。まさに穏やかで美しい、深い湖を思わせる「作品」だ。

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世間のひとたちとは逆に、ぼくはこのCDを買ってから、フェルナーが最近来日し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのチクルスを演奏したこと、それにあわせて雑誌『レコード芸術』にインタビューが掲載されていたこと、またおなじECMから、すでにバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻が発売されていたことなどを知った。平均律はHMVに注文した。

あたらしいピアニストと出会う、というのは簡単なようでむずかしい。もちろん毎年何人もの若いピアニストがCDをリリースし、雑誌や放送で取り上げられてぼくの前を通りすぎていく。だが、ぼくのような素人にとって、その名前が心に残るのは正直なところ稀だ。

小さなきっかけから、フェルナーの名前はきちんと心に残った。今回の『インヴェンションとシンフォニア』は、生存競争の厳しい iPod にも入った(笑)。まずは世間の皆さんと同様に、平均律の第2巻を期待したいところだけれど、これからの活躍をすこしずつ――楽しみに――見ていきたいと思う。

 

 

Annotations :

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2009年6月21日 (日)

『レコード芸術』名曲名盤300 と PCオーディオ

932905 途中で数年間のブランクがあるとはいえ、雑誌『レコード芸術』をかれこれ20年以上読みつづけている。ここ数年は定期購読にしているので、買おうかどうしようか迷うヒマもなく毎月届く。クラシックレコード業界の不振で目新しいニュースが少なく、いっぽうでインターネットで速報的なニュースが簡単に手に入る状況で、こうした月評主体の雑誌を購入する意味はあるのだろうか、と自問することも正直なところ少なくない。言葉は悪いが「惰性」で買いつづけているようなところもある。

ただ、こうした雑誌というメディアでしか手に入らない情報もある。それは、きちんとコストをかけた特集記事だ。「コストをかけた」というのは、多彩な有識者による多角的なデータや分析、論評に支えられた記事という意味だ。インターネットで無償で手にいれられる記事は、まさにこのブログのような一個人の独り言だったり、広告収入を前提とした記事だったりして、情報としては有用ではあるけれど、どうしても矮小化、希薄化している。それらをつなげて熟成させるのは読み手の意識なのだが、それだけではどうしても――すくなくともぼくの場合――ある一定の限界のなかに収まってしまう。


その点、雑誌など有償の情報の内容の濃さは、いうまでもなく無償の情報とは比較にならない。話が逸れる上に妄言のようなことを言うようだけれど、若い連中の仕事を見ていると、なにか技術的な課題があったとき、インターネットの検索だけに頼って解決しようとする傾向が強くなっているような気がする。有償の情報を上手に使えなくなっているのだ。一時期言われた「Google の検索でヒットしなければ、この世に存在しないのと同じ」というようなことを「信じている」というよりは頭からそう思い込んでいるような気がする。実際はもちろんそんなことはない。大きな本屋に行けば、上質で密度の濃い情報はたくさん――そうでない情報も事実としてたくさんあるが――並んでいる。

話をもどそう。だから、『レコード芸術』誌には今後もぜひとも特集記事でがんばってほしいと思う。この内容は、個人ブログからもHMVのサイトからも、なかなか手に入れられないものなのだから。

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すこしまえ――2009年5月号の特集は「新編 名曲名盤300①」だった。

『レコード芸術』は数年に1回、数ヶ月にわたってこの「名曲名盤」の特集記事を組む。前回は2001年だったようだ。いつもこの特集がはじまると、ネタ切れとマンネリの様相が感じられ、正直なところがっかりする。これまで真剣に読んだ記憶もあまりない。

ところが今回は、なぜか面白くて何度も読み返した。なぜ面白いのか、自分でもよくわからなかった。第1回の5月はバッハからベートーヴェンまでが取り上げられている。思いがけない演奏家がランクアップしているわけでもなく、たとえばバッハで見ると、端的に言ってしまえば声楽はリヒター鍵盤はグールドである。そうめずらしい結論でもない。あえて言えば、今年バッハの講評を担当されている矢澤孝樹氏の文章は、かすかに独善的なきらいがあるけれど、それ故に読んでいて面白い。でもだからといって、それだけで特集全体が底上げされて面白くなった、ということでもない。

いろいろ考えているうちに、それは、PCオーディオになって聴きくらべが簡単になったからだという気がしてきた。

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以前 Windows Vista化する話のときに大騒ぎして書いたとおり、ぼくのオーディオ・プレーヤーはPCである。それはもう何年も前からそうなのだが、プレーヤー・ソフトとして愛用している foobar2000 の Media Library が最近劇的に使いやすくなり、「録音データベース」がより簡単に使えるようになった。

TMD-Title じつはむかし、おなじように録音データベースを扱うソフトウェアを作ったことがある。それなりに手間ヒマをかけ、われながらまあまあのものができたのものの、ドキュメントを用意するのが面倒で(爆)、結局公開せずに終わった。このソフトは外部にデータベースを持つ方式で、演奏の情報だけでなく、コメントも記録することができ、データのリストをシステム手帳など小さいサイズにきれいに印刷できるのがウリだった。その機能は言うまでもなく、店頭でおなじCDの二重買いを防ぐためだ。

これはこれで個人的には充分使えていたのだけれど、やがて時代はかわり、CDはインターネットで――つまり自分の部屋で――買うようになり、一方で楽曲の情報はその楽曲自身がタグ情報として保持することが一般的になった。foobar2000 は、そのタグ情報をデータベース化し、高速で簡単に検索できるようになっている。最初はこの機能をオマケ程度に考えていてロクに活用もしていなかったのだけれど、Version 0.9 以降になってユーザインタフェースが一新され、それにあわせて使い勝手もグンとよくなった(ひょっとしたらぼくが知らなかっただけで、それ以前のバージョンでもおなじように使えていたのかもしれない)。タグ側の形式も、ID3v2でUnicodeが一般化して多言語が扱えるようになり、ひとつのタグに複数の値を書き込むこともできるようになってきた(クラシックの場合、演奏家を記録する場合に必須だ)。

こうしてPC内のデータを整備すると、たとえばバイエルン放送交響楽団の演奏は、とフィルターで入力すると、指揮者やレーベルを超えて、瞬時にこのオーケストラによる録音をリストアップさせることができる。自分でもこれだけ録音を持っていたのかと驚く。あの演奏はこのオーケストラだったのか、と再発見もする。もちろんそのまま演奏もできる。なにか調べたいことがあって検索したいときに、その効果は絶大だ。

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もちろん、PCを使おうがどうしようが、「聴きくらべ」はむかしからクラシック音楽の楽しみのひとつだった。ある楽曲を、さまざまな演奏家が自分なりの解釈をもって演奏する――ぼくのような聴き手は、その楽曲だけでなく、演奏家の個性や新しい解釈を楽しみにもしている。だから新しい録音が出ればついつい買ってしまう。

最近のCDの廉価化が深く関係していると思うけれど、手持ちのCDも飛躍的に増えて、だんだん棚から探し出すのも面倒というかむずかしくなってきた。『レコード芸術』の特集で名曲名盤300のリストをながめていても、その録音を持っているかどうか、記憶が覚束ないありさまだ。

PCに記録してあると、そういうことはあまり悩まなくてもいい。この特集でバッハの平均律クラヴィーア曲集はグールドが第1位だったことにすこし驚き――考えてみればあたりまえの結果なのだろうけれど、自分のなかではリヒテルの演奏が別格で位置していたので――あらためて自分が持っている録音をリストアップしてみると、リヒテル2種、グールド、シフ、グルダの録音が出てきた。グルダの演奏は持っていることも忘れていたし、かつても1回くらいしか聴いていないはずだ。そのグルダは今回の特集では第2位に輝いている。

早速、これらの演奏を mp3 に変換して iPod に入れ、通勤中に1ヶ月以上かけて全員による平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏会をやった。馬鹿げているようだが面白かった。グールドの演奏もグルダの演奏も聴いたのはひさしぶりで、それぞれの演奏について、思うところ・再発見したことはいろいろあったけれど、それはまたべつの話にしよう。

こういうデジタル技術の「軽さ」は、とてもいい。ひとむかしまえだと夢のようだったことができる。『レコード芸術』の「名曲名盤300」の特集は、こういう時代に、ひょっとしたらもっと面白くなってくるのかもしれない(笑)。

 

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2009年5月 6日 (水)

スピーカー・ベースの製作

SpeakerBase リビングのテレビを新しくした――わが家もついにデジタルに対応した――と同時に、テレビ台も新調した。

このテレビ台、数ヶ月かけて家具屋をまわってみたものの、なかなか好みにあうものを見つけられず、結局インターネットでオーダに応じてくれる店を見つけて、そこにお願いすることになった。2月に発注して、届いたのは4月初め(そのあいだ、以前書いたようにとても忙しかったので、「待った」という感覚もほとんどないままに届いた)。作ってもらったテレビ台は、形はよく見かける横幅の広いボード型のものだが、突き板の色や天板の材質、センタースピーカーを置くスペース、収納力といった条件を気にして選んでいたら、オーダメイドになってしまったという感じだった。


横幅を広くしたのは、見た目と収納力を考えてのことだが、その結果いままでスタンドに乗せていたブックシェルフ型のスピーカー、B&W の CDM1SE の場所に悩むことになった。テレビ台の前に出すということも充分考えられたのだが、家族の生活の便などを考えて、テレビ台の両翼に乗せることにした。それで、天板の材質を変えてもらった。標準でハニカムコアのフラッシュ構造のものを使用しているところを、MDFに変えてもらったのだ。本当はウォールナットの集成材にしたかったのだけれど、かなり価格が上がってしまうので断念し、MDF+突き板にして重量をかせぎ、スピーカーを置く土台になるようにした。

ただ、その上にそのまま CDM1SE を置くわけにはいかない。見た目がみっともないし(笑)、高さも足らない。それでスピーカー・ベースを作ることにした。

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モノは冒頭の写真で見ていただいたとおり、簡単なものだ。

大切なポイントのひとつとなる木材には、サザンイエローパインを使った。以前 ALR/Jordan の Note 7 のスピーカー・ベースに使っていたのも、このサザンイエローパインだった。硬度・強度が高く、木製ジェットコースターの構造材にも使用されている。重量もそこそこあり、それでいて安い。どこにでも売っているというほどメジャーではないけれど、ホームセンターでも探せばウッドデッキ用として扱っているところがある。

ぼくもホームセンターでツーバイフォー材のサイズで売られているものを購入した。約2mで700円くらいだった。室内の家具用とか工作用とかそういう扱いではないので、仕上げは決してきれいではない。たいていは節が入っているし、反ったり割れの入っているものも多い。節は見かたによってはそれを楽しむこともできるけれど、反りや割れを修正するとなると大変なので、まずは木を選ぶところが大切だ。

材料を選んだらそれをカットしてもらう。いつも思うが、ホームセンターでのパネルソーによるカットはちょっとリスキーだ。切断面が粗いし、焦げてしまうことも多々ある。またセットのしかたによって寸法の誤差も出る。これは店員さんのモチベーションによるところが大きい。ただ、どうであれ、こういう材料は自分で切るよりはパネルソーで切ってもらったほうが直角を出せるし、寸法面でも今回は誤差はあまり問題にならないので、ホームセンターで切ってもらった――ら、いちばん大切な中央の梁になる部材だけが、なぜか斜めに切れていた(爆)。これは泣けた。いったいどうしたらパネルソーで斜めに切れてしまうのかよくわからないのだが、帰って組み合わせてみると、どう見ても切り口が斜めになっている。まあ、自分の労を惜しんで他人にお願いしたのだからしかたがない、と思いつつ、これはヤスリで修正した。それだけで半日かかった。カンナがけという方法ももちろんあるけれど、ぼくの技術では木口のカンナがけはむずかしい。

ちなみに、ぼくのような素人がきちんと精度良く切ってもらおうと思ったら、東急ハンズがお勧めだ。決して安くはないけれど、精度、品質とも次元がちがう。以前オーディオラックを作ったときには、東急ハンズでお願いして、その仕上がりには感動した。

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l-30塗装のために、目の細かいヤスリで全面を磨く。今回は、紙/布ヤスリだけでなく、NTカッターのドレッサー(中目)を使った。目詰まりせず、力も入れやすい。価格が高いのでコストパフォーマンスとしてどうか、というのは微妙だが、紙/布ヤスリをつぎつぎ使い捨てていくことに比べると、手間も精神的にも楽だし、途中で足らなくなって走らなければならないようなこともない。このドレッサーは中目なので、だいたいこれで表面を整えたあとは、#240~#320くらいの布ヤスリで仕上げる。モノによってはさらに#400とかそれ以上のものも使用する。今回はスピーカー・ベースなので、それほど表面を滑らかにする必要もなかった。

ヤスリがけはその後の仕上げを左右する大切な工程だが、粉まみれになるし、力もいるし、時間のかかるつらい工程でもある。いつも「つぎこそは電動サンダーを買おう」と思う(でも買ってない。次こそは...)。

今回のスピーカー・ベースは小さいものなので、塗装の前に組み上げを行った。全工程中、もっとも簡単な作業だ。現物の寸法を確認して、中心部の梁の位置を決め、水平と直角ができるようにテーブルに簡単な治具を配置して、木工用ボンドで止める。そのままでも実使用上は問題ない強度で接着できるのだが、今回はさらに梁に対して両側から6cmの長い木ネジを入れて補強した。これだけの長さの木ネジになると、さすがに力がいるし、材料の割れも心配なので、あらかじめドリルで下穴をあけておいた。

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最後に、木工でもっとも気を遣う塗装作業となる。過去数えきれないほどの失敗を経て、ぼくの塗装方法はもうパターン化している。オイルステインで着色し、そのあとでクリアラッカーを塗るのだ。この方法だと手軽なわりに、塗りムラなどの失敗が少ない。

事前に、カットであまった端材に塗装して色味を見た。サザンイエローパインはその名のとおり黄味が強く、またあまり吸い込みもよくないので、薄めの発色となる。マホガニーも考えていたのだが赤みが強く出すぎることもあり、結局テレビ台と同系色のウォールナットにした。オイルステインはホームセンターで簡単に手に入る和信ペイントのものを使っている。

オイルステインの塗布は簡単だ。ハケで均一に塗布したあと、ウェスで塗りこむようにしてふき取ればいい。ただしムラが出ないわけではなく、調子に乗って適当にやっていると、濃淡が出てしまうので注意は必要だ。その日はステインの塗布だけにして、ひと晩乾燥させた。

オイルステインは着色剤なので、それだけでは光沢は出ない。出なくてもいい場合はそれで完成だ。それだけで終わらせたものも過去にはいくつかあるけれど、ぼくの場合はすこし光沢感が欲しいので、上からクリアラッカーを塗る。

翌朝そのクリアラッカーの塗布を行った。これも和信の製品で、2倍程度に薄めて、3回塗りを行った。強い光沢感を求めているわけではないので、このくらいがちょうどいい。以前はサンディングシーラーを使用したこともあったけれど、そうすると本当にテカテカになってしまって、結局シーラーは一度しか使用していない。

クリア・ラッカーのいいところは、乾燥が速くて作業効率がいいことだ。これはぼくのようなせっかちな人間にはとてもありがたい。2回目と3回目の塗装のあいだには、平滑化のため簡単に#400の布ヤスリをかけておいた。

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結局、2日程度でスピーカー・ベースは完成した。材料の切り出しがもうすこし正確にできていたら、1日半で終わっていたと思う。

設置してみた感想は――ガタツキもなくスピーカーの下に収まった。見た目も実際も安定している(よかった)。収まってしまえば、そう存在を主張することもなく溶け込んでいる。音は?――まあふつうだ(笑)。

 

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2009年4月26日 (日)

鈴木雅明とBCJのマタイ受難曲@兵庫県立芸術文化センター

BCJ-Bach 先日4月12日、鈴木雅明とBCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン) による、J.S.バッハのマタイ受難曲を聴いてきた。場所は兵庫県立芸術文化センターのKOBELCO大ホール。

この公演の最大の目玉は、マタイ受難曲が「メンデルスゾーン版」だということだろう。メンデルスゾーン版マタイ受難曲については、すでにあちらこちらで書かれているのでここでは詳しくは触れないが、バッハの死後上演されることもなく時代とともに忘れられていたマタイ受難曲を、1829年にメンデルスゾーンがベルリンで復活演奏した。このときメンデルスゾーンはじつに20歳。すなおに「すごい」とうなってしまうのだが、それはいまは関係ない。メンデルスゾーンはこの演奏に際し、当時の聴衆に受け入れられやすいよう、もとのマタイ受難曲に対して、いくつかの改変を施した。約三分の一をカットし、楽器の扱いも当時の事情にあわせて変更た。これをどう捉えるかについてはさまざまな見方があるだろうが、結果として歴史が証明したように、メンデルスゾーンは「意気盛んな若者」というだけでは終わらず、歴史に名を残す人物となった。だからマタイ受難曲を改変する資格があるとかそういうことは言えないが、すくなくとも、後世のひとたちが「聴いてみよう」という楽曲となったのはたしかだと思う。


今回の公演に先立ち、ステージで簡単な説明をしてくれた鈴木雅明も、つぎのようなことを言っていた――古楽器を使おうがどうしようが、いまの時代に演奏するバッハは、当時とは異質のものである、今回のメンデルスゾーン版は、時代を超えてバッハの演奏を行っていくことについての、メンデルスゾーンの時代の例として捉えたい、というような。わかりやすい説明で、なるほどと思った。

そして、もちろん今年はメンデルスゾーン・イヤー(誕生100年)である。今回の演奏はその記念の意味も強いのだろう。演奏に先立ちメンデルスゾーン版について簡単に解説してくれた鈴木雅明も、「来年からはやりません」とさらっと明言していた。

その「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲。率直に言って、カットされていることはぼくにはあまり問題にはならなかった。というか、マタイ受難曲と言えば3時間ちかくかかるから、これを聴きに出かけていくというのは、正直それなりの覚悟がいる。それが約三分の一カットされ、2時間前後とわかっていたのは、
多少なりとも気持ちを楽にしたのは事実だ。そういう気持ちを抱くことが正しいのかどうかは、わからないけれど。実際の演奏で、もっとも違和感を感じたのは通奏低音だった。通奏低音は通常はオルガンやチェンバロで演奏される。ぼくが聴きなじんだ鈴木雅明とBCJによる1999年の「マタイ受難曲」では、オルガンが使われている。今回の「メンデルスゾーン版」では、その通奏低音にチェロが使われている。最初の説明を聴いたとき、ひとつの楽器が変更になっているんだな、くらいにしか理解していなかったのだけれど、冒頭の合唱が終わって福音史家のレチタティーボに入った瞬間にハッとした。清廉なオルガンの音色のかわりに、チェロがブン!と鳴ったからだ。

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さて、これだけ「メンデルスゾーン版」について書いておきながら、じつは今回は「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲のために出かけたわけではなかった。
いやもちろん、聴いたのは「メンデルスゾーン版」のマタイ受難曲なのだが、ぼくの目的はそれではなくて、BCJと鈴木雅明の演奏、そのマタイ受難曲を聴きに行ったのだ。

以前、このコンビによるバッハのロ短調ミサの録音について書いた。期待が大きすぎたこともあって、あまりいいようには書かなかった。ほかの方のブログを参考に読んでみると、誰もがその実演に接して絶賛に近いコメントをされていた。ぼくはその演奏をCDだけで聴いて、薄いとか偉そうなことを書いた。書いたことは個人的な率直な感想だからべつに悔やんではないけれど、ふだんから愛聴しているBCJと鈴木雅明の演奏について、そういう印象で書くことになったのは残念だった。いちどは実演を聴きに行かないといけないな、と思っていた。

先日、おなじコンビでヘンデルのメサイアの演奏会があった。これはこれでチャンスだったのだけれど、メサイアの全曲を聴きとおせる自信がなく(爆)、引いてしまった。そこへ聴きなじんだマタイ受難曲演奏会の告知があり、女房に頼んで12月の発売日にチケットを予約してもらった。「メンデルスゾーン版」だということはチラシからわかっていたけれど、そう大きくはちがわない(いくつかの楽器とカット....)だろうことは確認できたし、それよりもなによりも、BCJと鈴木雅明によるマタイ受難曲を聴けるという期待のほうが大きかった。

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結果はといえば、総じて満足して帰ってきた。ホールの工夫で、舞台両脇に字幕が出るようになっていて、ぼくははじめて、日本語でのストーリーを追いながらマタイ受難曲を聴いた。ひょっとしたら――三分の一カットされているバージョンだとはいえ――そのことが、ぼくにとってはいちばん大きな意味があったかもしれない。CDでも邦盤を買って、ブックレットを開きながら対峙すればおなじことができるのだが、無精者のぼくはこれまでそうして聴いたことはなかったし、たぶんこれからもそうだという気がする。ミサ曲とはちがって、受難曲はストーリーをもったドラマである。ただ音楽を聴いているだけ、という状況にくらべて、そのドラマ性はあきらかに高まる。処刑に向かう終盤には、思わず知らず固唾を呑んで見守った。

ソプラノのレイチェル・ニコルズは声が美しいうえに張りと声量があり、すばらしかった。鈴木雅明の指揮は、想像していたよりもはるかに精力的だった。だから音楽全体に張りつめた緊張感が出るのだろう、と思った。

またオーケストラと合唱の編成が左右に2パートに分かれていて、演じ分けているということをはじめて視覚的に理解した。CDを聴いているとき、その定位から「鳴り分け」があることは理解していたものの、それは単に声部や楽器による位置配置だと漠然と思っていた。ここまで明確に役割を分けているとは知らなかった(ぼくのオーディオや耳の定位の曖昧さがバレる話かも(笑))。

で、肝心の音楽そのものは――冒頭の合唱部分、息を詰めて「あの」響きを待ったのだが――残念ながら期待していた以上のものではなかったのだ。それは「メンデルスゾーン版」だから、ということとは関係なかったと思う。BCJはこの前日に千葉県の佐倉で、前々日には東京オペラシティで、それぞれコンサートを開いている。この日の兵庫県立芸術文化センターでの公演は3日目で、直前には関東から関西への移動も含まれている。なにが言いたいのかといえば、なぜか音の縦の線がそろっていないように感じたのだ。疲れていたのかも――プロの音楽集団に対して失礼な言い草だけれど、とっさにそう感じてしまった。

それはあるいは、このホールのせいだったのかもしれない。

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兵庫県立芸術文化センターは、2005年に開館した「響きの美しさ」を誇るホールである。阪神大震災からの復興のシンボルであり、個人的な話だが自分の住んでいる地域からほど近いところに、こうした立派な施設と音楽・芸術の活動拠点があることはとても心強く、さまざまな意味で思い入れがある。

大ホール――先日命名権のスポンサーがついて、KOBELCO大ホールと呼ばれるようになった――は4階席まであり、2001人を収容する。内部は見事に天然木で覆われていて、あまり吸音性の素材は見えないが、反射性の無垢板を複雑に組みあわせることで最適な残響が得られるようになっているのだろう。

この大ホールで、これまで何回かの演奏会を聴いた。今回のBCJのコンサートのつい1週間前にも、佐渡裕が指揮する兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の定期演奏会を聴いたばかりだ。去年ベルリン・フィルとラトルが来日した際にも、ぼくは行かなかったけれど、関西公演の一日はこのホールで行われた。つぎのウィーン・フィルの関西公演でも、このホールが使われるようだ。

すべて天然木である外観の美しさと風評から、響きの美しいホールという印象を受けるのだけれど、数回コンサートに通ううちに、どうもそうでもないような気がしはじめていたところだった。ぼくはいつも1階席の中ほどで聴いている。そこでは、ヴァイオリンの高域がすこし混濁して聴こえ、結果として弦が弱いように聴こえる。ふだん、このセンター専属のオケである兵庫県立芸術文化センター管弦楽団の演奏会を聴くことが多いから、そういう音のオケなのだろうと思っていた。あるとき、チケットを購入したときに目ぼしい席が空いていなくて、3階席で聴いた。そのときには、弱さを感じさせることはなく、力強く豊穣な響きの音楽が堪能できた。それは、そのときの指揮者の実力だと思った。

でもやっぱり、それだけではないのかもしれない。ひょっとしたら、このホールは座席によってだいぶ音の印象が異なるのかもしれない――BCJの演奏を聴きながら、そう思った。このときも1階席の中ほどだった。どうも響きがくすみ、線が乱れ気味に聴こえる。BCJの透明感と張り詰めた力感のある音は、なかなか聴こえてこなかった。それで、上に書いたように、とっさに「疲れているのかな」などと思ったのだ。

つぎの演奏会の予定、というのは決めていないけれど、いちど2階席に挑戦してみたほうがいいのかもしれない。

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でも、そんな音の話は些細なことであって、上にも書いたように、ぼくは充分に音楽に没入することができ、満足して帰ってきた。次の受難節の季節、たぶんまたマタイ受難曲が演奏されるだろうと期待している。来年の復活祭は4月4日。3月から4月に入ったばかり、というのは休日であっても休めるかどうか微妙な時期だが、機会があったら是非また聴きに行きたい。つぎはふつうのマタイだったらいいけど。

 

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2009年3月29日 (日)

年度末の狂騒と後期のベートーヴェン

Mark 前回「プライヴェートが忙しい」とふざけたことを書いていたら、年が明けて仕事のほうで大きなクレームが発生して、ひさしぶりに大変な日々を過ごすことになってしまった。製造に携わる方なら誰しも経験があると思うが、こういう状況になると、カチリとスイッチが切り替わり、平穏な日々には考えられないような生活に突入する。こんなに働いたのは久しぶりだし、怒り心頭の顧客との毎日の応対は精神的にも堪えたが、一方で管理者としてではなくリーダとして若い連中と現場で格闘する感覚も久しぶりで、苦しいなかにもときどきはいいこともあった。


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これを書いている現在――大きな勘ちがいをしていなければ(爆)――なんとかピークはすぎた。つい1、2週間まえまでは、収束の日がくるなんてとても信じられなかったので、いまでも半信半疑の気持ちは残っている。いつなんどき携帯電話が鳴って、あらたな問題の発生が告げられるかもしれない――なんて思いはじめると心臓が痛む思いだが、そんな気持ちを抱えながらも、今週末は、この狂騒に入ってからはじめての土日の連休を取らせてもらった。

家族と遊びに出たいところだったが体力が持ちそうにないので、すこし買い物につきあい、女房にまかせきりだった水槽の手入れをして、それから、これもまたひさしぶりにオーディオの電源も入れた。いまは802Dからはモーツァルトの弦楽四重奏曲(ハーゲン弦楽四重奏団)が流れている。この心境のせいか、さっきから小林秀雄の「疾走するかなしみ」という表現が脳裏から離れないので、そのうちべつの楽曲に変えるかもしれない(笑)。

もちろん、こうして音楽を聴くのもひさしぶりだ。精神的にも体力的にも「いっぱいいっぱい」の生活をしていると、通勤のお供だったiPodすら聴けなくなってしまっていた。聴きたい欲求はあるのだが、行きも帰りも蒸気機関のように頭が動いていると、音楽がうるさく感じられてしまうのだ。

そんな状況で、それでもどうしてもなにか音楽を聴きたいと思ったとき、いろいろ試したあげく、唯一受け入れられそうに感じたのは、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲だった。

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ABQ-Beethoven2こういうとき、バッハやモーツァルトではなく、シューベルトでもなくて、あるいはノラ・ジョーンズの癒し系の歌声でもなくて、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲だというのは、自分でも意外だった。クラシックに詳しい方なら、これだけ話しただけで「やっぱり」と言われるのかもしれないが、ぼくははじめて、自分に引き寄せるような気持ちでベートーヴェンの音楽を聴いたような気がする。

ベートーヴェンの音楽といえば――安直に言えば、活力であり構造美であり「苦悩から歓喜へ」であり、疲れているときの景気づけであればともかく、本当に疲弊してしまったときに聴くような音楽ではないような気がする。おそらくその印象は、中期までのベートーヴェンであればたしかにその通りだ。後期――というのは1817年以降、ベートーヴェン自身の年齢で言えば四十代後半から五十代なかばにかけて――の音楽は、1曲をのぞいて、慣れないひとにはとっつきにくい世界に行ってしまっている。例外の1曲というのは、いわゆる交響曲第9番ニ短調「合唱つき」のことで、この曲は、いうまでもなく有名だ。

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ここで、後期のベートーヴェンの世界観について語ろうなんてぼくには無理なハナシだし、個人の仕事の苦境をベートーヴェンの苦悩になぞらえるような、感傷的な話で辟易させるつもりもない。ただ、これまでふつうに楽曲として聴いてきたものが――それまでも知識として時代背景、ベートーヴェンの置かれた状況、精神状態に思いをめぐらせることはあったとしても――今回のiPodから聴こえてくる音楽には、これまでとはちがう側面が垣間見えるようになった。

ベートーヴェンの後期の楽曲は、一聴すると、平板に聴こえる。またそれ故に捉えどころがなく、ともすればBGMとして流れ去ってしまう。そんな不遜な態度で接しているのはこの世でぼくだけだったのかもしれないけれど、かといって真面目に対峙して聴こうとすると、こんどは逆に精神的な厳格さを感じて、息苦しさのようなものを覚える。要するに、あまり音楽に近づけず、遠まきに外側から眺めて満足していたようなものだった。

いまでもそれはあまり変わらないのだとは思う。急にすべてが理解できたとか、そんなおめでたい話はない。ただひとつひとつのフレーズが、「言葉」のように聴こえるようになってきて、そのフレーズを通じてじっと音楽の線を追っていくと、なにかひとつになったように感じられる。むかし、芸術とは心象を他人に伝えるための手段である、と言ったことがある。じっと聴いていると、蒙昧としていながらも、その「心象」が伝わってくるような気がする。音楽の抽象性が損なわれたとか、表題性を持ったとかそういう意味ではなく、抽象は抽象のまま、厳しさも優しさも、ある種の諦観や孤独感も、そっと丁寧に心象としてこちらのなかに伝わってくる。それが疲れた気持ちにじんわりと効いてくる。

それは、ベートーヴェンの中期の楽曲や、他の作曲家からはなかなか得られない印象だった。後期のベートーヴェンについて、知識や感覚として知っていたことを、あらためて身体全体で感じられたような気がした。

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それ以外のこと――というのは、たとえばなにかに対する積極的な興味とか物欲とか、そういったものは、この狂騒を通じてすっかり影を潜めてしまった。つまり、休日もただ呆然と無気力に過ごす「くたびれたおっさん」と化してしまっている。しばらくリハビリをする必要がありそうだ。

 

 

Annotations :
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲全集 : Beethoven/The Complete String Quartets
Alban Berg Quartett (ABQ)
EMI Classics: 5 73606 2 
1978年~83年録音の不朽の名作。しかも7枚組で3,521円と破格値。結局、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲といえば、こればっかり聴いている。
Link : HMVジャパン
 

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2008年12月30日 (火)

1週間だけの引っ越しと電源200V化

200V 秋の運動会から今日まで、とても忙しかった。去年は去年で思うところがあり、一念奮起して担当者の仕事に戻って腕が痛くなるほどコーディングをして、要するに仕事で忙しかったのだが、今年はプライヴェートな生活が忙しかった。

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ことの発端は、そろそろ築10年になろうかというウチのマンションで、いまさらながら不具合が発見されたことにある。

いったい誰がどうやって発見したのかいまもってよくわからないのだが、外壁と内壁(石膏ボード)のあいだの吹きつけ発泡式の断熱材が規定の厚さに達していなかったのだという。調べてもらったらわが家もそれに該当していた。20ミリのはずが17ミリだった、とかいうレベルで、たいして断熱性能は変わらないといいつつも、不具合にはちがいないので、無償でやり直すという。「やり直す」と簡単に言っても、約1週間の工事期間中は家を空ける必要があり、家具は業者が移動するものの、その中身は住人が空にしておかなければならない。そのあいだの住居は、業者が借り上げたマンション内の空き住居を使用することになるので、その住居に生活に必要なモノも自分で移動させなければならない。


うちのマンションは数棟から成り、大規模マンションといえる規模だと思うが、ほとんどの住居がこの不具合に該当したということもあり、工事は1年以上かけて行われている。工事のあと業者が無償で壁紙をすべて新しいものに張り替えるとあって、マンション全体がにわか「壁紙バブル」の様相を呈している。10年ほど経過して、そろそろくたびれてきたかも、というころになって、無償で壁紙を新しくしてくれるというのだから、それは考えかたによっては願ってもない話だ。

わが家はといえば、このあいだ横浜からもどって、数十万円かけて内装をやり直したばかり(爆)。いまさら内装が新しくなったって、べつにそううれしいわけでもない。数ミリという断熱材の差と、「家じゅうのものをすべて箱詰めして1週間だけ引っ越す」という途方もない手間を天秤にかけて、くよくよと悩んだ。ぼくは――もちろん――咄嗟に、B&Wの802Dの移動のことを心配した。そしてうんざりする量の本とCD。それを収納する大きな書棚。天井のQRDモドキ。水槽....。

結局、半年以上前に工事を申し込んで、この年末にようやく順番が巡ってきた。

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工事と引っ越しそのものは、予想どおり大変だった(笑)。年末ということで、引っ越し以外にもさまざまなことが重なったということもある。あと十年か百年くらいしたら笑って話せるかもしれないけれど、いまはまだそのインパクトが残っていて、とてもそんな気になれない。夜中の0時すぎ、水槽とその配管やバケツを台車に乗せて移動させる姿は、異様すぎて誰にも見られたくないものだった。

いちばん心配した、スパイクつきで片側80kgのスピーカー B&W 802Dは、なんとか人も家も自分自身も傷つけることなく、べつの部屋に移動して、1週間後にもどってきた。持ちあげて扉をくぐろうとするときに、うっかりダイヤモンド製の頭(笑)を枠にぶつけそうになって息を呑んだりはした。GOLDMUND のアンプとCHORDのDAC64は、つまらない事故を避けるために、あらかじめ自分で元箱に詰めておいた。

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さて、じつはこの機に乗じて、オーディオ用の電源を200Vにした。まえに、オーディオ用には専用のブレーカをつけている、という話をした。だから、べつにやろうと思えばいつでもやれる話だったのだが、工事のためスピーカーを移動させたすきに、壁コンセントを100Vのものから200Vに交換しやすくなったこと、それから、たまたま機会があってGOLDMUND MIMESIS 18.4MEの200V対応への変更方法を教えてもらったこと、などが重なって、この機会にやることにしたのだ。

ちなみに、おなじGOLDMUNDのプリアンプMIMESIS 27MEは、背面のスイッチで対応電圧を簡単に切り替えられるようになっている。それと、CHORDのDAC64 Mk2はCHORDの誇るスイッチング電源で、100Vから240Vまで自動追従だ。だから、ぼくの200V環境は、トランスで100Vや115Vに降圧して使うのではなく、プリアンプ、パワーアンプ、DACの3大機器に直接入力して使うことになる。

200Vという電圧の意味は、正直微妙だ。ただ、100Vという電圧で使用するよりも、200Vでより少ない電流で使用するほうが力感が得られやすいような気がすること、それから、GOLDMUNDの本国のマニュアルではなぜか、110V設定の場合は 105Vから120V、220V設定の場合は 200Vから240V、で使用するようにと書かれていて、100Vが含まれていないことなどから、100V駆動よりは200V駆動のほうが良いような気がしたのだ。200V化したいという気持ちは強いものの、動機を筋の通った理由で説明しようとすれば、所詮そんな程度の話になってしまう(笑)。前回電源トランスのときにも書いたように、そもそも電源ケーブルをかえて音がかわる、という基本中の基本の話からほとんどすべて、理屈を問えば不思議としか言いようのない話ばかりだから、たいしてコストのかからない 200V化も、その一環として楽しめればそれでいい、というふうに考えたほうがよさそうだ。

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小さい工事でもやってくれる近所の電気屋さんにお願いして、ブレーカーを切り替えてもらった。工事費5千円。事実上出張費だけということのようだ。周囲で壁紙工事が行われているなか、ついでに分電盤もきれいに掃除して、ほかのブレーカーのネジの増し締めをしていってくれた。壁コンセントも、100V対応のPS AUDIOのPOWER PORT――そんなに思い入れのある品物ではない――から、あらかじめ用意しておいた明工社のME2830になった。電源ケーブル側は、おなじ明工社のME7021をプラグとして装着した。とくにプラグについては、もうすこししっかりしたものが欲しかったのだけれど、プラグ形状とメッキの関係から、すぐに手に入りそうなのはこれくらいだった。壁コンとプラグは、いずれもインターネットの電材屋さんから入手した。

10分程度の工事が終わり、電源環境は整ったのだが音は出ない。なぜならぼくの部屋はまだ空っぽなのだ。やがて大きな家具が設置され、802Dももとの場所に収まった。これからの計画はこうだ――家具を据えつけたあと、本やCDをもどすまえに、オーディオ機器の結線と復帰をさきにやって、音出しまでやってしまう。中身のない家具は簡単に動かせるから、場合によってはもうすこしじっくりとセッティングを追い込むこともできるかも。

でもそれは、浅はかな考えだった。

別室にしまってあったアンプを開梱し、さらにはPCも設置した。数時間かけてすべての結線を済ませ、念のためもういちどテスターで電圧設定を確認して、多少緊張しながら電源を入れた。音は出た。それは聴きなれない、残響の強い音だった。

これを読んでおられる貴方と同様、ぼくも聴いた瞬間、なにが起こっているのかすぐに理解できた。空っぽの本棚が響きを増やし、音をぼやけさせているのだ。スピーカーのあいだに空っぽの本棚があると、定位がかなり不明確になってしまう、という当然の事実を、ぼくはこのときはじめて体感した。

この音では、じっくりと追い込むなんて、とても無理な相談だった。結局、その場ではできる範囲での確認と微調整をして、早々に本とCDを運び込むことにした。段ボール箱を積みあげた部屋にいる女房が荷物をとりだし、子供たちにわたす。子供たちは、その部屋とぼくの部屋とのあいだをせっせと往復して荷物を運ぶ。小学生以下だから期待できる献身と熱意。ぼくはそれを受けとって本棚に納める――そんなバケツリレー的作業は休憩含めてさらに数時間かかり、低域の周波数特性を改善してくれる天井のQRDモドキももう一度接着して、復旧したのは次の週末――この週末――のことだった。

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1週間の引っ越しで、結局、改善できたのは細かい部分だけだった。本棚の側面につけている吸音材をきちんと固定できるようにして、耐震補強をして、以前から気になっていた位置も数cm程度ずらした。絵の位置も壁紙もかえて、すこし気分もかわった。じつのところ、そんな細かい話よりも、家全体として事故や破損、改悪点もなく無事に終わったことの安堵のほうが大きく、改善など望む心境ではなかった。

そんな状況での小さなイベント――200V化の効果はといえば、正直、期待していたほど大きなものではなかった。200V化にあわせて、アイソレーション・トランスをはずしたり、電源ケーブルがかわったり、と、周辺の変化もあったりして、どれがどの効果なのか、というのは一概にはつかみにくい。

Haitink-CSO-Mahler0 ただ劇的な変化がなかったとはいえ、力感とそれに伴う解像度はまちがいなく上がったようだ。マーラーの交響曲第3番、以前紹介したハイティンク指揮シカゴ交響楽団の演奏で聴いてみた。冒頭のファンファーレのあと、静寂のなかで小さくバスドラムの鼓動が響く。このバスドラムの音が、はっきりと明確に聴きとれる。強奏部分でも、以前より余裕で鳴っているように聴こえる。

これがプラシーヴォかどうか、というのは自分ではなかなかわからない。いずれにしても、機器たちは200Vでまあまあ快調に動作しているようだ。これから鳴らしこんでいくにつれ、さらに良くなっていくだろう、という期待は充分に感じさせてくれる。

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2008年11月 3日 (月)

マウリツィオ・ポリーニの2008年のショパン

PolliniChopin1 ポリーニの新譜が出た、と聞いて心躍らせるひとが、いまはどれくらいいるのだろう。そういうぼくも、楽しみにはするが、強い期待感とか、わくわく感というのは最近はすこし薄らいできた。逆に言えば、すこし前までは、ポリーニの新譜が出るということは、それはとても特別なことで、またひとつ「演奏の基準」が生まれる――みたいな、大げさに聴こえるだろうけれど、ほんとうにそんな居住まいを正すような気持ちになったものだ。


ポリーニの新譜なんて、べつに特別視するようなことなんてなにもない、という向きも当然あると思う。でも、ぼくはずっと、ポリーニのピアノ録音を「原器」のように捉えてきた。あたりまえだが、彼のピアノは決して機械的な正確さで音符を追っただけ、というようなものではない。冷徹で抑制的な興奮・感情が絶えず音楽の底辺に流れていて、そこにがっちりとした構築力、牽引力、そして完全にコントロールされた呼吸感があって、音楽の躍動を的確に伝えてくれる。それは感傷的な演奏とは対極にあるけれど、「音の羅列で表現された作曲家の心象」を、殺したり捻じまげたりすることなく、むしろ的確に伝えてくれるように思うのだ。はじめて知る楽曲があったとしたら、ぼくはまずポリーニで聴きたい、といつも思ってきた。それがぼくにとっての原器になって、そのあとで、さまざまな演奏家の表現を図っていく。

たとえば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、90年代にアバドとベルリン・フィルとの組み合わせで録音したもの――これは収録上の手ちがいか、あるいはホールの音響的限界のせいか、なにかくすんだような大変残念な録音になってしまっている――では、とてもよく聴きなじんだ楽曲のはずなのに、この録音で、はじめて聴こえてきた音符の響きがある。それはポリーニのピアノがトリルひとつとっても弛緩がなく、1音1音が完全に制御されてきちんとした音として聴こえてくる結果なのだろう、と思う。

いまさら紹介するまでもないが、マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)は、1942年生まれのイタリア、ミラノ出身のピアニストだ。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝。当時審査員長だったアルトゥーロ・ルービンシュタインが「われわれの誰よりもうまい」と言った、という話は有名だ。そして、その直後から10年間、ポリーニは国際舞台から姿を消す。さらに研鑽を積むためだった、と言われている。1971年、DGからアルバムの発売を開始、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンといった古典派、ロマン派の音楽から、現代音楽まで幅広いレパートリーを録音しているが、なんでもやみくもに弾くということはなく、むしろ限定的に曲を選んで録音している印象だ。

最近のポリーニの録音は、1980年代から1990年代に見せた、まるで修行僧のような趣きからはすこしはなれて、ややリラックスした、肩の力が抜けたような印象になってきた。2005年のショパンのノクターン(夜想曲)全集の発表は、これまでのポリーニの選曲からはすこしちがうものを感じさせた。そのすこし前、1990年代にリリースしていたショパンといえば、スケルツォ集にしても、バラード集にしても、まだ硬派の延長にあるように思えたし、実際に演奏もそうだった。でも、夜想曲?――いったいどんな音楽になっているのか、これはおもしろそうだと思って、CDがリリースされるのを楽しみに待った記憶がある。そしてその演奏は、たしかにそれまでのポリーニの印象とはすこしちがうものだった。

PolliniChopin2夜想曲というのは、その曲想からおのずと感傷的に傾く。そしてポリーニの演奏にも、たしかにその感傷が感じられた。でも、同時にポリーニならではの鉄の意志というか、いくぶん覚めたようなところもあって、なんとなくちぐはぐな感じもした。手許にあったアシュケナージの夜想曲と聴きくらべてみると、アシュケナージはもちろん感傷性が全面に出ているし、録音も残響がたっぷりとして音像が柔らかく、その感傷性をさらに前面に押し出している。正直、こうした演出は何回も聴くにはつらい感じだし、実際にそう何回も聴いた記憶がない。その点、ポリーニの演奏は抑制が効いていて、つらい感じはない。楽しみにしていたこともあって、これは愛聴盤になるかも――と思ったが、やはり何回も聴きたいと思うようなことはなかった。ひょっとしたら、ぼくは夜想曲そのものが苦手なのかもしれない。

そのあとに、モーツァルト(2006/2008年)とベートーヴェン(2007年)が登場した。ベートーヴェンは初期のピアノ・ソナタ集で、1970年代から途方もなく長い時間をかけて行われている全曲録音の終焉に向けての一部、という位置づけに見えた。そしてモーツァルトはVPOをみずから弾き振りしてのピアノ協奏曲集――ポリーニは若いころに、やはりピアノ協奏曲を一部録音している。でも、いまになってもう一度モーツァルトを――しかも弾き振りで――手がけることになるとは、多くのひとが思っていなかったにちがいない。

このモーツァルトとベートーヴェンにはここでは詳しくは触れないが、ひとつだけ気になったことがあった。モーツァルトを聴いていて、上で書いたような、ポリーニらしい「冷徹で抑制的な興奮、がっちりとした構築力、牽引力」を感じると同時に、すこし、以前には微塵も感じられなかった「急ぎ感」があるように思った。磐石のテンポ感がわずかに揺らいで、せっかちになってきているように感じられた。

PolliniChopin4 そうして先日、また新しい録音が発売された。それは、ふたたびショパンだった。しかもこれまでは、スケルツォならスケルツォ、バラードならバラードで、まとまった楽曲を集成して録音してきたのに、今回はまるでひと晩のコンサートのように、バラード、マズルカ(ポーランドの舞曲)、ワルツ、即興曲、そしてピアノソナタの第2番を集めた構成になっている。やっぱりなにかが変わっている。2005年の夜想曲のあたりからなんとなく感じさせはじめたポリーニの変化が、いよいよ具体化していくような感じだった。

それは考えてみれば当然のことなのだろう。カルロス・クライバーが永遠に存在するわけではなかったのと同様、ピアノ演奏の原器であり原器ゆえに不変、と思っていたポリーニも、すでに60歳代後半だ。ぼくは自分ではきちんとは弾けないから想像するしかないのだけれど、ピアノの演奏は物理的な体力を要求する。近年、高齢になるまで活躍したピアニストのひとりにウラディーミル・ホロヴィッツがいるが、このひとの80歳代の演奏を見聴きすると、まるでピアノの鍵盤には重さなどないかのように、指が羽のように軽やかに動いて音楽が響く。スカルラッティのピアニッシモも、ショパンのフォルテも、すべてその調子でまるで魔法のようだが、ポロネーズなどを聴いていると、さすがに音楽はときどき覚束なくなることがある。

そういう演奏をしたホロヴィッツに比べれば、もちろんいまのポリーニにはまだまだ時間がある。ポリーニとホロヴィッツでは、音楽、ピアノに対する姿勢がまるでちがうから、それを比べるわけにもいかないだろうが、ポリーニの演奏も、探求の道をいく歩調をすこしゆるめて、より優しく、より個人的に音楽を聴かせてくれるようになってきたと思う。

結果として、このポリーニのショパン集は、ぼくはとても気に入った。勝手なことを言えば、ピアノソナタが第2番ではなく第3番であってくれたらもっとよかったのだが、それは些細な話だ。「原器」たるポリーニのピアノは健在だが、ここではすこしやわらかく、リラックスしているように聴こえる。そして、1枚のCDにさまざまな楽曲が含まれているから、表情がつぎつぎと変わって、ぼくのような素人でも飽きさせない。とくにマズルカとワルツは、2005年のノクターンと同様に、感傷的になりすぎず、かといって単調でもなく、ポリーニならではの「抑制的な興奮・感情」が込められていて、とてもすばらしい。風雲児の到達した枯れた世界、などというととても陳腐で恥ずかしいが、そういうように思ってみたくもなる。

これから、ポリーニがどういう世界に向かっていくのか。だれもが望むように、ベートーヴェンの全集を完成させてほしいけれど、それは仕事の完結性、記念碑としての意味であって、未録音のベートーヴェンのソナタのうち、どうしてもポリーニで聴いておきたいという曲は、正直なところぼくにはもうない。聴きたいとしたら、かつて若いころに録音した後期のピアノソナタ群だ。いっそのこと、これから、ふたたび全曲録音してくれないだろうか――なんて、いまのポリーニを見ていると、そんなことを望みたくなってくる。それから、シューベルトのピアノ曲も、もういちどぜひやってほしい。

 

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2008年10月13日 (月)

番外編 - 熱帯魚

Tetra&Coridoras 夏もひと段落したかなというこの季節、連発の運動会やらなにやらで週末はあわただしく過ごすことになる。さらに今年は、ひさしぶりにコンサートにも出かけたりして、週末はすべて予約済みという状態だった。そんななか、タイトルにもあるように、熱帯魚水槽の立ち上げを行った。

ことの発端は夏の盛りのお盆直前。そのころに上の娘の誕生日があるので、今年のプレゼントはなにがいい? と訊くと、驚いたことに「家族みんなでプールに行けたらそれでいい」と言う。マジで?


わが子ながら泣かせる話である。父親の仕事が忙しいということであきらめの境地なのか、あるいはじつは貧乏だとバレているのか――とにかく、本当にそれでいいのかと念押ししても、いい、とキッパリ言う。よしわかったと約束した。それは余裕の計画のはずだった。日程も2、3日の候補日があった。ところが先日このブログでご報告したとおり、今年の夏はぼくの怪我も含めて家族のなかでアクシデントがつづき、結局このささやかな約束すら果たすことができなかった。

娘もがっかりしただろうが約束を果たせない父親としてもがっくりである。それでしばらくたったころ、約束を果たせなかったことをもういちど話して、かわりになにか欲しいものはないか、と訊いた。

そうしたら、「じつは熱帯魚を飼いたいねん」という話が出てきた。そういえば以前もそんなことを言っていた。でもぼくは、まったくとりあっていなかった。子供に世話ができるとも思えなかったし、だいたい留守にする期間はどうするのか。魚を飼うなんて、ぼく自身は小学校時代以来、脳裏をかすめたこともないので、真面目に考えてあげることもなかった。しかし、娘は現役小学生である。ほんとうは犬を飼いたいと目論んでいるらしいが、うちのマンションは大きなペットは禁止されている。それで、いままではカブトムシやスズムシを育ててきた。それを熱帯魚にステージアップさせたい、ということらしい。「ステージアップ」という表現は妥当ではないかもしれないけれど、親としても子供が生き物と接し、さまざまなことを学んでくれることを思うと、むやみに否定するものでもない。ただ、どこまで真剣に考えているのかわかったものではなかったし、たんなる思いつきのような気もした。どこまで訴えてくるのかな――いつもなら、そう見守っているところなのだが、今回は夏のプールの約束――たんなる約束ではなくて誕生日のプレゼントのはずだった――を果たせなかった弱みがあった。

留守宅対策をちょっと調べてみると、いまはいろいろ器機が充実していて、自動給餌器なるものまで売られているので、なんとかなるようだ(それがあまい考えだったということは、そのあとしばらくしてわかる)。

それで、娘に念押しして、数軒の店をまわって、最終的に大型のペットショップで、テトラ社の30センチ水槽のスターターキットを買った。

スターターキットには水槽、フタ、ライト、上掛け式フィルタがついていた。そこにサーモスタット付ヒーターと温度計を買い足した。はじめて知る熱帯魚の世界は、子供のころに金魚を飼い、長続きしなかった経験しかないぼくと女房にとっては、目新しいことだらけだった。「水槽と魚を同時に買ってはいけない」ということくらいは、さすがに Google での事前調査で知っていた。でもバクテリアが必要ということは知らなくて、店で初期立ち上げ用のバクテリアセットを薦められたときには、怪訝な気持ちになった。底床はどれでもいい、と言われて女房が金魚用の大きめの砂利を選んだ。魚を買うことは思いとどまったけれど、水草は――気軽に――安い3種類を同時に買った。

熱帯魚に詳しい方はたくさんおられるし、ここを熱帯魚ブログにしようというつもりもないので、あまり詳しいことは書かないが、たくさんまちがいを冒した。バクテリアは賛否両論あるようだが、まあ買ってよかったと思っている。金魚用の砂利は失敗だった。量がまったく足らないし、砂利といっても小石ほどの大きさで、水草には向かないようだった。その水草も、買ってきた束のまま、なにも考えずに突っこんだ結果、1週間でほとんどが枯れて溶けてしまった。ショックだった。このあと、肝心の魚よりも水草で苦労することになる。

魚は、1週間後に、パイロットフィッシュとしてブラックネオン・テトラを4匹購入した。この1週間というのは、初期導入したバクテリアが繁殖するのを待つ時間だ。1ヵ月以上たったいま、4匹のテトラのうち3匹は元気いっぱいに泳いでいる。1匹は、小さいテトラのなかでもとくに小さく、ほかのテトラに追いかけまわされ、水草のかげから出てこなくなった。えさを目のまえにやってもほとんど食べない。見るからに痩せ衰えていくのに、どうしたらいいのかわからず、最後には水草の葉の上に身を横たえて呼吸するのがせいいっぱいになってしまった。薬浴をさせるといいのかもしれなかったが、予備の水槽やエアレーションの設備など持っているはずもなかった。小さい金網を水槽に半分だけ沈め、そのなかに入れて隔離はしたけれど、翌朝には死んでいた。いわゆる★になったということだ。夜中、衰弱していく姿を見ながらもどうにもできず、そのときには気が滅入った。

いまはネオンテトラのほかに、コリドラス、プラティがそれぞれ2匹ずつ泳いでいる。底床は大磯砂にしたけれど、水質があまりにアルカリ性に傾くので、コリドラスを増やすことも考えて、さらに田砂に変えようとしている。そして、底床を変える機会に水槽も40センチのものに変えるつもりだ。初心者だからといって遠慮して小さな水槽にするのはまちがいだと、あとになって知ったからだ。水量がすくないと、水質を安定させるのがむずかしいそうだ。フィルタも水草の二酸化炭素に配慮して、外部式にした。7匹の魚を入れたまま(一時的には退避させるにせよ)底床とフィルタをすべて入れ替える自信がなく、いろいろ考えた結果、30センチ水槽は生かしたまま、その飼育水を使って、べつに40センチ水槽を立ち上げて切り替えることにした。世間では45センチとか60センチの水槽が一般的なのだけれど、わが家の設置場所と重量の関係から――考えてみればあたりまえなのだが水槽は信じられないほど重い――40センチにした。水槽は、シンプルできれいなプレコ (PLECO) 社製のものを選んだ。この連休でだいたい立ち上げが終わったので、来週、魚を移す計画だ。

お察しのとおり、結局いちばん盛り上がっているのはぼくだ。だから機器や道具はどんどん重装備になっていく(笑)。女房はオーディオに凝るよりは経済的にマシだということで、ある程度は黙認しているようだ。肝心の子供はといえば、コメンテーター兼エサやり係になっていて、ぼくの行動に多少引いている気配すら感じられる。

今日は水草用の液肥を買ってきた。本当に水草を豊かに育てようとしたら、二酸化炭素(CO2)の強制添加が必要だと聞くけれど、いまはまだそこまではやっていない。設備投資も馬鹿にならないし、消耗品がこれ以上増えるのもためらいを感じさせるものがある。でも――それも時間の問題かもしれない。

 

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2008年9月 7日 (日)

B&W 802D と 部屋の対策 (その3)...天井

B&W-MIC 前回、部屋の話をしたのが去年の10月のことだから、すでに1年ちかくがすぎてしまった。そのあいだ、部屋の対策についてはなにもやっていなかったのかといえば、じつはその通りで、いろいろと考えあぐねているだけで、結局ほとんどなにも手をつけていなかった。

スイープ信号を使ってリスニング・ポジションの周波数特性を計測してみると、ぼくの部屋は 85Hzあたりに落ち込み(ディップ)がある。その周波数はちょうど「低域の音」として厚みを感じさせる部分だから、音楽を聴いていて、低域部分が薄くなってしまうという悩みがあった。これは、スピーカーやそのほかの機器が悪いのではなく、定在波の影響だ。定在波については、Nifty の FAV フォーラムの時代から活躍されている HOTEI さんのサイトに詳しい。


リスニング・ポジションでは聴こえにくくなる85Hzの音も、すこし(1mほど)聴く位置をずらしてみると、大きくようすが変わる。あるいは立ったり座ったりしても、聴こえ方が変わる。こうした聴こえ方の変化も、定在波の特徴なのだろうと思う。

ちなみに、周波数特性は下の図のような感じ。上の赤いライン。低域の85Hzあたりでグンと下がっているのがわかる。

Before Skyline

これを軽減しようと、部屋に本棚を入れてみたり(いや、けっして定在波対策のためだけというわけではないのだけれど)前回のようにクローゼットの扉に吸音材をかぶせてみたり、あれこれ対策を試みたものの、いわれてみればすこし良くなったかも? という程度で、顕著な改善は見られなかった。

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以前の記事にも書いたように、なんとなく天井があやしい、という思いは以前からあった。天井の対策といえばRPG社QRDの Skyline(スカイライン)が定番、ということになるのだが、あの物体を天井に貼りつけるには、それなりに勇気がいる。問題は――美観上の課題、効果への疑問、そして価格、だ。気軽に試そうという気にはなかなかなれない。

そんなおり、ひさしぶりに Yahoo オークションをのぞいてみると、ロビン企画さんがQRDのスカイラインによく似たディフューザーをたくさん安価で出品されていることに気がついた。スカイラインのベースになっているディフューザー理論にどれだけ正確に基いているのかはよくわからないけれど、美観・効果・価格のうち、価格が解決されたとなければ、それだけでハードルはずいぶん低くなる(笑)。それでもしばらくはクヨクヨと悩んだすえに、美観にしても効果にしても、やっぱり試してみなければわからん、ということでこれを購入――落札――した。

天井への取りつけは、両面テープ、接着剤、ピン、クギなどいろいろと検討し、結局3Mのコマンドタブを使うことにした。接着力が強力で、厚みがあり、天井や壁に使われているエンボス状のビニールクロスでも相当の力を発揮する。それでいて「キレイにはがせる」というすぐれものだ。

SkyLine2 ほんとうはディフューザーを天井に仮止めして最適場所をさがす――という追い込みをしなければならないのだが、天井とにらめっこして考えたところで、照明や煙感知器を避け、なるべくスピーカーと視聴位置の一次反射面に設置しようとすれば、おのずと位置は決まってくる。3Mのコマンドタブでえいやっと貼りつけた。

強度的にはなにも問題なし。設置してすでに1週間が経過したいまも、緩んでくる気配はない。まあ、かりに落ちたとしても、発泡スチロールだから、怪我をするようなこともないだろう。

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はやる心を抑え、試聴してみた――にわかには信じられなかったが、音が明瞭になり低域の量感も改善している。ほんとうに?――自分でも半信半疑のまま、計測してみたところ、つぎのような感じだった。

After Skyline

冒頭で示した対策前のグラフとは、測定した日がだいぶ離れているし、それ故にたとえばマイク・ゲインと入力音量の関係など、細かい条件も微妙に異なっている。電源やケーブルも一部見直している。だから厳密には比較できないけれど、低域の大きなディップは改善されていることはまちがいないようだ。しかも聴感上それを明確に聴きとることができる。

見た目は――本家のQRDの精度がどれくらいのものかはわからないが――ロビン企画のスカイライン型ディフューザーは、角がとれたりしている。また、いかにも発泡スチロールという感じだ。ただ、造形や強度はしっかりしており、すぐこわれそうなヤワな感じではない。天井に貼りつくと、存在感は強く、これまでなるべく過剰な対策は控えてきたのだが、ついにいかにもオーディオルームみたいな感じになってきた(笑)。女房には「ああ、そういうところまで行ってしまったのね」と冷めた声で言われた。

でも、こういう明確な効果があると、さすがに外そうという気にはまったくなれない。どこかでQRDの実物を見ることができて、その仕上がりに差があるようだったら、ひょっとしたら本家のQRDに交換するかもしれないけれど。

この周波数特性をさらに平坦にするにはどうしたらいいか――なんてことを考えはじめるとキリがない。じつは、この効果に気をよくして、ここしばらくはDRC(Digital Room Correction) にハマッていた。ただ、ぼくのスキルの問題か、あるいはべつの原因があるのか、高域がロールオフしたり定位が不明確になったりして、どうもいま以上のよい効果を得ることができなかった。そんなわけで、しばらくはこの環境で使いつづけることになりそうだ。

Annotations :
スイープ信号の生成とFFT解析には、efuさん作成のフリーソフトウェア、 WaveGene と WaveSpectra を使用させていただきました。このふたつのソフトウェアには、ずいぶん以前から定番としてお世話になっています。この場を借りてお礼申し上げます。
efu さんのサイト: http://www.ne.jp/asahi/fa/efu/

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2008年8月17日 (日)

市立のプラネタリウム

SkyPark 今年の夏は、いつもだれかどこかの調子が悪く、結局子供たちをプールに連れていくことができなかった。今週末は、こんどこそと思っていたら、不覚にもまえの晩にぼくがひざをざっくりと怪我してしまった。なかなか血が止まらないし、その傷をプールにつけるのは、周囲のひとたちのためにも自分のためにもよくないような気がした。それで、子供たちのありありとした失望感に胸を痛めつつも、中止した。これはどう考えても埋め合わせが必要だ。ということで、かわりに隣町(市)のプラネタリウムに出かけることにした。


小さな市営の施設で、驚いたことに――ぼくが無知だっただけだが――プラネタリウムの演目はその施設のオリジナルだった。きちんとナレーターがつき、参加者たちとインタラクティブに会話をしながら50分間の演目が進んでいく。このナレーターの女性の語り口はとても上手で、適切な関西弁 (?) がなかなかチャーミングで心地よかった。今回はお盆休み中ということで、そこそこ観客が入っていたけれど、平日は2組しかいないとか、そういう状況だという。それでもたぶん、この50分にわたる演目を、きっちりとやっているのだろう。収益性はどうだとか無粋なことを考えてしまうのは事実だが、そういう状況下でこうした手作りの演目を企画し実現している姿勢には頭の下がる思いだった。

そうしたライヴ感は内容にも生かされていて、この地域の夜景から頭上の夜空へと話題がつながり、数日後の月蝕の話まで、固定的・画一的な内容の上映では実現できないリアル感、親近感に触れさせてくれる。

そのかわり――そんな手作り感のある演目には、逆に限界を感じさせてしまう瞬間もあった。演目の途中でビデオ上映による「季節の出し物」があり、紙芝居的なキャラクターが延々と説明をつづける。星空の話題から外れるのであれば、せっかくの大スクリーンなのだから、キャラクターが画面を飛んだり跳ねたりするだけではなくて、もうすこしいろいろ映像・画像を見せてほしいように感じた。

施設の規模から察して、予算の限界ということもあるのだろうと思う。そうした制約のなかで、施設独自の企画を起こしていこうという心意気はとても立派なことだし、そうした施設が地元にあるということは利用者としても心強い。でも地域性にかかわらない固定的なビデオ作品なのであれば、その施設独自ということにこだわらず、全国の同種の施設の横のつながりなどを利用して、共用の作品を用意するというわけにはいかないのだろうか。そうすれば、予算の制約ももうすこし広げられると思うのだけれど。

このプラネタリウムに隣接する特設フロアでは、「科学おもちゃ」の展示が行われていた。ここでは、この施設の手作り感がとてもよい方向にあらわれていた。展示の多くは、ペットボトルや木材、段ボールを使った手作りのもので、子供たちも親しみを感じやすく、楽しそうだった。

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AirPlane この科学館は、空港のすぐ隣にあり、騒音緩衝地帯を利用した大きな公園が近くに整備されている(駐車場はこの公園の施設を利用する)。冒頭の写真は、この公園でのスナップだ。空港のすぐ近くだから、この右の写真のようなシーンを間近で見ながら遊べるようになっている。公園はあたらしくて設備も充実している。

月に何回かはこの空港を利用しているから、移動手段としては日常的につきあっているハズなのだけれど、あらためてこうして航空機の離着陸を見ていると、なんとなく心が浮き立つというか、魅せられてしまう。過酷な炎天下の日だったにもかかわらず、たくさんの家族がここで遊んでいた。子供たちは疲れを知らず――といいたいところだが、あまりの暑さにさすがにぐったりしてきて、結局その日は早めの撤収ということになり、そのまますぐ近くのAEONモールに向かった。

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2008年8月 3日 (日)

ヒラリー・ハーンのヴァイオリン、バッハ、シェーンベルク、シベリウス

Hilary-Hahn 米国出身のヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーン (Hilary Hahn) が大活躍している。これまでその容姿から、なんとなくアイドル系というような先入観――思い込みがあって、あまり興味も惹かれないできたのだが、どのレビューを見てもかなり好評なので、見識をあらため、聴いてみることにした。

買ったのは2枚。J.S.バッハのヴァイオリン協奏曲集 (2003年) と、シェーンベルクとシベリウスのヴァイオリン協奏曲集 (2008年)。いずれもDGからリリースされている。


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Hahn-bachはじめに、バッハの協奏曲集を聴いた。最初の音が出た瞬間から、その太くて力強く、まるで突撃するような演奏に、すこし驚いた。テンポが速かったからではない。ハーン自身がこの演奏を「速い楽章では爪先で床を鳴らし、曲にあわせて踊っていただけたら幸いです」と紹介していたくらいだから、そういうテンポだろうというのは想像がついていた――というか、決して速すぎるということはない――驚いたのは演奏が一本調子に聴こえたからだった。

太いマジックで、キュッと力強い直線を引いたような演奏。それは緩徐楽章でも印象は変わらない。これはもしかしたら、伴奏を務めるジェフリー・カヘインとロサンゼルス室内管弦楽団――両方とも不勉強ながら聞いたことのない演奏家だ――のキャラクタに引っ張られているのかもしれない。

躍動感や生命感といった音楽の印象と、力強さとは多少ちがうものだと思うけれど、それを取り違えてしまっているかのようで、すこし残念な感じだ。テクニック的には申し分なく、それを力技で押し切っているような印象になってしまっている。

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Hahn-Sibeliusそんなハーンの演奏は、もちろん、シェーンベルクとシベリウスではいい方向に作用する。シベリウスはともかくとして、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲はぼくはそう滅多には聴かない――というか、ちゃんと聴いたのは、このCDがはじめてだと思うし、まさにそれこそがハーンの意図なのだろう。

12音技法という――あまり楽しくない――あたらしい世界を開拓したシェーンベルクの音楽を、いったいどれだけの人が聴くのだろう。たぶん、クラシック音楽がある程度以上に聴きこんでいるか、あるいは音楽そのものを生業として学んでおられる方々くらいだろうと勝手に想像するのたが、それは、20世紀初頭、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンという新ウィーン楽派の面々が、それまでのロマン派時代の閉塞感からの突破口として、音楽を専門家向けの象徴表現にしてしまったことによるのだろう。

ハーンの演奏は、そんなシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を、音楽としてぐいぐいと力強く引っ張っていく。おそらく、これがハーンのヴァイオリンでなかったら、ぼくは最後まで聴きとおせなかったかもしれない。そしてそれをサポートするサロネンの指揮も、重厚・冷静でありながら充分に躍動的で、しっかりと聴かせる。これはシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲演奏の代名詞のひとつとして、ながく残っていく名演だろう。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲も、基本的にはおなじ演奏表現だ。明晰で、太く、力強い。ここは正直なところもうすこし細くてもいいんじゃないか、と思うようなところもあるにはある。あるいは全体に冷静な演奏なので、北欧の作曲家シベリウスの情念のようなものを、もっと熱く、感情的に表現してくれてもいいのではとも思う。だが、シェーンベルクの演奏がそうであったように、とてもわかりやすくて、音楽を明確に聴かせてくれる。

§

ジャケットの写真で見るハーンの表情は、演奏の印象どおり、理知的でクール、というか少々冷たすぎるように感じるほどだ。それで、この文章の冒頭の写真には、CDのインナーに掲載されていた笑顔のものを選んでみた (笑)。

YouTube には、インタヴューに答えるハーンの姿もたくさん掲載されている。そこでの受け応えを見ていると、誠実でアグレッシヴ、明晰で明るいハーンの姿が見えてくる。やはり演奏での印象のとおり、まっすぐである。バッハの演奏では、それがあまりいいようには感じられなかったけれど、実演の演奏ではまた印象が異なるという話も聞くし、これからを代表するヴァイオリニストのひとりとして、今後の活躍が楽しみだ。

 

 

Annotations :
アルノルト・シェーンベルク : Arnold Schönberg (Schoenberg)
1874年9月13日、オーストリア、ウィーン生まれ。戦時中に亡命し、1951年7月13日、アメリカ、ロサンゼルスで死去。本文中で触れたように、1900年ごろから無調音楽、12音技法を開拓した。アルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルンとともに新ウィーン楽派と呼ばれる。
ジャン・シベリウス : Jean Sibelius
1865年12月8日生まれ、1957年9月20日没。フィンランドの国民的作曲家。民族性と北欧の自然を感じさせる楽曲が多く、日本でも人気が高い。かくいうぼくも、かつてクラシックを聴きはじめた際に愛聴したのが、モーツァルトとこのシベリウスだった。
J.S.バッハ/ヴァイオリン協奏曲集 :  J.S.Bach/Violin Concertos
Hilary Hahn, Violin
Jeffrey Kahane, Conductor
Los Angeles Chamber Orchestra
DG: 474 199 2
Link : HMVジャパン
シェーンベルク・シベリウス/ヴァイオリン協奏曲集 :
Schönberg・Sibelius/Violin Concertos
Hilary Hahn, Violin
Esa-Pekka Salonen, Conductor
Swedish Radio Symphony Orchestra
DG: 00289 477 7346
Link : HMVジャパン

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2008年7月 7日 (月)

ATI RADEON HD3450 から HDMI で音声出力

HD3450 オンキヨーのAVアンプ TX-SA606X があらたに到着するのにあわせて、リビングのPCのグラフィックカードもあたらしくした。最近は濃厚な発色が気に入ってもっぱら nVIDIA の GeForce ばかり使っていたのだが、HDMI 出力をやってみたくて ATI (AMD) の RADEON に切り替えたのだ。 

そもそも HDMI に対応したテレビを持っていないのにどうするんだ、という話はあるが、TX-SA606X がやってきたことで、すこし状況は変わった。そう、RADEON HD3xxx シリーズ以降の持つ HDMI への音声出力機能を使って、TX-SA606X に音声信号のみを伝送し、このアンプを音楽用のDAコンバータ+アンプとして使おう、ということである。


もちろん、それだけの目的であればサウンドカードやオンボードの SPDIF 出力を使えば難なく実現できる。実際、アンプが到着したその日にそれはやってみた。なにも問題はなかった。ただひとつ、あるとすれば、PC内のオーディオデバイスがひとつしかないために、アナログ接続した机上のPC用スピーカーと、アンプ経由のデジタルデータが同時に鳴ってしまう、ということである。それでなにも問題ないと言われる向きには理解しづらいことかもしれないけれど、PCで音楽を再生し、アンプを経由してすこし大きな音で音楽を鳴らしているとき、メールがきたり、イベントが発生したりすると、Windows の効果音が大きな音で音楽とともにスピーカーから響いてしまう。それがいやなのだ。だから、音楽用のオーディオデバイスと、Windows サウンド用のオーディオデバイスはふたつに分けて使いたい (自分の部屋のPCも RME DIGI 96/8 PST を使って、おなじことをやっている)。

RADEON の HDMI 音声出力機能は、GPU自身がひとつの独立した音声デバイスとして動作する (はず)。だからここを1系統使えれば――音質の云々はさておき――これを音楽専用して使うことができる。Windows サウンド用には、いままで通りオンボードのサウンド機能を使えばいい。

購入したのは、RADEON HD3450 を搭載した Sapphire 製デュアル DVI 出力のグラフィックカード「RADEON HD 3450 512MB DDR2 PCIE」。ほんとうは DVI 出力と HDMI 出力の両方があればよかったのだけれど、一時期はよく見かけたはずのその種のカードは、いまは入手がむずかしくなっているようだった。だから、このカードを買って、デュアル DVI 出力のうち片側から DVI-HDMI 変換アダプタを通して HDMI 出力することにした。GPUは、いつものように高い性能は求めず、ファンレスを必須条件として選んだら、 HD3450 になった。ついでに言えば、このチップを搭載したカードはとても安く、DDR2 512MB のメモリを搭載して6千円弱だった。すばらしい (^_^)。

そして、DVI-HDMI 変換アダプタとして、玄人志向の「DVI-HDMI3」も購入した。RADEON HD3 シリーズ用で音声出力が見込めそうなのは、これくらいしか見当たらず、ほかの DVI-HDMI 変換コネクタ・ケーブルの類は、画像は出ても音声は出ない、という意見がインターネット上には多い。

でも、この HD3450 と DVI-HDMI3 を使っても、なかなか音は出なかった。正直、もう何度もあきらめようと思った。貴重な休日をこんなことで潰してしまうなんてアホにもほどがある、と自分でも思う瞬間があった (笑)。

結果として音は出た。4つの問題があった。音が出るまでに3つ。そして音が出てから1つ。

まず、デバイスドライバの問題。ATI のサイトから最新のHDオーディオ用ドライバをダウンロードして使ったのだが、これを使うと「デバイス マネージャ」ではオーディオデバイスとしては正常に認識されるものの、Windows XP SP2 でコントロールパネルを開き、「サウンドとオーディオ デバイス」の項目を開いても「オーディオ」タブや「音声再生」タブの部分で、どうしてもデバイスとして登場してこない。

登場しなかったら選択のしようがない。Windows の MME では認識できるデバイス数に上限があるような話を聞いたことがあったので、Google で世界を徘徊するも手がかりはなく、OSの再インストールや Windows Vista 化まで思いつめた。この問題で半日を潰した。結局これは、ATI のサイトにある最新のドライバではなく、グラフィックカードに付属していたCDからドライバをインストールすることで解決した。ふだん製品付属のドライバCDなど相手にせず、メーカーのサイトから最新のドライバをダウンロードするようにしていたのだが、この行動が裏目に出たことになる。がっくり。

再生デバイスとして選択できるようになって、ソフトウェア的には整合のとれた状態になったものの、やはりアンプからは音はまったく出ない。ここからさらに半日を要した。グラフィックカードの初期不良や、玄人志向の DVI-HDMI3、HDMI ケーブル。そもそも音を出すことができるのかできないのか、さまざまな要因が脳裏にうごめく。とくに玄人志向の DVI-HDMI3 は、「RADEON H3xxx シリーズ専用」というだけで、じつは音声出力の実績はないのではないか――そんなことを疑いだすと、もうあれこれ試す気力も失くしそうになるし、実際、何度も SPDIF での出力路線を心のなかで再検討したりもした。

結局、ここにはふたつの問題があった。

ひとつは、グラフィックカード側のコネクタ位置の問題。見た目におなじ DVI コネクタがふたつ並んでいるけれど、音声出力に対応するのは、どうも片側だけのようだ。

もうひとつは、アンプ側のHDMI端子の問題。並列に4入力が並んでいるので、なんとなく遠慮して(笑)、4番目にPCをつないでいた。これがよくなかったようだ。結果としては1番目につないだときだけ、音が出た。4番目につないだときには最後まで音が出なかった。2と3は力尽きて試していない。

まとめると、アンプから HDMI 経由で音が出るまでに解決したのは、つぎの3点だった。

  1. グラフィックカードのオーディオドライバは、付属CDからインストールする
  2. グラフィックカードからの HDMI 出力は、背面から見て左側、つまりマザーボード側のコネクタにを接続する。
  3. アンプ側は HDMI1 に入力する。

最初から「当たり」の設定でやっていればそれだけの話なのだが、外してしまった場合、この組合せを見つけるのは大変だ。いずれも「なぜ」というのはいまだによくわからない。

これでなにもかも完成――そう思って機嫌よくいろいろと試しているうちに、またがっくりするような現象が起きた。それまで正常に稼動していたPCを再起動すると、ディスプレイになにも映らないのだ。真っ黒。起動時の BIOS 画面は出る。Windows XP の起動途中の画面も出る。起動した、と思うと、真っ黒になる。

グラフィックカードの DVI コネクタのうち、マザーボードに近いほうに HDMI 出力をつなげている。たぶん、この DVI コネクタはプライマリ出力用なのだろう。それで、画面が HDMI の方に出力されて、ディスプレイのほうにはなにも出力されないのかもしれない――そう思ったけれど、HDMI 出力をつないでいるアンプはスタンバイ状態で、逆にディスプレイのほうは通電してある。グラフィックカードもそのくらいは理解して、どちらに画面を出力すべきか判断できそうなものだ。

ここで何気なくアンプの電源を入れると、PCのディスプレイのほうにもデスクトップ画面がもどってきた。その状態で ATI Catalyst を起動してみると、PCディスプレイをプライマリ、 TX-SA606X をクローンとしてきちんと認識している。

もういちど試してもおなじ。アンプをスタンバイにして、PCを起動するとディスプレイは映らず、アンプの電源を入れると映る。いちど映ると、もうアンプをスタンバイにしても大丈夫。

これは、結局、アンプ TX-SA606X 側の設定に問題(?) があった。HDMI の設定で、 PowerControl を有効にしていた。これを有効にしていると、PCの起動時にPCのディスプレイが真っ黒になる。無効にしていると、問題なくPCが起動する。

いまは HDMI 対応機器はPC以外にないので、PowerControl を有効にする理由はない。初期設定も無効になっている。いろいろ設定をいじっているときに、何気なく有効にしてしまったようだ。近い将来、いくつか HDMI 対応機器を導入していく予定にしているが、この設定をどうしていくかは、そのときにまた考えることにしよう。

ちなみに、PowerControl の機能は、TX-SA606X の(隠れた)目玉機能のひとつである、HDMI スルーを実現するときに必要となる。ただ HDMI スルーの機能は、要するにスタンバイ状態であってもデジタル系は稼動させておくということだから、待機電力がかなり増える。それは HDMI がアナログ信号ではなくデジタル信号だから、しかたのないことだ。たぶんぼくは HDMI スルーの機能は使わないだろう。ただ電源連携ということになると、ひょっとしたら使いたくなるかもしれない。

これで、いちおうやりたいことはできた。Windows のサウンドはPC用スピーカーから鳴り、音楽はアンプを通してきちんとした (笑) スピーカーから鳴る。再生用のソフトは、再生デバイスを個別に指定できる foobar2000。むかしの Windows Media Player もこれができたのだが、残念ながら最新の 11 ではできなくなってしまっている。

肝心の音質は?――それはまだ云々できそうにない。TX-SA606X の持つイコライザ Audyssey 2EQ の効果も結構インパクトがあり、その使いかただけでもかなり音質が変わる。ただ、聴いてすぐ驚いたのは、SPDIF 入力に比べて、HDMI 入力はバックグラウンド・ノイズがきわめて小さいということだった。なにかのまちがいかも――と、いまでもすこし疑問に思うほど、ノイズ量がちがう。それは、HDMI が優秀というよりは、伝送方式とプロセッサのちがいからくるもの、ということのような気がする。

HDMI で音声(音楽)伝送という形態を今後も常用するかどうか、というのは正直微妙だ。今回はなんとか抑えこむことができたけれど、いずれ映像系も含めて考えていくとなると、またいろいろと問題が起きるような気がする。それであれば、もう1系統、SPDIF 出力のできる安いサウンドカード(オーディオカードではなく)を導入するほうが接続性やコストとしてはよほど簡便だ。とはいえ、PCI Express 対応のサウンドカードとなると、あまり良さそうなものがないし、昨今はもう PCI バスは貴重なリソースになりつつある。かといって USB 対応機器にはぼくのなかで根強い不信感もある。

PC内に音声出力をもう1系統持ちたいというだけのことなのだけれど、意外と手間がかかる。

 

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2008年6月30日 (月)

リビングのホームシアターの再始動

CDM1SE 子供たちがすこし大きくなって、気持ちの余裕が出てきたのか、あるいはなにかが目覚めたのか、女房が「リビングで音楽を聴きたい」と言い出した。

ずっと以前――もう10年ちかく前だ――わが家のリビングには、当時まだそれほど一般化していなかった「ホームシアター」があった。市販されて間もないDVDと、プロジェクターと、スクリーンと、5.1ch のサラウンド環境という構成だった。やがて子供が中途半端に大きくなるにつれ、映画の内容や大きな音を怖がるようになり、またそれと同時に家族全体が土日も含めて「いっぱいいっぱい」の生活を送るようになって、映画を観る習慣も自然に遠のいていった。そこに追い討ちをかけるように東京への転勤があり、横浜の家に移るときにプロジェクターは知人に譲ってしまった。


3年間の横浜での生活中、アンプを2回、変えた。でもそれは、ぼくの部屋の2チャンネル再生用のシステム(世間では――すこし恥ずかしい言葉だが――ピュアオーディオという)の話で、リビングはリアスピーカーも設置せず、かろうじてフロントスピーカーだけ結線されていた状態で、それすらもあまり使うことはなかった。

横浜からいまの関西の家にもどって、さらに2年がすぎた。そのあいだに、このブログでもご報告しているように、スピーカーを変えた。それもやはりピュアオーディオ用で、リビングのAV機器はといえば、恥ずかしながらフロントスピーカーすらも結線されておらず、完全に休眠状態になっていた。

それが、先日の女房の「リビングで音楽を聴きたい」のひとことで、再始動することになった。

関西にもどるとき、ピュアオーディオ用の機器をリビングに移して、AV機器と統合しようか、というアイデアもあった。プリアンプMIMESIS 27ME の SSP モード(スルー入力)を使えば、電気的には簡単に統合できそうだった。もちろん、音質の調整という意味ではいろいろと苦労することもあるだろうけど。

リビングに置く場合のいちばんの問題は、大きくなったとはいってもまだ小さい子供たちである(笑)。自分の子供たちだけであればまあまあ信頼しているから問題ないと思ったが、友達が大勢きたりすると、やはり相乗効果でなにが起こるかわからない。ちょっと危ないかも、ということで、オーディオ機器は依然ぼくの部屋にあり、リビングにはホームシアターの残骸が残されていた。

日曜日、1日かけてリビングの機器の全チャンネルの結線をした(と、さらっと書いてみたものの、それは大変な作業だった(爆))。音をだしてみて、すぐに問題が発覚した。ひとつは、これは以前からわかっていたことだが、リモコンが効かない。さらにそのために、画面上でスピーカーのセットアップができない。そして致命的なことに、フロント左チャンネルと、センターチャンネルの音がおかしい。くぐもった音で、大きくなったり小さくなったりする。固唾を呑んで見守っていると、1分ほどで正常音量、音質になる。勝手に音量が大きくなることから、アンプ側の異常だろうということは想像がついた。

選択肢は3つだ。修理するか、買い替えるか、がまんするか。なにも投資がいらないので、しばらくようすを見ることにした――つまりがまんしてみることにした。ところが数日後、女房によるとまたおなじ現象が起こって、勝手に音量が大きくなったという。これはやっぱりまずそうだ。メーカーであるオンキヨーに問い合わせてみると、保証期間は当然とっくにすぎていて、訪問修理だと相当の金額になるので、サービスセンターまで持ってきてほしい、という。

10年前の決して高級とはいえないAVアンプ。修理料金と買い替え費用の両天秤が、沈黙のうちにぼくと女房のそれぞれの脳裏をよぎる。このアンプは長いあいだ持っているから当然愛着はあるけれど、残念ながら溺愛しているというほどではない(そもそも10年前、このアンプの音に満足できないがために、ぼくは別系統でピュアオーディオに走りはじめたのだった)。10年使ったのだから、もうこの種の機器としては天寿をまっとうしたということなのかもね――そういう話になった。つまり、買い替えである。

買い替えとなると、俄然話がややこしくなってくる。

ひとつはアンプの仕様の話。時代はすでに HDMI である。買い替えるのであれば、この HDMI に対応したくなってくるというのが人情というものだ。ところが HDMI はまだ仕様が安定しておらず、世間では HDMI1.2 という一世代前の仕様の製品もあれば、HDMI1.3a という最新仕様に対応したものもある。しかもそれが最終仕様という保証はどこにもなく、今後まだ新しい仕様が登場することは充分に考えられる。また HDMI に対応していても、将来増えるかもしれない機器をある程度視野に入れて入力数・出力数を考える必要がある。

もうひとつ、ネットワーク機能の有無もかなり迷った。IT屋としては、ネットワークにつながると聞くと、どうしてもつなげたくなってしまう。わが家ではDLNA サーバがいくつか(笑)動いているし、最近では  iTunes サーバも稼動している。インターネットラジオもときどき聴く。これらの音楽をアンプから直接再生できれば便利だと考えたのだ。さらに外部に口が開いていれば、ひょっとしたら将来のファームウェア・アップデートという、いいこともあるかもしれない。

ただ、ネットワーク機能があったとして、果たして家族がどれだけ使うのか、というのは正直なところ疑問だった。わが家の場合、リビングにPCがある。PCのデジタル出力をアンプに入力して再生する、というほうが操作として自然かもしれない。また、ネットワーク機能のついているアンプは、おしなべて価格が高い。ネットワーク機能を選ぶということは、つまり中級以上の機種を選ぶということになる。

そしてもちろん、アンプのグレードも迷う要素になる。ピュアオーディオをやっているので、「音が出る」というレベルの製品から、「いい音が出る」という製品、そして最終的には「好みの音が出る」というところまで、メーカによって、あるいはその製品のグレードによって、さまざまであることは充分にわかっている。ぼくがピュアオーディオで使用している機器はわれながら正気の世界とも思えないから比較にはならないけれど、それにしてもAVアンプでそれなりに満足のいく音質を得ようとすると、ある程度コストをかける必要もあるだろう。とくにパワーアンプ部は電源が大切になってくるので、きちんと考えられた製品は大きく重く、そのぶん高価になってくる。

アンプにコストをかけるとなると、つぎにはスピーカーが気になりだす。リビングのフロントチャンネルに使っているのは、B&W の CDM1SE だ。決して高級機というわけではないが素直で明るい音のする名作だと思う。冒頭に挙げた写真がそれで、見た目もよくて、わが家のリビングのシンボル的存在になっている。これは余談だが、つぎの世代の CDM1NT になると、見た目がへんにヤセ型になって、あまり気に入らなかったことを覚えている。いっぽう最近リリースされているの CM1 は、すっきりとした美しいデザインで、音質的にも評判がいいと聞く。

そんな CDM1SE も、アンプとおなじく10年選手になろうとしている。リビングの日当たりがいいおかげで、自慢のケプラーコーンもすっかり日に焼け、別室の 802D のものと比べると、だいぶ色あせて見える。さて、その CDM1SE はいつまで持つのだろう。アンプを替えると、スピーカーまで替えたくなるような予感がしてくる。

1週間悩んで、結局、割り切ることにした。いろいろ考えた結果、エントリー機種の王道、オンキヨーの TX-SA606X を買うことに決めた。いまAVアンプにコストをかけるのは得策ではなさそうだった。きちんと音楽を聴く環境はべつにあるのだし、マルチチャンネルは楽しさ優先でいこうと決めたのだった。

ちなみに、数年前に一世を風靡した廉価なデジタルアンプもいいかも、と思って調べてみたのだが、これはどういうわけか廉価製品では最近は下火になっているようだった。どこも数年前の機種がカタログに掲載されているだけ、という状態だった。あんなに評判がよかったのに、どうしちゃったんだろう。

これまでオンキヨーのアンプを使っていながら、そう強い思い入れがあったわけでもなかったので、よもや次のアンプもオンキヨーになろうとは思ってもいなかった。ただ世間で好評なのには理由があって、TX-SA606X とその前の TX-SA605 は、機能面では他社にくらべてあきらかに一歩リードしているようだ。これは、総合電機メーカではなくて、音響機器専業メーカであることを考えると、驚くべきことだと思う。

1993年、「平成の再建王」といわれ、大のオーディオマニアともいわれる大朏直人氏のトップ就任後、オンキヨーはとくにIT技術、デジタル技術への展開が目立っていた。なかには、一消費者として見るかぎり危なっかしく感じるビジネスもあるけれど、他社に先駆けての新仕様搭載はそうした積極姿勢のあらわれだろうし、消費者としては心強いかぎりだ。

TX-SA606X は、さきにも触れたように、機能面では「てんこ盛り」状態で、おおいに遊べるアンプだと思う。個人的に決め手となったのは、HDMI1.3a 対応の入力が4チャンネルあることと、シルバー色が用意されていること、そして価格の3点。HDMI 出力が1チャンネルしかないのが惜しいが、とくに複数チャンネルを使用する目的があるわけではないので、あまり強くはこだわらなかった。

肝心の音質は――この価格帯 (\84,000) で、これだけのデジタル・ギミックを満載して、あとなにがどれだけ期待できるだろう、というのが正直なところだ。ここで満足できない場合、おなじ世代、おなじメーカーで考えると、ひとつ上のTX-SA706X ということになり、\189,000 になる。デジタル的な付加価値ではそう大きくコストは変わらないだろうから、この価格差は電源部やアンプ部、シャーシの振動対策 (そして THX Select2 のロゴ使用料(笑)) などにある、と見るのが正しいように思う。つまり TX-SA606X から TX-SA706X へは、正しく音質アップしているだろうと期待できる。おそらくオンキヨーのアンプメーカーとしての本来の持ち味が生きてくるのは、この TX-SA706X あたりからではないかと思う。逆に TX-SA606X はそのコスト差分だけ、TX-SA706X に比べて音質には限界が出るということだ。その差がほぼ10万円分。

これが数万円の価格差だったらきっと悩んでいたと思う。でも10万円の差がついたとなれば、上に書いたとおり、いまは TX-SA606X で、楽しく行けるところまで行く、というのが正しい。と判断した。

ちなみに、他社製品の印象はつぎのようなものだった――デノン(旧デンオン)は一時期は「これに決めた」というところまで行ったのだが、HDMI の入力数が少ないところがどうしても気になった。ボリュームノブのクリック感や、低価格機でもロータリー式のスイッチを多用しているところは好感度大だった。パイオニアの高級機は魅力的だったけれど、低価格機では機能面で見劣りがした。ソニーもよかったのだが、いまのソニー製品を買うと BRAVIA や VAIO を買わなければならないような気がして、気持ちが引いた。パナソニックのシリーズは、デザインがどうしても許せなかった。そんなこんなで、ふたたびオンキヨーの採用――ということになった。

先日の土曜日、近所の量販店に出向いて、この TX-SA606X を5万円台なかばという金額で買った。シルバーは在庫がなく、数日後に届くという。価格面で通販に引けをとらない金額にしてくれたことはありがたかったし、その価格で5年保証がついているのも魅力だった。

先代のAVアンプも、何度か故障を起こしている。突然リアスピーカーから音が出なくなったり、リモコンが効かなくなったり、今回のようにスピーカーの音量が安定しなかったりした。最後の故障をのぞいて、その都度修理をしてもらってきた。前面パネルに髪の毛のような黒い線が印刷されていて初期不良交換ということもあったし、その次に届いたものは、背面のパネルのネジが外れかかっていた(自分で締めた)。だから正直、オンキヨーの製品の品質はそれほどいいとは思っていない。その意味でも、5年保証はありがたい。

この文章を書いている現在、まだアンプは到着していない。到着したら、またしばらくはセットアップやら何やらで当分なにも書けないだろうと思うので、まずはアンプを決めた、というところまでのご報告だ。

ちなみに、わが家のAVアンプでもっともよく使われるのは、FM放送などの軽めの2チャンネルソースを全スピーカーを使って鳴らす、マルチチャンネルステレオという機能だ。これを使うことで、部屋中に音楽が溢れるようになる。

あたらしいアンプがきて、また以前のように、音楽のあるリビングになればいいと思っている。そしてまた、ときどきは映画でも観ることができればいいなと思う。

 

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2008年6月15日 (日)

アバドづくし

Abbado-Mozart 前回、なにげなく買ったCDの例として、クラウディオ・アバドとジュリアーノ・カルミニョーラのモーツァルト、ヴァイオリン協奏曲全集のことについてすこし触れた。

そのとき、同じ時期にリリースされたアバドのモーツァルト交響曲集を「買ってしまうかも」とつぶやいていたら、案の定、ほどなくして買うことになってしまった。そして同時に、彼の「新しい」ベートーヴェンの交響曲全集も届いた。


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オーディオへの投資がひと段落して、それでなくとも最近はソフトに走る傾向にあるところへ、どうもHMVの「輸入盤3枚セール」に乗せられて、ついついたくさん買う結果になっているような気がする。まあ――たくさんとは言っても、ぼくの場合、月に10セットにも満たない程度だから、ほんとうにたくさん買っておられる方から見れば、なんということもないのだろうけれど。

HMV-Box2 HMVからCDが届くときには、注文時期は1ヵ月ちかく開いているのになぜか1日に複数が届いたり、あるいは連日のように届いたりする。複数の注文がひと箱にまとめられることはないので、マメに箱を処分するようにしないと、油断しているとそこらじゅう箱だらけになる。なかには数枚のCDしか入っておらず、それにしては箱が大きい。個々の注文で箱のサイズを変えるよりは、ひとつのサイズに統一したほうが結果として低コストになっているのだろうけど、どうも「もったいない感」がぬぐえない。女房から白い目で見られるばかりか、たくさん買っているのでは、と不当な疑いをかけられるもとにもなる。どうにかしてほしいが、経済性を考えるとたぶん、このやりかたがもっとも効率的なのだろう。趨勢では、経済性よりもムダを減らし環境への配慮を優先させよう、という機運が高まっているけれど、まだここには到達していないようだ。

今回も、このモーツァルト交響曲集と同時に――べつの箱で――アバドとベルリン・フィルによるベートーヴェンの新しい交響曲全集が届いた。ほかにも先日からルツェルン祝祭管弦楽団とのマーラーを買ったりしていたので、ちょっとした「アバドづくし」の様相を呈してきた。ユニバーサル・ミュージックのサイトによると、今年――2008年はアバドの生誕75周年、とのことだ。

§

Abbado-Beethoven 今回のアバドの「新しい」ベートーヴェン交響曲全集は、ちょっと由来が変わっている。前回、2000年に発売された交響曲全集は、当時まだ広くは認知されていなかったベーレンライター版を使ったことで(良くも悪くも)話題になった。ぼくも、買った当初はこの全集になじめず、きちんと聴くようになるまで1年くらいかかったような気がする。

それから8年――2008年にアバドがほんとうに新しいベートーヴェン交響曲全集を出すとしたら、それはいったいどんな演奏になっているのだろうという意味でとても興味深いものだが、残念ながら今回リリースされた交響曲全集は最近の演奏ではない。前回の交響曲全集のすぐあとの2001年、イタリア、ローマで演奏されたライヴを収録したものなのだ(第9番のみ、2000年ベルリンでのライヴ)。

このライブはもともとユーロアーツによって映像作品として収録されたもので、日本ではTDKからDVDで発売されていた。その音源が、DGによってリマスタリングされ、リリースされたのが今回の交響曲全集だ。ユニバーサル・ミュージックのコピーによれば、アバド自身が自分の演奏のなかでもっとも気に入っているものだという。

Abbado-Beethoven2 前回の全集は1999年と2000年の演奏。今回の全集は2000年と2001年の演奏。実質的に1年ちがいということになる。1年で演奏様式にそう大きなちがいが出てくるとも思えないので、なぜいまになってこの録音が新譜としてリリースされるのか、正直なところ理解に苦しむ。ただ今回の全集はライヴなので、当然、その場でのコンディションによって演奏は変わってくる。だから、今回の全集はそういう興味で聴くのが正しいのだろう。時期のちがいではなく、セッション録音による全集、ライヴ録音の全集と捉える。そのちがいだけで、あらたに数千円の出費をするひとがどれだけいるのかは、やっぱり微妙のような気がするけれど。ぼく自身はといえば、迷ったすえに結局買ってしまった。

その両全集のちがいはといえば、すくなくとも、今回の全集はライヴならではの息遣いが感じられる。前回の全集で感じられたような、ベーレンライター版の演奏にありがちな無機感、「かっ飛ばし」感は影を潜めている。でも決してテンポが遅くなったわけではなく、躍動感は健在だ。

それから、これは余談になるのかもしれない――アバドは2000年、胃ガンで倒れた。今回の全集で、第9番だけがベルリンのライブになっていて、他の交響曲がその翌年、復帰後のローマでのライヴになっているのはそのためだ。一時はこのチクルスは完遂すら危ぶまれたと聞く。

復帰直後のアバドの写真を見たことがある。驚くほど痩せて弱々しい立ち姿ながら、カッと見据えた鬼気迫るまなざしに思わず息を呑んだ。これは、そういう時期のベートーヴェンでもある。

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このベートーヴェンから遡ること約10年前の1990年――クラウディオ・アバドは帝王カラヤンの後任として、ベルリン・フィルの芸術監督に選出された。このベルリン・フィルのシェフ就任をもって、事実上アバドは世界最高の指揮者として見なされるようになる。

アバドの前任者は、カラヤンであり、フルトヴェングラーである。前任者たちはベルリン・フィルのシェフをもってそのキャリアのピークを築き、それぞれの時代の最高の指揮者として、生涯の最後までベルリン・フィルに君臨した。それはすなわち、ベルリン・フィルを退くときが、彼らの音楽家としての引退のときでもあったということだ。これに対し、アバドは体調の問題で比較的若くしてベルリン・フィルを去る結果となった。そして、その後みごとにその病魔を克服し、「世界最高の指揮者」という立場のあとの時代を生きている。

現在のアバドは、写真など見るかぎりでは順調に回復して、とても元気そうだ。「あとの時代」を生きるアバドの活動はとても印象的だ。1990年代から活動をはじめていたマーラー室内管弦楽団や、それを母体としてソリスト級の奏者が集まったルツェルン祝祭管弦楽団を組織し、ベルリン時代の先鋭的な演奏スタイルからうってかわって、重厚で濃密な音楽を奏で、高い評価を得ている。

Abbado-Carmignola2004年にはイタリアのボローニャを本拠地に若手(18歳から26歳)によるモーツァルト管弦楽団を設立、その成果が冒頭でご紹介した、モーツァルトの交響曲集と、カルミニョーラとのヴァイオリン協奏曲全集だ。オーケストラはどちらも当然モーツァルト管弦楽団で、交響曲集のほうはカルミニョーラがコンサート・マスターをつとめている。ヴァイオリン協奏曲も交響曲も、どちらも軽やかで明るく、自然体で、現代オーケストラにピリオド奏法を折衷させた魅力的な演奏になっているが、ぼくはやはり最初の印象通り、より溌剌として楽しいヴァイオリン協奏曲全集のほうが好きだ。

アバドは、キャリアの頂点となるベルリン・フィル芸術監督の「あとの時代」を生きているという表現をしたけれど、こうしてみると、それはまちがいなのかもしれない。ルツェルン祝祭管やモーツァルト管との演奏を聴いていると、これからが彼の活動のピークとなっていく予感がしてくる。ぜひ、そうであってほしいと思う。

 

 

Annotations :
モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲全集、協奏交響曲 : Mozart: The Violin Concertos
Giuliano Carmignola, Violin
Danusha Waśkiewics, Viola
Claudio Abbado, Conductor
Orchestra Mozart
Archiv: 00289 477 7371 
Link : HMVジャパン
モーツァルト/交響曲集 : Mozart: Symphonies Nos.29, 33, 35, 38, 41
Claudio Abbado, Conductor
Orchestra Mozart
Archiv: 00289 477 7598
Link : HMVジャパン
ベートーヴェン/交響曲全集 : Beethoven: The Symphonies
Claudio Abbado, Conductor 
Berliner Philharmoniker 
DG(Deutsche Grammophon): 00289 477 5864
Link : HMVジャパン

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2008年6月 8日 (日)

エマーソン弦楽四重奏団の J.S.バッハ『フーガ集』

Emerson-Bach-Fugues ときどき、あまり聴きたいわけでもないのに、まるで義務であるかのように買ってしまうCDがある。聴いてみてちょっとがっかり――というのはしかたがないにしても、そもそも買おうかどうしようかという状態のときに、たいして聴きたいわけでもないはずなのに、長い「購入候補リスト」の上位に突然上がってくるCD。たいてい、それは新譜で、話題性のあるCDということになる。

先日とりあげた例では、ピエール=ロラン・エマールのバッハがそうだった。これはそのときにご報告したとおり、聴いてみて驚いて、自分の先入観をすこし恥ずかしく思いつつ、愛聴盤のひとつになった。なお、これは余談ながら、一昨日(6月7日)、そのエマールが『フーガの技法』をリサイタルで弾いているのを偶然にテレビで見かけた。もうすこし早くから放送に気がついていればよかった、と悔やみつつ興味深く見た。楽譜を見ながら弾いているのが印象的だった。


Mozart-Abbado-Carmignola あるいは――これも結果としてよかった例――最近クラウディオ・アバドが故国イタリアで進めている、若いオーケストラ「モーツァルト管弦楽団」との一連の録音。モーツァルトの交響曲集とヴァイオリン協奏曲全集のふたつが出ている。ぼくはいまのカルミニョーラのモーツァルトへの興味もあって、ヴァイオリン協奏曲全集を買った。オーケストラの溌剌とした新鮮な響きと、アバドとカルミニョーラによる肩の力の抜けたのびのびとした「大人のモーツァルト」が聴けて、とてもよかった。正直、買うときにはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を自分が熱心に聴くとも思えなかったけれど、結局、休日の午前中、家にいるときにはよくこの録音を聴いている。この分だと、そのうち交響曲集のほうも買ってしまうかもしれない。

タイトルに挙げた、エマーソン弦楽四重奏団によるバッハの『フーガ集』は、逆にあまり肯定的には聴けなかった例だ。

エマーソン弦楽四重奏団といえば、いうまでもなく、ニューヨークを拠点として活躍する、いまやアメリカのみならず世界を代表するカルテットのひとつだ。デビュー当時からその先鋭的な解釈、演奏が話題になり、1997年のベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、ちょっとした事件と言っていいくらいの反響を引き起こした。躍動的、スリリング、スポーツカー、伝統無視、そんな形容で語られることが多かった。ぼくも、そんな彼らのベートーヴェンの弦楽四重奏曲をよく聴いているし、モーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏曲は、一時期は家族中(笑)での愛聴盤にすらなった。

Emerson-IntimateVoices そうしたエマーソン弦楽四重奏団の特質からして、近代・現代の作品での録音が多く、評価も高い。バルトークやショスタコーヴィチはその代表的な例だ。最近ではさらに変化球気味に、グリーグ、ニールセン、シベリウスという北欧の作曲家による弦楽四重奏曲集を発表して話題になった。こうした楽曲は、たとえばフィンランディアやBISといった北欧系のレーベルから発売になるというのであればわかるが、メジャー・レーベルであるDGから発売になるというのはめずらしい。こうした企画が、演奏者自身によるものなのか、あるいはレコード会社による発案なのか、ぼくにはよくわからないけれど、エマーソン弦楽四重奏団が持つイメージと、レコード会社が求める話題性がぴたりと一致して、具体的な成果として出てきたものだという印象だ。

そんなエマーソン弦楽四重奏団の最近の特徴的な活動のひとつとして、トランスクリプションの演奏がある。

トランスクリプション(編曲版)とはいっても、彼らのやることだから、いわゆる有名な曲をカルテットで演奏しました、というような単純なものではない。2003年にバッハの『フーガの技法』、その翌年にはハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』をリリースしている。ちなみに、これらの楽曲は、ぼくが勝手にトランスクリプション系だと言っているだけで、厳密にはたぶん正しくない。たとえばハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』は、たしかにもともとオーケストラの楽曲として作曲されたものだけれど、弦楽四重奏曲版に編曲したのは作曲者自身であり、トランスクリプションではなく本来の弦楽四重奏曲だという考えかたもできる。ぼくがここでいう「トランスクリプション」というのは、字義通りの編曲版ということではなく、通常ではあまり弦楽四重奏としては演奏されない楽曲を、企画的な意図も含めて演奏すること、くらいの意味だ。

Emerson-Bach『フーガの技法』の楽曲そのものは、エマールの同曲の演奏について書いたときに触れたので、その由来についてはもうここではくり返さない。エマーソン弦楽四重奏団によるこのCDが発売されたとき、ぼくは大いなる興味と期待をもって購入した。そして一聴して首をかしげた。ほとんどなにも、感じるものがなかった。演奏がとても平板的に聴こえた。

それは、ぼくの音楽演奏の背景知識が貧弱だからかもしれない。この『フーガの技法』を弦楽四重奏として演奏することが、どれほど技術的に困難なことか、平板的と感じられた演奏を実現することがどれだけ驚異的なのか、ほとんどわからない。だから単純に『フーガの技法』のトランスクリプションとして聴いた。

そこになにを期待していたのか。それまでのエマーソン弦楽四重奏団の演奏に対する肯定的な印象と、いっぽうで――これはべつの演奏家のものだが――おなじように弦楽器を交えて演奏した、リナルド・アレッサンドリーニとコンチェルト・イタリアーノによる、研ぎ澄まされ、緊張と生命感に溢れた音楽の印象――そうしたものが脳裏にあったのだと思う。

Emerson-Haydn翌年にリリースされた、ハイドンの『十字架上の最後の七つの言葉』でも、平板的という印象は変わらなかった。ただこの楽曲のことは、そもそもよく知らないところが多いから、ぼくはきちんとはわかっていないのかもしれない。弦楽四重奏としての美しさはわかったけれど、魅力という意味では感じとることができなかった。

Emerson-Bach2そうして今年――2008年、3作目となるトランスクリプション、『フーガ集』がリリースされた。このリリースのことを知ったとき、どうしても前2作のことが脳裏をかすめ、あまり積極的には聴きたいという気持ちにはなれなかった。でも買った。ここまでくると買うとか買わないとか、そういう議論はないような気がした。こんどこそ、という期待感もあった。

この『フーガ集』は、バッハの鍵盤楽器用の『平均律クラヴィーア曲集』から編曲されたものだ。主な編曲者は、モーツァルトと同時代の作曲家だというフェルスター。「主な」というのは、このアルバムにはフェルスターのほかに、モーツァルトによる編曲で、K.405として知られる『5つの4声フーガ』の5曲と、ベートーヴェンの編曲による1曲が収められているからだ。

聴いた結果はといえば――楽曲がちがうとはいえ、その演奏から受ける印象は、やはり『フーガの技法』と大きくはかわらなかった。美しくはあるけれど平板的で重たく、魅力的とは感じられなかった。どうもくり返して聴きたいという気持ちにならない。

こうした印象になる理由のひとつには、聴くほうの耳が古楽器によるピリオド奏法に慣れてきてしまっている、ということがあるのだと思う。ノン・ビブラートで軽快に、躍動的に音楽の生命感を伝えていこうという最近のアプローチは、さきに挙げたアレッサンドリーニによるバッハでも、音楽の緊迫感となって力強く伝わってくる。

でも――そもそもエマーソン弦楽四重奏団は、スリリングで先鋭的な音楽の旗手として語られることが多かったのではないか。それがここにきて、急に保守的で鈍重になってしまったのだろうか。

この記事を書くにあたって、手許にあるさまざまな彼らの演奏を聴きなおしてみた。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いているとき、ふと思いついて、ジュリアード弦楽四重奏団の90年代の録音をかけてみた。乱暴な言いかたをすれば、演奏を収録した時期はほぼいっしょであっても、エマーソンは新世代、ジュリアードは前世代の演奏家だ。そして、こうしてあらためて比べてみると、前世代であるはずのジュリアード弦楽四重奏団の演奏のほうが、活力と躍動感があった。

そういうことか――すでに多くの方々が理解されていることに、ぼくはいまようやく気がついたのだと思う。スマートでスリリングな演奏といわれる故に、エマーソン弦楽四重奏団の演奏には、力強さが感じられない。緊迫感はあるけれど、決して躍動的ではない。それがバッハやハイドンのバロック音楽において、ことさらに表面化してきたのだと思う。それはどこか、まえに触れたカラヤンの音楽美学に通じるものがある。

エマーソン弦楽四重奏団は、さまざまな挑戦を厭わない、アグレッシヴな演奏家集団だ。今回のバッハにしても、ぼくにはそれを受けとる器がなかったということだけで、高い演奏技術や深い作品への理解など、世間ではおおむね高い評価で迎えられている。でもやっぱり、今回の演奏は、ぼくとしてはどうも好きにはなれない。画期的な試みだけに、そしてこうした試みを世間で話題にできるだけのブランド力があるだけに、個人的には残念な気持ちが拭いきれないけれど、まあそれはそれで仕方がない。

Emerson-Mozart-Brahms いっぽうで、さきに挙げたモーツァルトやブラームスの演奏は、あらためて聴いてみると、彼らの「薄味」の部分が、ある種のさわやかさにもつながっていて、気持ちがいい。ブラームスで「さわやか」とはなにごとぞ、という話もあるけれど、手許にあるものでマイヤーとABQによる演奏に比べてみても、シフリンとエマーソンの演奏は、これはこれでやっぱりよいのだ。だからこそ、わが家のような素人集団でも、重たさと悲しみにメゲるようなこともなく、くり返し聴くことができたのだろう。

 

弦の奏法という意味で、今回のバッハの演奏を支点にして、はからずも現在の古楽界の演奏とエマーソン弦楽四重奏団の演奏を比べることになった。両者は似ているようでいて、じつは対極にあるということに今回はじめて気がついた。

弦楽四重奏という演奏形式は、ハイドンが開拓し、ベートーヴェンが確立したとされる。それ故に、この弦楽四重奏を旨とする演奏家集団は、バロック音楽の奏法とは直截的には邂逅することはないのかもしれない。それでも、趨勢としてはピリオド奏法が確実にベートーヴェンの演奏を変えつつあるし、やがてはこの弦楽四重奏の分野にも、さまざまな影響を及ぼしてくるのかも――なんて、つい想像してしまう。でも、それをやるとしたら、エマーソン弦楽四重奏団ではないのかもしれない。

ぼくは決してピリオド奏法信者というわけではない。それでも、これらの奏法の考えかたの基礎のひとつとなっている、音楽に生命力や躍動感を、という方向性は、ひとりの聴き手として歓迎している。それが「奇をてらう」ような演奏になってしまったら困るけれど。

 

 

Annotations :
J.S.バッハ: フーガ集 / エマーソン弦楽四重奏団 :
J.S.Bach: Fugues 
Emerson String Quartet 
DG: 00289 477 7458 
Link : HMVジャパン
J.S.バッハ: フーガの技法 / エマーソン弦楽四重奏団 :
J.S.Bach: The Art of Fugue
Emerson String Quartet
DG 474 495-2
Link : HMVジャパン
J.S.バッハ: フーガの技法 / エマール : 
J.S.Bach: DIE KUNST DER FUGE 
Pierre-Laurent Aimard, Piano 
DG 00289 477 7345
Link : HMVジャパン
J.S.バッハ: フーガの技法 / アレッサンドリーニ/コンツェルト・イタリアーノ :
J.S.Bach: DIE KUNST DER FUGE 
Concerto Italiano
Rinaldo Alessandrini 
OPUS111 OPS 30-191
Link : HMVジャパン
 

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2008年6月 1日 (日)

マイク・オールドフィールドでクラシック

MikeOldfieldPiano いったいどういう経緯なのかよくわからないのだが、マイク・オールドフィールドの『Tubular Bells』がクラシックの新譜として発売された。HMVで1枚660円という廉価盤ながら2005年の立派な新録音で、クラシック専門レーベル "BRILLIANT CLASSICS" からのリリースだ。

演奏しているのはもちろん本人ではない。4人からなるピアノ・アンサンブル――そのまま "Piano Ensemble" とクレジットされている――のメンバによって編曲されている。特徴的なのは、おなじ『Tubular Bells』が楽器を変え、ピアノ2台+シンセサイザー2台版、そしてピアノ4台版の2種類の演奏が収録されていることだ。両者は本当に楽器を変えているという程度の差しかなく、演奏時間もほぼおなじだ。


MikeOldfieldTribute『Tubular Bells』が、こうしてトリビュートのように演奏されることは、じつはそんなに珍しいことではない。手許には、ほかにも Duo Sonare によるクラシック・ギター2台による演奏、スタジオ・ミュージシャンのよくわからないユニット "Studio 99" による電子楽器を駆使した演奏もある。この Studio 99 版は、できあがった音楽としてはそこそこまとまっているものの、聴き手としては残念ながらトリビュートというよりはパロディにしか聴こえず、よほど心に余裕がないとなかなか聴こうという気にならない (というか、1回しか聴いていない。この記事を書くためにもう一度聴こうとしたけれど、やはり全部は無理だった)。

いっぽうギター・デュオ Duo Sonare のほうは、こちらはアコースティック・ギターによる演奏で、モノトーンの独特の世界観があり、そこにさまざまな演奏技法を駆使することで、『Tubular Bells』のおもちゃ箱を表現しようとしているところがおもしろく、これはこれで楽しめる。

今回の Piano Ensemble による『Tubular Bells』は、どちらかといえば、この Duo Sonare による演奏の印象に近い。実際にCDが届いてみてはじめて気がついたのだが、収録されているのは『Tubular Bells』の Part 1 だけで、ジャケットにもそうはっきり明記してある。通して聴いてみると、この Part 1 の部分だけがピアノ2台+シンセサイザー2台版、そしてピアノ4台版と、くり返して演奏されることになる。ひょっとしたらそのうち Part 2 がリリースされるのかもしれないけれど、『Tubular Bells』というひとつの楽曲の前半部だけを――表現は多少ちがうとはいえ――2回くり返すというのは、ちょっと中途半端の感は否めない。

さて、肝心の演奏のほうはといえば――けっこうドキドキしながら聴きはじめてみると、しごく真面目なものだった。さすがはクラシック音楽としてのリリースだと変に感心した。いっぽうで、25分に近い演奏時間を切れ目なくピアノだけで奏でるというのは、さすがにちょっと単調な感じも否めない。録音にすこしエコー感があり、鮮明というよりは薄く幕をかけたような音色になっていことも関係しているのかもしれない。ギターによる Duo Sonare は弦楽器の特徴を生かしてハーモニクスやらグリッサンドやら多彩な音を引き出してくるし、天板を打楽器として叩いたり本人たちが雄叫びをあげたり、けっこう体当たりな演奏をくり広げる。Piano Ensemble ではピアノ演奏にかぎってはそういう特殊奏法はいっさいない。プリペアド・ピアノを用いたり、足を踏み鳴らしたり、やろうと思えばやれることはあるのだろうけれど、ここはいたって正攻法的な演奏だ。その意味では冒頭のシンセサイザーとの組み合わせのほうが聴いていて色彩感があり、最初はとっつきやすい。ただ、くり返して聴いているのはなぜか4台のピアノによる演奏のほうばかりだ。

Part 1の終盤、独特のベースラインがくり返し演奏されるなか、オリジナルでは出演する各楽器がダミ声で紹介されていく。Piano Ensemble 版では誰もなにもしゃべらないが、ピアノの音がすこしずつ重みを増し、やがて迫力のある壮大な音楽を形作っていく――ここが聴きどころだろう。正直なところ最初はうるさくも感じたけれど、結局引き込まれてしまう。

全体として、オリジナルが作曲された当時、19歳のマイクが抱えていたような狂気と紙一重の執念や、ドロドロとうごめく得体の知れないエネルギーといったものはそこにはさすがに感じられないが、Piano Ensemble によって再構成されたことで、エネルギーだけにささえられたものではなく、楽曲として充分に高い完成度を持っていることが改めて確認できる。

なお Piano Ensemble 盤 Part 1 の最後は、オリジナルの心穏やかな静けさに帰っていく形式ではなく、マイク自身がライブで演奏しているように、力強い踏み込みで終わる。

MikeOldfieldTop HMVのサイトでこのCDのリリースがアナウンスされたとき、いくつか驚くようなことがあった。ひとつは冒頭でも触れたように、オールドフィールドの音楽がクラシックレーベルから発売され、HMVもクラシックサイトでこのCDをとりあげたこと。そして、なぜか積極的にHMVがこのCDを宣伝したこと。かなり長いあいだトップページにニュース・リリースが掲載されていたように思う。

そしてもっとも驚いたのは――HMVのクラシックサイトで、ほんの一時期にせよ、ランキングでこのCDが第1位になったことだ。世界中を席巻したという1970年代ならいざ知らず、どういうランキングにせよ、マイク・オールドフィールドの音楽がいまになって1位になるようなことがあろうとは、思ってもみなかった。ある晩、HMVのサイトを眺めていてこの異常事態に気がつき、思わずハードコピーをとったのが、左上の画像だ。他のランキングから見て、いわゆるライト・クラシックでフィルタされているような気もするけれど、そういうことはこの際どうでもよくて、1位は1位だ。思わず夜中に「うおお」と呻いたことを覚えている。やっぱり『Tubular Bells』というコンテンツの価値は強力ということか。

 

 

Annotations :
Mike Oldfield / Tubular Bells Part 1
Version for two piano and two synthesizers
Version for four pianos
arranged by Marcel Bergmann 
Piano Ensemble 
Brilliant Classics: 8812
Link : HMVジャパン
今回ご紹介した、Piano Ensemble盤。
DUO SONARE plays Mike Oldfield
DUO SONARE 
MDG 630-0628-2
Link : HMVジャパン
本文中で触れたギター・デュオ盤。
Mike Oldfield / Tubular Bells - Remaster 
Mike Oldfield
Virgin 49388
Link : HMVジャパン
こちらがオリジナル盤。
Mike Oldfield / Tubular Bells 2003 
Mike Oldfield
Virgin 49388
Link : HMVジャパン
こちらは以前ご紹介した、Mike自身によるリメイク。よくできていて、いまなら個人的にはこの2003年盤がお勧め。一部でCCCD(コピーコントロールCD)になっている場合があるので注意。

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2008年5月11日 (日)

foobar2000 と Windows Vista サイドバー ガジェット (その2)

foobar2000Gadget 先日、Law James 氏による "Now Playing" という Vista 用のサイドバー・ガジェットをご紹介した。それをすこし自分用に改造させてもらって使っているという話もした。

それが――薄々そうなるような気はしていたのだが――いろいろと調整しているうちに面倒くさくなり、結局ぜんぶ自分で作りなおすことにした。いやもちろん、自分で作るほうがよほど面倒だという話もあるけれど、「いつでももとにもどせるように」と改修箇所に足跡を残したりしているうちに足跡だらけで煩雑になってきて、「もとにもどす機会」など絶対にこないと思うようになった。そして James 氏にはやや失礼ながら、もともとの構造上の混沌感も気になりはじめて、もはやもとにもどす気がないのであれば、まっさらのところから作りなおしたほうがいいという自暴自棄的な結論に至ったのだ。その成果が、左上に表示しているスナッショットだ。


おかげで、今年のゴールデン・ウィークはこのガジェットと CSS と JavaScript 漬けの日々になった。自宅にいるあいだは当然として、子供たちを連れて実家に帰ったときも、ずっとノートPCと向きあっていた。親からすれば、たまにしか帰ってこないのに「いったい、なにしに来たんや」という状況のはずなのだけれど、じつはこれはそうでもなくて、要するにぼくは車を運転してかわいい孫を連れて行きさえすればそれで役割は果たしたも同然なのだ。ただまあ、いい年こいて iPod を首からぶら下げてPCに向かって没入している姿は、かなり感じの悪いものだったにはちがいない。

ぼくは長らくソフトウェア開発をやってきたけれど、 Web まわりの開発技術にはまったく弱い。仕事ではバックエンドのデーモンやサービスの開発が多く、また個人的にやっていたフリーソフトやシェアウェアも、いわゆる Windows ネイティヴの GUI アプリばかり。言語はもっぱら溺愛する C++。もうそろそろレガシーの仲間入りだ。それに追い討ちをかけるように、この数年は自分で直接作業をするということがあまりなくなってきて、かわりに頼もしい (?) 若い連中が活躍してくれるようになった。 Web まわりの仕事は、ぼく自身は爪先立ちでようすをうかがうような気持ちで接してきた。

そんな状況なものだから、いまどきのひとたちなら常識の範疇ですませてしまうようなことが、いちいち調べながらになって、だいぶ時間がかかった。おまけにこの手のアプリケーションでは、なにかと画像素材が必要になる。これまでデジカメ写真の処理でしか使っていなかった Adobe Photoshop Elements 6 をひっぱりだしてきて、はじめて使う機能に悩みながら、そもそも持ちあわせていない絵心を叱咤激励し、素材を作るだけでもまる一日かかった。

でもおかげで、さまざまなことが勉強できた。 JavaScript は Java というよりまるで C言語+Variant スクリプトじゃねえかと思いつつ――そんなことも知らなかったのだ――連休が終わるころには、どうか自分でクラス (カスタムオブジェクト) を作れるようになり、そうなるとカプセル化もできるようになる。そうして日に日に構造もマシなものになっていった。

また、Vista ガジェットは、当然のごとく Windows Vista で動作する。ということは、ブラウザ環境として Internet Explorer 7 の環境を前提としていいということだ。これはありがたかった。ブラウザの互換性の問題に悩んでいたら、とても数日程度の休暇では仕上げられなかっただろう。

ガジェットの基本構造は、James 氏のものではなく、MSDN に掲載されていたDonavon West 氏の記事のものを参考にした。なんでもかんでもスクリプト側で処理して、HTML/CSS 側を徹底的に簡素にする氏のやり方は全面的には賛成しかねるものの、入門者としてはとても役に立った。

できあがったガジェットは、冒頭にあげた画像で見てのとおり、サイドバーにドッキングした状態でありながら、すこし外にはみ出している。お行儀の悪いガジェットである。いろいろ迷ったけれど、これくらいが「表示する情報量」と「土地代」のバランスがいいような気がしたからだ。このあたりの大きさは、設定で変えられるようにした。

foobar2000Gadget2ぼくが使わない機能は、ほとんど入れなかった。対応しているプレーヤーソフトは foobar2000 だけだし、歌詞の対応も amazon の商品ページへのリンクもない。トラック名はアルバムジャケットの上に表示して長い曲名でもわかりやすくして、再生位置やトラック情報は専用の表示場所を用意した。

ときどき、反応が鈍くなり、foobar2000 での再生が「詰まる」場合がある。たぶん foobar2000 の COM Automation Server プラグイン側で例外が発生しているのだろうと思うが、まだよくわからない。詰まっている数秒のあいだは、Windows の WerFault.exe が起動している。Sidebar.exe から見ると foobar2000.exe はアウトプロセスサーバということになり、Sidebar.exe からの COM Automation Server 経由でのアクセスと、 foobar2000 自身の動作とで、排他がうまくいっていないのかもしれない。曲の再生しはじめや、foobar2000 の終了時によく発生している気がするけれど、いずれにしてももうしばらくその辺は調べていく必要がありそうだ。

冒頭にあげた画像で、下についている小さいガジェットは、勢いでこの土日に作成した、プリアンプ MIMESIS 27ME の状態表示ガジェットだ。ボリューム位置や入力チャネルなどが表示されている。背景には、このアンプのアイコンであるローレット加工のボリュームの写真を加工して貼りこんであるが、見てのとおりじつはこのブログのタイトル用に撮影した写真とおなじものだ。

MIMESIS27 もともとはタスクトレーに常駐し、 RS-232C 経由で MIMESIS 27 を制御する Win32 版のツールを作って使っていたのだが、タスクトレーだけでは表示できる情報が小さすぎ、ポップアップを出せば邪魔になる。これもガジェットにしたことで快適になった。ガジェットから RS-232C の通信をさせるのは簡単にはできなさそうなので、このタスクトレー用のツールを介して通信を行っている。

ガジェットそのものはたいしたことはなかったけれど、タスクトレー用のツールに対して OLE オートメーションサーバの機能を加えるところが大変だった。どうも OLE はややこしい。スクリプティングの世界から見ると、とても簡単で便利なものなのだが。

追記: ここでご紹介したガジェットを公開しました。問題も対策ずみです。詳しくはここを参照ください。

 

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2008年4月27日 (日)

インマゼール&アニマ・エテルナによる、ベートーヴェン交響曲全集

Immerseel-Beethoven2 ジョス・ファン・インマゼールと彼の古楽器オーケストラ「アニマ・エテルナ」による、ベートーヴェンの交響曲全集が発売された。

インマゼールの名前は、ちょっとロリン・マゼールと似ているな(笑)、とか、そういうつまらないところで覚えていて、あとは学究的な演奏をしているひと、という程度にしか知らなかった。今回ベートーヴェンの交響曲全集を出すというので、その取り組みが目を引いたのと、HMVが全面的に「推す」姿勢をとっていたので、店のおすすめに従うようなかたちで、2月から予約をして楽しみに待っていた。つい最近まで、この見慣れない絵画によるベートーヴェンのジャケットは、HMVクラシックのトップページのどこかにいつも掲載されていたような気がする。


これは輸入盤なのだが、なかにはキング・インターナショナルによる日本語の小さなブックレットが入っている。これはインマゼール自身によるremarksを邦訳したもので、ふだんあまり勉強する機会のないぼくには、とても面白かった。それは『ピリオド奏法とテンポとベーレンライター版』のときにぼくも浅学ながら触れたような「なにを最終稿とみなすか」という問題であったり、その過程でデル・マーとのウィーン学友協会図書室の資料上での邂逅があったこと、そしてもちろん、ベートーヴェンが活躍した当時の楽器を用いてそれを再現しようとすること、あるべきオーケストラ編成、音響など、この全集を形成する上での考察がまとめられている。

さて、実際の演奏はといえば、簡潔にして明瞭、活き活きとして、とても魅力的だ。ベートーヴェンによるメトロノーム記号表示にしたがっているのでテンポも快走、でも決して早すぎると感じることはない。このベートーヴェン自身によって書かれたメトロノーム記号は、かねてから「早すぎる」いわれ、メトロノーム故障説など、いろいろその有効性を疑問視されていた。インマゼールはモダン楽器ではたしかに早すぎて演奏困難であることを認めつつ、ピリオド楽器を用いた室内楽的小編成オーケストラであるアニマ・エテルナであればそれは可能として、実際に演奏でそれをきちんと証明している。不自然さはどこにも感じられない。

ほかにも、この全集にはさまざまな研究の成果が反映されているのだと思うが、残念ながらぼくにはそれをきちんと受けとめられるだけの素養がない。ただ、ひとりの単純な聴衆として聴くと、明朗快活で躍動的、軽すぎず重すぎず、その気になれば気軽に聴くこともできるし、それでいて充実した密度感もある。ブックレットの邦訳の言葉を借りれば、この演奏にはたしかに「ベートーヴェンの厳粛さ、ドラマ性、陽気さ、ちゃめっ気がフルに現れ」ていると思う。

余談だが、この全集には序曲などいくつかの小品がおさめられている。最近ではコスト優先のせいか交響曲全集も最小構成ということが多く、その意味でもめずらしい。そんな小品群のなかで、祝祭劇『アテネの廃墟』作品113、だれもが知っている「トルコ行進曲」が溌剌として魅力的だった。ピリオド楽器のすこし乾いた音が、楽隊風に聴こえて、これぞアニマ・エテルナの真骨頂、とか言ったらちょっと顰蹙なのかもしれないけれど。

 

 

Annotations :
ベートーヴェン/交響曲全集 : Beethoven: Symphonies/Ouvertures
Jos van Immerseel, Conductor
ANIMA ETERNA
Zig-zag Territoires: ZZT080402.6
Link : HMVジャパン

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2008年4月26日 (土)

foobar2000 と Windows Vista サイドバー ガジェット

FoobarSidebar3 PCを音楽プレイヤーとして使うようになって、4年ほどが経過した。そのあいだ、ほぼずっと RME のオーディオカードと CHORD の DAC64 Mk2 という組みあわせで聴いている。

一時期は M-Audio のカードを使ったり、エソテリックの G-25U を入れて 88.2kHz や 176.4kHz にアップコンバートしたりもした。この構成だと、否応なくたまりはじめている SACD が聴けないという課題もあったりするけれど、結局はこの基本的な組みあわせに落ち着いている。


そうそう、以前話題にしたデジタルケーブルは、結局、オヤイデ電気商会の銀単線 FTVS-510 と、フルテックの RCA と BNC コネクタを使用して、自作する結果になった。銀単線ということでクセがありそうな気配だったけれど、ぼくがデジタルケーブルの基本と思っているシールドがしっかりしていること、高周波のデジタル信号だから純度優先でもいいだろうと思い、これを選んだ。結果として銀単線の悪そうなクセは顕著には出ていないようで、鮮明感と力感として感じられ、気に入って使いつづけている。

プレイヤーソフトは、ずっと foobar2000 をカスタマイズして使用している。フォーマットは以前は FLAC、いまはタグの扱いが簡単なので TTA。出力はあきらかに鮮度感がちがうので、 ASIO 経由にしている。

この環境で、先日――といっても半年ほどまえ――Windows XP から Windows Vista に大移行した。そのときのドタバタはご報告したとおりで、その後はなんとか安定的に使用できている。Windows Vista は、世間でなにをどう評価されようが、ぼくは断然気に入っている。その理由はただひとつ――ウィンドウの表示・消去の際に、フワッと出入りするからだ(笑)。

その Windows Vista にしてから、サイドバーというものがつくようになった (サードパーティによるサイドバーは、Google のものをはじめ Windows XP でも使用できるものもある)。

ディスプレイもワイドに変えて、便利に使用しているけれど、ひとつだけ、やりたくてもできないことがあった――それは、 foobar2000 で演奏中の曲をサイドバーに表示させたいということだった。ずっと "Pretty Popup" というプラグインを使用していたのだけれど、やはりデスクトップのどこに表示させてもどうしても邪魔になる。これをサイドバーという公式の居場所に納めることができれば、邪魔にならずいつでも表示させておくことができる。

インターネット上をさがしても見つからず、日曜大工がわりに自分で作ろうかとも思ったものの、そのときには foobar2000 の HTTP サーバプラグイン、あるいは独自のヘルパ・サービスを仲介させて、ガジェットから XMLHTTP オブジェクトで通信しようという構想でアプローチしていた。この方法だと、HTTP リクエストのキャッシュをかいくぐって無理に通信させたとしても、やはり毎秒更新は負荷的に疑問ののこる実装になってしまい、結局断念していた。

ところが最近になって、その名も "Now Playing" というガジェットを公開されている方がいるのを発見した。このガジェットは Windows Vista 用で、すばらしいことに、 Windows Media Player, iTunes, Winamp, MediaMonkey そして foobar2000 に対応している!

いったいどんな仕掛けで対応しているのだろうと思って調べてみたら、王道である COM オートメーションを介しての対応だった。要するに ActiveX だ。 foobar2000 では、foosion 氏がオートメーションサーバ・プラグインを提供されている。現段階では (というか2003年からずっと) まだアルファ版の状態で、ぼくも存在は知っていたけれど、この "アルファ版" というのが気になって、あまり真剣には調べなかったのだ。この "Now Playing" ガジェットの作者、 Law James 氏はこのオートメーションサーバをメインに、あとヘルパ・ツールを使用してガジェットを実装されている。すでにバージョンは 4.0x になっており、以前から提供されていたようだ。

さっそくダウンロードして使ってみた。それが冒頭に挙げたイメージだ。先日購入したスピノージのヴィヴァルディ "NISI DOMINUS" から "CRUCIFIXUS" をかけているところ。ジャケット画像や日本語も問題なくきちんと表示される。

表示方法は設定でさまざまに変更できる。ただ演奏時間は、マウスをガジェットの上にかざしているあいだだけは表示されるものの、常時表示させることはできないようだった。クラシックの場合は構成の大きな曲もあり、ときどき、いまどのあたりなのか確認したくなる。そのたびにマウスを動かすのもわずらわしい。それにトラック番号の表示もほしい。

それで、その部分はガジェットの内部をすこし改造させていただいて、演奏時間とトラック番号が常時表示できるようにして使っている。

"Now Playing" ガジェットは基本的にはフリーだが、寄付歓迎とのこと。これなら寄付させてもらってもいいかな、と思う。おかげで、ちょっとしたことだけれど、ずっと不満だったことが解消されて、またひとつPCの環境が快適になった(^^)。

追記: この話には後日談ができた。結局、このガジェットは使わず、自分で作りなおすことになった。とくに大きな不満があるわけでもなかったのだけれど....そのあたりの話は、「foobar2000 と Windows Vista サイドバー ガジェット (その2)」を参照ください。

 

 

Annotations :
"Now Playing" ガジェット作者 Law James 氏のホームページ :
Link : Law's Sidebar Gadget Development Blog

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2008年4月20日 (日)

ドイツ・ハルモニア・ムンディの50周年記念 ボックスセット

DHM-BOX-1 破格のボックスセットをつぎつぎとリリースして世間をにぎわせ、その販売手法を認知させたのは、たぶんオランダの Brilliantレーベルが最初だったと思う。2002 年の春、ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団による『ショスタコーヴィチの交響曲全集』11枚組を3千円弱という価格で提供して、大いに話題になった。

これまでボックスセットといえば、多少古めになって話題性も少なくなってきた録音をまとめて、というかたちが一般的だったように思うが、このバルシャイによるショスタコーヴィチは、 1990 年代に入ってからの新しいデジタル録音で、演奏も高水準、ということで話題になった。そして、なんといっても『ショスタコーヴィチの交響曲全集』という企画の絶妙さ――だれしも興味は持ちつつも、サイフの優先度の関係でなかなか買えなかったものが、これなら買おうという気になる――が受けて人気のアイテムとなり、いまでは「廉価盤であるかどうか」という観点は抜きにして「バルシャイ盤」として一定のポジションで語られるようになった。


ぼくも当時、このバルシャイ盤を嬉々として購入したひとりだ。他にもカルミニョーラによるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集、ブロムシュテットやサヴァリッシュのベートーヴェン交響曲全集、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全集、ラヴェルの管弦楽曲全集など、数え上げればきりがないほど、このレーベルにはお世話になっている。

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その後各レーベルからさまざまなボックスセットが発売されるようになったが、ここにきて、意表を突いてドイツ・ハルモニア・ムンディDHM)から巨大なボックスセットが発売された。意表を突いたというのは、現在はソニーBMGの傘下にあるとはいえ――DHMがバロック音楽を中心とした地味ながら真面目な作品を着実にリリースしている中堅レーベルであり(ぼくもクイケン兄弟を中心としたディスクを何枚か持っている)、どうもこうしたボックスセットのような廉価販売という印象に結びつかなかったというところにある。

そしてだれもが瞠目したのは、その内容だった――じつに50枚組で5千円強! それも古い録音の寄せあつめのようなものではなく、1990 年代の比較的新しい録音を中心に、かつて単独でリリースされた内容の濃いアルバムが集められている。これはボックスセットといいながら、内容は独立した50枚のアルバムがまとめてそれぞれ百円強で買える、ということだ(正確にはバッハのロ短調ミサなど2枚組のものも含まれるけれど)。

DHM-BOX-2限定盤ながらきわめて中身の濃い、この50周年記念ボックスの発売がアナウンスされたとき、その強烈なインパクトからさまざまな場所でちょっとした旋風が巻き起こったようだ。そのほとんどが、こうした貴重な録音が超廉価に販売されることに対する危機感の表明と、同時に一消費者としての「うれしい悲鳴」だった――そんなに格安で大量に買ってしまったら、1枚1枚を大切に聴くことができなくなるのではないか――それはぼくもまったく同感だった。

この50枚のなかには、すでにぼくが単品として購入したCDも含まれている。では、のこりのCDを、この単品で買ったCDのときとおなじくらい大切に聴くことができるだろうか――それはもちろん気持ちだけの問題だ。でもぼくも、インターネット上のおなじ意見の方々も、それは簡単なようでむずかしい問題だと充分にわかっている。一部には、そういう姿勢になりそうな自分が許せないとして、このボックスセットを「買わない!」宣言をされた方もおられた。その勇気と良識にはほんとうに敬服する――けれど、ぼくは買った(爆)。

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それが昨日、HMVから宅配便で届いた。昨日の今日の、というところだから当然すべてを聴いたというような状況ではない。というか、ほかにも届いた大量のセットCDもあって――長くなるのでその話はまたいずれ――ようやく1枚、最初の1枚を聴いたところだ。

ぼくはバロック音楽は聴くけれど、詳しくはない。さっき聴いたCDには、ドゥランテ (Durante)、アストルガ (Astorga)、ペルゴレージ (Pergolesi)の作品が収録されている。ペルゴレージはともかくとして、ドゥランテもアストルガも正直なところ名前すらはじめて聞く――こうした無名にちかい作曲家の作品を演奏することに力を注いでいるという、トーマス・ヘンゲルブロックとフライブルク・バロック管弦楽団の演奏は鮮明で、美しい。

これからしばらく時間をかけて、ひとつひとつをなるべくゆっきり聴いていきたいと思う。どういう音楽、どういう演奏と出会えるのか――ここに、あと49枚もCDがあるなんて、やっぱりちょっと信じられない(笑)。

 

 

Annotations :
ドイツ・ハルモニア・ムンディ : Deutsche Harmonia Mundi (DHM)
フランスにルーツをおなじくする Harmonia Mundi, France (HMF)というレーベルがある。ルーツがおなじとはいっても、DHMとHMFは現在は別会社である。どちらもバロック、古楽の分野で素晴らしいCDをリリースしつづけている。
ドイツ・ハルモニア・ムンディ50周年記念ボックス : 
この記事を書いたときには、まだTower Records で注文ができたのだが、その後あっというまに受注停止となってしまった。なんだか申し訳ないけれど、ご容赦ください。
ショスタコーヴィチ/交響曲全集 : Shostakovich/Symphonies
Rudolf Barshai, Conductor
WDR Sinfonieorchester
Brilliant Classics: BRL6324
本文中でご紹介したとおり、発売当時は3,000円以下という価格設定だったのだが、いまはマルチバイ価格で5,191円になっている。
Link : HMVジャパン

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2008年4月12日 (土)

カラヤン、ベートーヴェン、ブルックナー

Beethoven-Karajan

カラヤンのことについて書こうとすると、あまりにも有名すぎて「いまさら」感がともなってしまい、どうも書きにくい。さらに追い討ちをかけるように、今年はカラヤン生誕100年ということで、いまだにドル箱といわれるカラヤンの音楽をレコード会社が競うように発売していて、ますます「いまさら」な話題の感が否めなくなってきた(笑)。

そういう時流に乗っかったわけでは決してないのだけれど、じつははじめて、カラヤンのベートーヴェン全集を買った。われながらさらに「いまさら」な話だ。よりによってカラヤンのベートーヴェンなんて。ベートーヴェン交響曲全集をいったい何式持っているのか、数えてみたことはないのでわからないけれど、十数番目でのわが家へのご到着、だと思う。


購入したのは、カラヤン最後の80年代の録音ではなく、カラヤンの理想がもっともよく現れているといわれる、70年代の録音。オーケストラはもちろんベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。ユニバーサル・ミュージックが eloquence シリーズとして出している廉価盤のうちのひとつだ。

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ヘルベルト・フォン・カラヤンは、言うまでもなく、クラシック音楽界のスーパースターだった。 1908 年オーストリアのザルツブルグ生まれ。名前がしめすように、貴族の生まれで裕福な家庭に育った。若いころの下積み生活のあと、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルの世界2大オーケストラで活躍し、とくにベルリン・フィルとは34年間に渡って芸術総監督、つまり絶対権力者として君臨した。フェラーリやポルシェといったスポーツカーを愛し、航空機やヨットをみずから操縦し、スキーもプロ級の腕前だったという。

要するに、なにをしても人なみ以上のことができるひとだった。ぼくには想像するしかないのだけれど、そういうひとがいる、ということは理解できる。恵まれた能力が恵まれた環境で育まれ、感性を磨き、上昇志向と強い意思を持つにいたり、それがリーダーシップや誠実さ、あるいはナルシズムにもつながる。

音楽家以外の道を歩んでいたとしても一定の成功を収めることができたのだろうが、すくなくとも当時のクラシック音楽の世界は、宿命のライヴァル的存在だったフルトヴェングラーが象徴するように、どちらかといえば愚直・学究的な世界だったようであり、カラヤンのような資質をもつ人物の放つ「輝き」の眩しさは圧倒的だったのではないかと思う。そうして歴史上、最初で最後といわれる「帝王」カラヤンが誕生した。

今回購入した70年代のベートーヴェン交響曲全集は、そんなカラヤンとベルリン・フィルの関係がもっとも熟していた時代のものだ。80年代に入ると、あまりにも長すぎた関係のためか、オーケストラとのささいなトラブルが大きく発展することもあり、ベルリンあるいはドイツ国内での批判的な意見も相次ぐようになっていく。結果としてカラヤンは隣国オーストリアでウィーン・フィルとの活動を増やしていくことになる。

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全集を開封して、迷ったすえに、まず第8番の交響曲を選んだ。一聴して、艶やかで美しく、快活なオーケストラの響きにため息が出た。音楽はすこしもためらうことなく、なめらかに、なめらかに進んでいく。かといってもちろん、ユルいわけではない。スポーティできびきびとしたテンポ感だ。柔軟で精練されており、まるでオリンピックの体操競技を見ているようでもある。

同時に、その響きに、いまとなってはすこしどこか古くさいものを感じてしまうこともたしかだ。その感覚はまるで「むかしのSF映画が描くような未来」というか、東京ディズニーランドのトゥモローランドで感じるような印象と共通するものがある。

このブログでもこれまで何度か触れてきたように、最近になってベートーヴェンの交響曲の演奏様式は大きく変貌した。その意味では、カラヤンの70年代の演奏は、いまとなっては大時代的と表現されるような演奏様式である。だがここにある「トゥモローランド感」は、それだけが理由のものではない。当時の聴衆を酔わせたであろう、独特のレガート奏法によるなめらかな音触と、流麗なテンポ感が、当時先鋭的であったからこそ、「かつて想像した未来」のような色あいを感じさせてしまうように思える。

だからこの全集がだめだとか、そういうことを言いたいわけではない。時代を代表するベートーヴェン交響曲全集のひとつであるのは当然として、さらにはこの全集には、ひとつの時代に君臨したカラヤンという男の美学がいっぱいにつまっている。それはじっくりと聴くに値するものだ。カラヤンの音楽には精神性がないと揶揄されたりもするが、そもそも音楽とは、あるいは音楽の精神性とは、というような話は視点によって見方もかわるものだから、なにが良くてなにが悪いかは微妙なところだ。すくなくとも、カラヤンの音楽は――外面的な印象とは裏腹に――とてもまじめで、誠実なものだと思う。

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今回の話は、ほんとうはここで終わっている。ただでさえ長すぎると不評(笑)のこのブログだけれど、カラヤンの音楽について書くのであれば、もうひとつ、どうしても触れておきたい演奏がある。

ぼくはずっと、カラヤンの熱心な聴衆というわけではなかった。上で書いたようなカラヤンの演奏の捉えかたは、ぼくがそれなりに年齢を食ってきたいまだからできるものであって、もっと若いころだったら、おなじように考えることができたかどうかは疑わしい。カラヤンはあまりにも有名で、それゆえに感じられる陳腐さとか、表層的だという一部の批判的な論評を鵜呑みにしたりもして、素直には聴けずにきたのだ。

Bruckner-Karajanそんななか、カラヤンの晩年―― 1980 年代の終わりごろに、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのブルックナーの交響曲第8番の演奏を、FMでのライブ放送で聴いた。

このブルックナーは、「いわゆるカラヤン」というようなイメージとはまったく異なっていた。穏やかで悠然としていて、しかも弛緩するようなところは微塵もなく、とても大きくて強い意思の存在を感じさせた。なにも惑わされず、迷わず、超然と歩んでいく音楽だった。この演奏はじめて聴いたとき、やや芝居がかった言いかたになるけれど、「これはまるで祈りのようだ」と思った。

このときの演奏は、同時期 1988 年のセッション録音が発売されていて、ライヴではない故にやや端正になっている気はするけれど、ほぼおなじものとして聴くことができる。これは、いまでもぼくにとって特別な1枚となっている。

結果として、このブルックナーはカラヤンの最晩年の録音のひとつ、ということになった。カラヤンはその翌年、 1989 年に亡くなった。心不全だった。ザルツブルグの自宅で、ソニーの大賀会長と「次のステップについて」話している最中の出来事だった。

一説によると、全世界で販売されたクラシックのレコード・CDのうち、その3分の2がカラヤンの演奏によるものだという。

 

 

Annotations :
ベートーヴェン/交響曲全集 (1970年代) : Karajan dirigiert Beethoven
Herbert von Karajan, Conductor
Berliner Philharmoniker
Wiener Singverein 
eloquence : 442 9924
この記事を書いたときには、マルチバイ価格で3,379円。かなりお買い得と思う。録音も充分によい。
Link : HMVジャパン
ベートーヴェン:交響曲全集 ベートーヴェン/交響曲全集 (1980年代) :   
Herbert von Karajan, Conductor
Berliner Philharmoniker
DG : 4392002
カラヤン最後のベートーヴェン交響曲全集。まったく価格の下がる気配のない、クラシックCD業界の金字塔。後光を象徴する、この金のジャケットをはじめて見たとき、正直アホじゃないかと思った。
Link : HMVジャパン
ブルックナー/交響曲第8番 (1988年) : Bruckner/Symphony No. 8 
Herbert von Karajan, Conductor
Wiener Philharmoniker
DG: 4276112
Link : HMVジャパン

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2008年4月 5日 (土)

アイソレーション・トランスと電源ノイズと

IsolationPower ぼくの家はマンションで、眺望はとても気に入っているけれど、オーディオ的な観点では決して最善というわけではない。角部屋なのでオーディオ部屋のとなりには家はない。でも上と下にはべつの家庭がある。そこに住むひとたちへの影響を心配しなくてはならないし、それになにより、電源事情がよくない。

歴代のパワーアンプは、ときどきトランスのうなりを発してきた (ジェフ・ロゥランドの ICE Power の Model 201 だけはうなりを聞いた記憶がなかった)。はじめはそう古いわけでもない自分の家の電源がわるいとは夢にも思わず、販売店やメーカーに見てもらったりもした。まあ、どこも言われることはおなじで、環境によってはそういうこともある、ということだった。


3年間の転勤生活を経てこの家にもどってくるとき、壁紙を変えたりする程度のリフォームをやった。そのついでに、まえから目論んでいたオーディオ専用のブレーカーをつけた。引越しと同時にそのあたらしい電源環境を使うことになったから、専用ブレーカーをつけるまえとの比較とか、そういったことは楽しめなかったけれど、精神的にはとても安らかな (笑) 気持ちになった。

それでもトランスのうなりはときどき発生した。深夜、静かになったときに「ブーン」という低いうなり声が聞こえてくると、なんだかとても気が滅入るものだ。うなったからといって問題があるわけでもなさそうなのだが、そうはいってもやはり気になる。

それが、あるときから状況が変わった。アイソレーション・トランスを導入したのだ。正確にいうと、アンソレーション・トランスは以前から持っていたのだけれど、なんとなく音に力感がなくなるような気がして、結局パワーアンプはつながず、ふだんはプリアンプだけつないで使っていたのだ。

ある日、思いついてふたたび、このアイソレーション・トランスにパワーアンプをつなげてみた。そのまま数日が過ぎて、パワーアンプをつないだことも忘れてしまったころ、気がつくと、そのアイソレーション・トランス自身がブーンとうなっていた。パワーアンプはまったくうなっていない。ためしに再度パワーアンプを壁コンセントに直接つなぐと、やっぱりアンプ自身がうなる。

うなるとはいっても、いつもうなっているわけではない。何日も異常のない状態がつづいたあとで、気がつくとうなっていた、という感じだ。だから、このアイソレーション・トランスを入れたり外したりという実験は、1週間単位でようすを見るという、とても気のながい作業になる。それに1週間起きなかったからといって、これからも起きないという保証もない。

何回か試してみた結果、やはりアイソレーション・トランスを入れるとアイソレーション・トランス自身がうなり、アンプはうならない。アイソレーション・トランスをはずすと、アンプがうなる。ということのようだ。

ここにきてようやく、ぼくは、やっぱり自分の家の電源がまずいのだな、と思うようになった。そして同時に、過去いろいろ対応してくれた販売店、代理店、メーカのみなさんに申し訳ないことをしたな、と思った。

オシロスコープでAC電源の波形を見てみると、なにかおもしろいものが見られるのかもしれないけれど、残念ながら借りるにしてもそのアテがない。

まあ――オーディオ用にブレーカーを増設したからといって、この家、あるいはこのマンション全体で使用している元の電源が変わったわけではない。回路的にはすべてつながっているのだから、やっぱり影響は排しきれないのだろう。

逆に、音質という感覚的な側面以外で、このアイソレーション・トランスがちゃんと仕事をしているんだな、とはじめて実感できた瞬間でもあった。

ちなみに、これは純粋直感中心素人発想 (笑) なのだが、アイソレーション・トランスを入れると音に力感がなくなるという話は、どうも電源に含まれているノイズ成分が、音の力感や、それに似た鮮度感を錯覚させているのではないか、と思うようになった。それは、波形生成ができるソフトウェアなどを使用して、純粋なサイン波を生成した場合と、べつの周波数を重畳させてみた場合とで比較すると、わりと直感的にわかる。もしノイズ成分が人間の聴覚に好影響を与えているのだとしたら、これはまたややこしい話だ。このあたりの議論は、あまり突っ込むと果てしないところにまで行ってしまいそうなので、これくらいに (笑)。

 

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2008年3月30日 (日)

マイク・オールドフィールド / Music Of The Spheres ~ 『天空の音楽』

MusicOfTheSpheres たまたま、前回につづいて “プログレの末裔” というべき新譜が出た。以前ご紹介したマイク・オールドフィールド (Mike Oldfield) の2年ぶりの新作、『天空の音楽』―― "Music Of The Spheres" だ。

2007年の終わりごろから出る出ると言われていながら延期になり、年も明けていよいよ輸入盤が2月に発売確定になったと聞いて予約したら、直前にふたたび発売延期。それだけならまだしも入荷時期はまったく未定ということになってしまった。それで結局、3月に発売された国内盤を購入した。マイク・オールドフィールドの二十数枚あるアルバムのうち、国内盤で買うのは『アイランズ』(1987) につづいて2枚目ということになった――それはもう、20年もまえの話なのだけれど(笑)。


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以前ずいぶん長い文章で書いたように、ぼくにとってマイク・オールドフィールドはとても思い入れのあるアーティストなのだが、じつのところ最近のアルバムはどうも不調だった。2005年の『Light & Shade』は、2枚組という大作ながら、それこそヒーリング・ミュージックというか、なにもないというか、あたりさわりのないBGM集としか思えない内容で、ほとんど聴く気になれなかった。そして、ついに国内版は発売されなかったようだ。無理もないと思う。

だから今回、あたらしいアルバムがリリースされるというニュースを聞いたときにも、期待感よりも一抹の不安感が先に脳裏をかすめたのは事実だし、またそのタイトルが『Music Of The Spheres』という、いかにもという感じのものだったから、ますます不安は募った。しかも、フル・オーケストラによる楽曲だという。行くところまで行ってしまったのかなあ――そんな印象だった。

YouTube につぎつぎと断片がアップロードされていくのを横目にじっと我慢して、3月18日――つまり平日に届いたので、帰宅したあと深夜に聴いた。そして、すこしホッとした。やっぱり最高とは言えないが、すくなくとも前作よりは救いがある。それだけでうれしくなって、リビングで眠りかけている女房に聴かせてみた。すると一聴して、女房は関西弁でこう言った――「このひとは、いつまでたっても Tubular Bells から離れられないんやね

・・・

不覚にも (笑) かえす言葉を失った。まあそうなのだ。そう言われてもしかたがない。冒頭のアルペジオからして、明快に『Tubular Bells』とその世界観を共有している。それでいいじゃないか。と思えるのは、個人的な思い入れを抱いているファンだけで、すこし冷静なひとたちから見たら、もうこの冒頭部分だけで聴く価値を失ってしまいかねない。

ぼくは返す言葉がなかった。「いや、それでも前作にくらべたらだいぶがんばったと思うよ」と、もごもごと弁解したものの、われながら説得力もなにもなかった。

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たまたま、『Music Of The Spheres』のオーケストレーションは、前回ご紹介したイギリスの誇るべき音楽職人、カール・ジェンキンスが担当している。ジェンキンスは、ほぼ同時期に自分の大曲と、この『Music Of The Spheres』を抱えていたことになる。演奏の指揮も、ジェンキンスが担当している。

そのジェンキンスの『スターバト・マーテル』と比較することに意味があるかどうかはわからないが、比較してみるとどうしても『Music Of The Spheres』は聴き劣りがする。『スターバト・マーテル』にはこちらを引きこむような気迫が感じられるのに対して、『Music Of The Spheres』は聴き流せてしまう音楽である。まあ『スターバト・マーテル』が全面的な精神性をかかげた宗教曲である(と確信しつつある)いっぽう、マイク・オールドフィールドの音楽は、30年前からずっと、そうした精神性とは微妙に、しかし明確に距離を置いてきた。その楽天性あるいは娯楽性が大切だと思うからそれはそれでよいのだが。

マイク自身からすれば、フル・オーケストラの楽曲だということで、この作品も大きな挑戦になっているのかもしれない。実際、このアルバムはユニバーサル・ミュージックのクラシック部門からの発売であり、日本でも彼のためのページすら用意されている(ユニバーサル・ミュージックのサイト)

でも、言いづらいのだが、今回の作品で聴き手としてなにかあたらしさを感じるとすれば、このフル・オーケストラであるという点くらいのような気がする。ユニバーサルのサイトではクロスオーバー&サウンドトラックのひとつとして紹介されていて、たしかに映画のサウンドトラックを聴いているような印象だ。ふだん、ほとんどの楽器を自分で演奏して自分で仕上げていくようなひとが、アレンジをほかのひと(ジェンキンス)に託して楽曲を作りあげたということも関係するのかもしれないけれど、いまの音楽として、聴いてただ心地よいというだけではなくもう一歩踏み込んだこだわりがほしい、というのが正直なところだ。

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前回のマイク・オールドフィールドの紹介で、1970年代に活躍したプログレ一族のうち、21世紀に入ってなおコンスタントに新作をリリースしてくれる貴重な存在、という趣旨のことを書いた。彼はすでに、多くの印象的な作品を残してくれている。世間ではただひたすら『Tubular Bells』だけが有名で、それゆえに一発屋と揶揄されたりもするけれど、彼の代表作と呼ぶべきもの、彼にしかできない音楽はけっして『Tubular Bells』だけではなかった。

だから、これから出てくる新作はある意味でボーナスのようなものと捉えるべきなのかもしれない。だいたい年齢ももうとっくに50歳を超えている。いつ引退したっておかしくはない。ただそれでも、そうは思っていても、新作が出るたびになにかこれまで聴いたことのない、なにかあたらしいものを期待してしまうのだ。それはもちろん、マイク・オールドフィールドという音楽家が、ほかにかえがたい稀有な存在であるから、だ。

 

 

Annotation :
Mike Oldfield : HMVジャパンのアーティストページ
Link : HMVジャパン
Mike Oldfield :  Music Of The Spheres
ユニバーサル インターナショナル : UCCS1113
Link : HMVジャパン
Link : Universal Music Japan

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2008年3月23日 (日)

カール・ジェンキンスのスターバト・マーテル

Jenkins-Stabat-Mater カール・ジェンキンスといえば、“アディエマス” プロジェクトの印象が強く、ジェンキンズ個人の名前で、こういう大きな宗教曲を出しているとは知らなかった。今回新譜として出たのは古典的な『スータバト・マーテル』だが、これまでに『レクイエム』はじめ、いくつかの楽曲をリリースしている。


ぼくはジェンキンスの熱心な聴き手というわけではない。実際、「ジェンキンスといえば、“アディエマス”プロジェクト」と言いながら、持っているのは恥ずかしながらベスト盤1枚。何年かまえにこのベスト盤を買ったとき、なにか琴線に触れるものがあれば、個別のアルバムを買っていこうと思ってはいた。結果としてそれなりにこのアルバムを聴く回数は多かったものの、世界を広げていこうとまでは思わなかった。むしろヴォーカルのミリアム・ストックリーのソロ・アルバムに走った。

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今回のアルバムのタイトルである『スターバト・マーテル (Stabat Mater)』はラテン語で、日本語では『悲しみの聖母』と訳される。13世紀カトリック教会で成立した聖歌(詩)であり、磔刑となったわが子キリストを想う、母マリアの悲しみの気持ちがうたわれている。

Pergolesi-Alessandrini この詩に対して、これまで多くの作曲家が曲をつけてきた。たぶん、もっとも有名なのは18世紀のイタリアの作曲家、ペルゴレージだろう。作曲家として有名ということであれば、ほかにもアレッサンドロとドメニコのスカルラッティ親子、ヴィヴァルディ――さらにウィキペディアを調べてみると、ロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランクなど、まさに枚挙に暇がない。そんななかで、後世においてモーツァルトとならび称されるほどの才能を持ちながら、わずか26歳で夭逝したペルゴレージのスターバト・マーテルは、この曲の傑作といわれている。

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カール・ジェンキンズが、そんなスターバト・マーテルに曲をつけ、発表した。冒頭にも書いたように、ぼくは彼がそういった活動をしていることを知らなかったし、多少ともスターバト・マーテルの由来くらいは知っていたので、いったいどんな音楽になっているのか、好奇心を抑えきれなくなった。アディエマスの楽曲は、NHKスペシャル『世紀を超えて』のテーマでも使われたことからわかるように、親しみやすく聴きやすい。その上でキリスト教圏のみならずアフリカ、東洋、中東の音楽を包含して、ポップス、クラシック、プログレ残党の要素が混在する独特の世界を形成している。だが、あれはあくまでもアディエマスの音楽だ。ジェンキンスが真摯に宗教曲に対峙したとしたら、それは精神性を主としたまたまったくべつの世界になるのかもしれない――。

結果はといえば、それはやはり、アディエマスをつくったジェンキンスの世界だった。それどころか、ところどころアディエマスの曲で聴きおぼえた旋律も登場する。スキャット主体で構成されているアディエマスの音楽に対して、ここでは歌詞が聴きとれることが新鮮だった。ギリシャや中東の音楽がふんだんにとりいれられていて、古典的なキリスト教音楽の世界観に、民族音楽的な要素が加わっている。

だからよかったのか、悪かったのか、それは微妙なところだ。1回目は、ぼくはわりとあっさりとこの曲を聴きながした。もしぼくが十代だったら、このボーダレスな世界観には、ひょっとしたら夢中になったかもしれないな、と思った。だがどちらかといえば、いまはジェンキンスの手腕というか、職人芸的な音楽の構築技術に冷静に感心したという印象だった。

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数日おいて、2回、3回と聴きかえすうちに、すこし印象が変わってきた。ジェンキンスの親しみやすい旋律、アレンジの背後に、もうすこしちがうものが聴こえてくるようになった。彼の職人技にやられたのかもしれない(笑)。この音楽をヒーリングのひとつとして聴きながすこともできるが、それだけではすまされないものもたしかにある。終盤、中東の旋律にのって歌われるアラム語のテキストは、意味は英訳でしかわからないけれど、訴えかけてくるものがある。そのあたりをヒントにしてさらに全体を聴きかえしてみると、だんだんと聴きながすのがむずかしくなり、気がつけば聴きいっているということになってきた。

発売元のEMIはこれをクラシック音楽と位置づけているようだが、アディエマスの音楽と同様、このスターバト・マーテルを分類することはむずかしい。ぼくはクラシック音楽も聴くけれど、その観点で聴くと拒絶感を引き起こしやすい。こうしたカテゴライズのむずかしい音楽のうち、耳になじみやすい旋律を持つものは、多くのプログレの末路と同様に、やがてヒーリングミュージックとして分類されるようになる。

それでもいいのかもしれないが――この楽曲にこめたジェンキンスの想いは、いまのぼくにはわからない。単に楽曲の題材のひとつとして、古典としてのスターバト・マーテルが選ばれただけなのかもしれないし、あるいはそれを超えて純粋に宗教的あるいは人間的な姿勢があって創作されたのかもしれない。ぼくは聴き手として後者であってほしいと思うが、それはジェンキンスの想いとはまたべつに、これからの時間が決めていくことになるのだろう。ぼく自身がどう捉えていくのか、ということも、もうすこし時間が経ってみないとわからない。ただすくなくとも、分類に困るような世界を構築し、それでなお一定の “親しみやすさ” と “聴かせる力” を持つ音楽を創造するカール・ジェンキンズは、ときに職人技という表現もしたけれど、ほんとうにすごい音楽家だと思う。

 

 

Annotation :
Karl Jenkins : Stabat Mater 
EMI Classics: 50999 5 00283 2 0 
Link : HMVジャパン

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